SLAB
Space Land Architect Builder 素裸舞
Global Criticism on City, Architecture and Housing 都市建築住宅批評
Clothing, Food, Dwelling and Transportation 衣食住行

「住まう」という行為が、単なる私的な営みではなく、社会そのものの輪郭をかたちづくるものであるとしたら——ジードルングとは、その問いに対して20世紀初頭のドイツが与えた、もっとも静かで、しかし根源的な応答であったのかもしれない。
「Siedlung」という語は、本来「居住地」や「開拓地」を意味する。だが、建築や都市計画の文脈においてそれは、意志をもって配置され、構成された生活の風景——すなわち計画的に建設された集合住宅地を指し示す。低層あるいは中層の住宅群は、互いに押し合うことなく、むしろ間に挿入された緑地や中庭によって緩やかに隔てられ、同時に結びつけられている。そこでは光と空気が均等に配分され、生活は衛生的であることを前提として組み立てられる。建築はもはや偶然の産物ではなく、標準化と工業化を通じて、意識的に「つくられる」ものとなる。
このような思想が切実さを帯びたのは、第一次世界大戦後の荒廃のなかであった。1918年以降の都市には、圧倒的な住宅不足が影のように広がり、人々は住まう場所そのものを失っていた。ここにおいて住宅は市場の問題ではなく、政治の問題として、さらには倫理の問題として立ち現れる。社会民主主義的政策のもと、公営住宅の建設が推進され、ジードルングはひとつの「応答の形式」として大量に現れるのである。
それは同時に、モダニズム建築の実験場でもあった。エルンスト・マイが主導したフランクフルトの計画(写真-1)、ブルーノ・タウトによる色彩に満ちた住宅群(写真-2)、そしてヴァルター・グロピウスらが追求した合理主義(写真-)——それらは単なる様式の革新ではなく、「いかに生きるべきか」という問いへの建築的回答であった。機能主義は冷たさではなく、公平さの言語であり、合理性は効率ではなく、共有されるべき生活条件の平準化を意味していた。

写真-1 エルンスト・マイのフランクフルト集合住宅

写真-2 ブルーノ・タウト設計、田園都市ファルケンベルク住宅の玄関

写真-3 ヴァイマールのバウハウス実験住宅
たとえば、ヴァイセンホーフ・ジードルングにおいては、国際的な建築家たちが集い、未来の住まいのプロトタイプを提示した。(写真-4)そこでは住宅は一つの完成形ではなく、試行されるべき問いそのものであった。また、フランクフルトの一連のジードルングに導入された「フランクフルト・キッチン」(写真 -5)


は、家事労働を合理化し、生活の時間そのものを再編成しようとする試みであり、空間が生活を規定しうることを雄弁に物語っている。
さらに、ブリッツ・ジードルングにおいて見られる鮮やかな色彩は、単なる装飾ではなく、均質化されがちな生活のなかに個の感覚を回復させるための、ささやかな抵抗でもあった。庭園都市の思想と結びついたそれらの住宅群は、自然と人間との関係を再び編み直そうとする意志の表れでもある。
ジードルングの根底にある理念は単純である。「光・空気・太陽」。この三つの要素を、すべての人間に等しく分配すること。それは健康の問題であると同時に、平等の問題でもあった。住宅は商品ではなく、権利である——この認識が、建築を社会改革の道具へと変えていく。
建築雑誌Vol.104, No.1285 1989年5月号
成瀬弘
僕はこの5年あまり,パリでフランス人の〈建築家〉と共同で〈建築〉事務所を運営しているのだが,その事務所の近くにアラブ人の経営する風呂屋がある。ある日,その風呂屋の主人が改装のため〈建築家〉を探しているという話を耳にし,アラブの風呂屋なら何か面白いことができるかもしれないと,シリアなどで見てきたアラプの風呂など思い浮かべながらさっそくでかけてみた。ところがよく話を聴いてみると,主人は確かに〈建築家〉を探しているのだが,設計してくれる人ではなく自分のアイデアを実現してくれる施工屋さんを探しているのだった。これと似た話は時々あって,近くのインド・レストランでも行きつけの韓国料理店でも,僕を〈建築家〉と知って店の改装を頼んできたが,いずれの場合も施工をしてくれということだった。我々の建築事務所の仕事は,施主から依頼された建物を設計し,施工に必要な図面・書類をつくり(特殊な建物に関してはエンジニアリング事務所に構造・設備ときにはディテールまでも依頼する),施工業者を決め,現場の管理とそれに付随する様々なコーデイネーションをすることである。こんなわかりきったようなことを改めて言うのは,最近2, 3の日本のゼネコンの方々とお付き合いさせていただいているのだが,それら建物の専門家であるはずの人々にも,我々の仕事の内容が理解されていないような気がするからである。ましてや日本の一般的な人たちが,〈建築家〉とエンジニアと現場監督と施工をする人などを一緒くたにするのは日常的なことで,そうでなければ〈建築家〉など何をする人かさっぱりわからないといった有様ではないだろうか。
一方フランス人一般に建築家とは何かと尋ねれば,殆どの人がほぽ正確に答えるにちがいない。店の改装ぐらいに建築家などいらないと考える人はいても,建築家に施工だけを依頼するようなことは決してない。このことはフランスにおいては一般的な人たちにも受け入れられるかたちで〈建築家〉という職能が確立されているが,日本をはじめとする国々ではいまだ確立されていないことを示している。僕はヨーロッパの他の国々についてはよく知らないが,おそらくフランスとあまり違わないかたちで職能が確立しているだろう。ヨーロッパにおいて〈建築家〉という職能が何故,どのように,いつ確立したか,その他の国々においてはいまだに,何故確立しえないのか,確立する必要があるのかどうか,は重要な問題であるが,その前にフランスにおいてはどのようにして〈建築家〉になるのかということに触れておきたい。
フランスでは〈建築家〉になるためには,一部の例外を除いて,政府の指定する建築学校を卒業しなくてはならない(’68年まではエコール・ド・ボザールだけだったが,現在はボザールから別れた10数校の国立建築学校と2~3の
私立建築学校がある)。僕は一度もフランスで建築学校に 行ったことがないので正確なことはわからないが,日本の建築学科とかなり趣きを異にするらしい。まず第一に学校には研究室というものはなく,自ずと教授も助教授もな い。教師の大部分は建築事務所をもっている〈建築家〉で, 週に2回ほど4~5時間教えにやってくるにすぎない。フランスでは建築が学問になると考えている人は非常に少なく,おそらく日本の建築学会に相当するものはないのでは ないか。カリキュラムは,構造・設備・材料などは少しずつふえてきてはいるが, 日本に比べたら格段に少ない。そ れでは建築史などの講義が多いかといえば,不真面目な学 生であった僕などより西洋建築史を知らない者が多くいる ことからみて,そうでもないらしい。それでは日本より長い期間(’68年以降短縮されて最低で5年間だが,多くの学生はそれ以上通う)何をしているかが僕の長い間の疑問であったが,おそらくその間おしゃべりの勉強をしているのである。学問にもなり得ない建築を〈職能〉として確立するためには言葉で埋めつくすしかないのだ。フランスはまた,楽器をつくる人よりも澳奏者の方が偉く,演奏者よりも指揮者が,指揮者よりも作曲家が偉いという・ヒエラルキーをつくる国でもある。建物をつくるプロセスの中にも同じようなヒエラルキーはあり,〈建築家〉はコンセプトを 言葉でしゃべる人なのである。また〈建築家〉という職能が成立し得る理由の一つとして,社会的階層の中でエリートであるという点を見過ごしてはならない。事実,僕の友人のフランス人建築家はある建築家を批判するときに「彼の家は自動車修理工場で,〈建築家〉になる家柄じゃない」と言って僕を驚かした。そこでまわりの〈建築家〉たちを見回レてみれば,弁護士・医者・建築家・教師・エンジニア等いわゆるプチプル・インテレクテュエルの息子・娘たちなのである。建築学校に入るためには高校卒業資格さえあればいいので,社会的エリートになれる可能性がある〈建築家〉になろうとして多くの学生が押しかけてもよさそうなものだが,不思議なことにそうはならない。
そろそろ,フランスで確立していると言われている〈建築家〉という職能は一体なのかという問いに言及しなければならない。フランス人は確かに確固とした〈建築家〉像をもっているかのように見えるが,〈建築家〉とは何かと尋ねられたら「建築をつくる人」としか答えられない'だろう。そして建築とは何かという問いに対しては,はっぎりとした答は返ってこないにちがいない。となると〈建築家〉像なるものもあやふやなものにならざるを得ない。だいたい職能などというものは,社会制度を守るために人間が勝手につくりだしたものであり,確固とした何かがあるはずがない。僕の意見としては,アートをつくる人をアーティストというのではなくアーティストによってつくられたものをアートというように,〈建築家〉によってつくられたもの(正確にはコンセプトされたもの)を建築というのであって,建築をつくる人を〈建築家〉というのではない。そうすると〈建築家〉というものから一気に社会性が剥ぎ取られ,〈建築家〉像は単に個人的であやふやなものにおとしめられる。そうした〈建築家〉像を再び社会の枠組みに組み込むためにこそ,フランスの〈建築家〉がもっている言葉と階級制が必要とされたのではないだろうか。しかし何故こんなしち面倒臭いことまでして〈建築家〉をつくりだしたり,〈建築家〉像なるものをうちたてたりしなければならなかったのだろうか。おそらくそれは近代的自我の確立とともに登場してきた現象なのだ。最初に触れたように,ヨーロッパ以外の国々では〈建築家〉像やその職能はいまだ確立されていない。日本では最近ファッションのレヴェルで〈建築家〉像が定着しつつあるようだが,ヨーロッパ型のそれに比べてはるかに軽やか(軽薄)であるし,僕のおふくろのレヴェルまで浸透し得るものではない。そうしてみるとヨーロッパの特殊性が〈建築家〉をつくりだしたと言わざるを得ない。ヨーロッパ人がキリスト教という共同幻想をぶち壊し個の意識に目覚めたときに,その脆い個の不安をおし隠すものとして〈個〉という新たな幻想をつくりだすと同時に様々な活動が始まったわけだが,建築活動もそのうちの一っとしてフェティシズムとナルシズムの投影として登場してきたのではないだろうか。それ以前につくられながら名建築といえるものは数多くあるという反論があるかもしれないが,それは近代人がそれをつくった人たちを勝手に〈建築家〉と呼んだり,できたものを〈建築〉と呼んでいるにすぎず,それが建った当時はそうした意識に支えられてはいなかっただろう。それは単に神殿であり,教会であり,王宮であり,住居であり,市場であったにちがいない。実際僕はパリに来た当初,あちこちの建物のファサードに「建築家 某某」と書かれているのをみて,殆どがつまらない建物であるだけに驚いたものだ。一方パリのノートル・ダムのファサードにそんなはしたない名前など書いてない。その当時の人々は名前を残す必要などなかったのだろう。このことは音楽を見てみればもっとはっきりするように思う。自己幻想を拡大・普遍化するために平均律を編み出し,音を細切れにし,名を残すために採譜法を極度に発達させたクラシック音楽の成立以後,ヨーロッパには民族音楽がなくなってしまった。建築のように確固としてあるわけではない音楽(民族音楽の多くは神や自然に捧げられていて一回性で消えてなくなる)ですら固定化し得たのだから,建築においてはなおさらである。僕はヨーロッパの特殊性と言ったが,これは多かれ少なかれ人類が皆もっているものであり,このヨーロッパ的問題を避けて通ることはできないだろう。ことにヨーロッパ以外で最もヨーロッパ的な世界を具現化しつつある日本では,個性や才能,あるいは真理・美・アイデンテイティー,あるいは「大衆のため」といった論理に拠り所を求めるはた迷惑な建物が
〈建築〉と呼ばれて登場してくるだろう。
さて結論をまとめなくてはならないが不可能に近い。〈建築家〉をなくしてしまえと言うのは簡単だが,〈建築家〉が誕生した所以を明らかにしその構造を解体しない限り,建築家が〈建築家〉と呼ばれなくなっても同じことだと言える。さらに人類は生活するためにだけでなく建物を必要としている(たとえ人類の病としても)し,経済という幻想にもとりつかれている。そんなときに建築家のしなくてはならない仕事とは,外からの解体に抗しつつ内側から建築を解体してゆくことといえよう。そのためには何者でもないことの不安と闘いつつ一切の既成の価値観にとらわれずに, もの・スペースをつくる行為をとおして,今まで見えなかった世界を見えるものにしてゆくしかないようだ。



宙地の間
地球環境時代のモデル建築
渡辺菊眞
グローカル(地球−地域)建築は、地球環境とその内側にある地域環境に二重に適応する建築( architecture adapted to both local and global environment )である。適応はadaptであり、順応(あわせる)と改造(つりくかえる)の意味をあわせもつ。地球と地域の二重環境に順応しつつ、よりよい環境を導出するのがグローカル(地球−地域)建築である。
なぜ地球-地域という二重環境なのか。地域は、私たちにとって馴染みの深い身近な場所である。住む家があり、家を都市が包み、その都市を自然が支える、その総体である。地球は太陽系の惑星・地球である。身近な場所である地域と太陽系の惑星・地球。この二つを並べただけだとそれぞれが違った場所のように感じてしまう。しかし地域は地球上の唯一の場所である。地域では山の端や水平線から太陽が昇り、空を巡って沈む。この時に地域と太陽系の惑星・地球の重なりを感じることができる。「菜の花や月は東に日は西に」、近景に地域の季節の何げない風景があり、その背景に太陽系の情景が描かれる。与謝野蕪村が詠んだ風景はまさに地球-地域の風景である。地域環境たる「ここ」の背後に太陽系の惑星・地球が重なり、重なりの向こうに果てなき「かなた」を感じる。そういった地球-地域環境に私たちは住む。それは地球人たる私たちが生きる原点ではないか。私はその原点に立ち還りたい。地域環境を想うことは地球環境を想うことであり、地球環境を想うなら地域環境を想わなければならない。だからこそグローカル(地球-地域)なのである。
地球-地域環境に生きているのは私たちであり、私たちは人間である。では人間が「生きられる」のはどんな場か。その問いに回答しつつ地球-地域という二重環境の意味を深堀したい。
人間が十全に生きられる空間は二重をなす。上田閑照は人間存在の根本構造を「二重世界内存在」だとする[1]。人間が住む最大の場所は世界であり、その背後には虚空という何もない非場所が重なる。人間はからっぽに支えられた世界に生きている。これが「二重世界内存在」である。絶対的な無のなかにあるからこそ全体性ある世界の輪郭が定まって世界を大切に思って生きるわけである。とはいえ、これは純粋な観念であって「絶対的な無」と言われてもピンとは来ないだろう。ただし、日常を超える「何か」と出会い、その時に日常を大切に思うというのであれば誰しもが思い当たるのではないか。日常を超える「何か」を感じられる場所として聖地がある。深い森に佇みつつ神のおわす山をはるかにのぞむ神社境内で自ずと祈りを捧げたくなること、断崖絶壁に屹立するお堂の情景に思わず身が引き締まること、こうした聖地の体験ののちに住まいのある場に帰還する時の安堵感。これがわかりのよい二重性である。聖地は特殊な空間であるが、もっと身近な場所でも「何か」を感じることはある。ある時に見た夕暮れがいつもとは全く違った色合いにみえて別世界に迷い込んだ感覚に襲われたのちにハッとして我に帰ること、そんな経験は誰だって思い当たるはずである。このような日常を超えた経験があるからこそ普段の生活空間のまとまりやかけがえのなさを改めて感じるのである。このことは20世紀に人間存在をあらためて問うた、マルティン・ハイデッガー、オットー・フリードリッヒ・ボルノウ、ミルチャ・エリアーデらの論考に共通にみられる。人間が存在するためには、「日常的な世界」と「日常を超えたところ」が重なり合う場が必要なのである。
「日常的な世界」と「日常を超えたところ」。これは「水平」と「垂直」という言葉に置き換えられる。クリスチャン・ノルベルク・シュルツは人間が生きられる空間を「実存的空間」とし、その構造を示している[2]。実存的空間は3つの構成要素、①中心(center)と場所(place)、②方向(orientation)と通路(path)、③区域(area)と領域(domain)からなる。中心から放射状に通路が伸び、円盤状の領域が描かれる。場所を起点に通路を介して領域に至る。これは水平的な広がりである。その一方で場所(中心)には垂直軸が立つ。ここにみる水平的な広がりが「日常的な世界」であり、中心を貫く垂直軸は「日常を超えたところ」へ向かう軸である。人間が生きられる空間では「日常的な世界」が水平面をなし、その中心に「日常を超えたところ」に向けて垂直軸がつらぬく。とはいえ、このままでは具体的な空間をイメージできない。
ここで改めて、地球-地域における水平と垂直を見ていく。地域は人間が過ごす身近な場所である。人間が住む家があり、家がたつ都市があり、都市をつつむ自然景観がある。こういった地域を地球が包含する。地球は水平的な広がりの最大領域である一方で、山際の空の広がりや大海原の果てに描かれる水平線を目にするとき、そういった自然景観のさらに向こうに「かなた」を感じることがある。この経験は空や海といった目に見える自然景観を起点としているが、そこで感受されるのは「かなた」という「現実を超える何か」である。自然景観の向こうに「かなた」を感じる経験は地球-地域環境で自身が垂直につらぬかれる経験である。地球は水平世界の最大領域であり、「かなた」を想うことで垂直な開けを導く場でもある。地球が水平と垂直をむすびつけて人間存在が成立する。本書で地球−地域という二重環境を提示した最大の理由はここにある。
人間が生きられるのは、水平と垂直が重なる場である。水平は地域(家、都市、自然)から地球まで広がる領域であり、地球が垂直な開けを導く。では、人間を容れる器たる建築には何が求められるのであろうか。言うまでもなく人間が「生きられること」をサポートすることが建築の役目であろう。これは建築の根源的な役目である。したがってこの役目を果たす姿を見るためには建築の始まり(起源)に遡る必要がある。
森田慶一は「建築論」において、建築起源の二元説に触れている[3]。二元なので根っこが二つある。その一つが「事物的なシェルター」であり、もう一つが「超越的なシンボル」だという。前者は洞窟住居のように厳しい自然から身を守る建築であり、後者はストーンヘンジのような存在である。これは原初のカオス(混沌)にシンボルを配置して秩序あるコスモス(宇宙)を獲得するための建築である(Fig Ⅰ-1)。

FigⅠ-1 ストーンヘンジ 出典=Andreas Volwashsen『COSMIC ARCHTECTURE IN INDIA』
根っこが二つとはいえ、両者は相補的な関係を持っていたはずである。事実、ストーンヘンジがたつ場の近隣に人々が住まう場も設定されていた。カオス(混沌)をストーンヘンジがコスモス(宇宙)に転じることで人々は安心して居住できるわけである。人々は日々暮らす場を基盤としながら時にストーンヘンジに祈りを捧げてコスモス(宇宙)を維持していく。
このような建築の二元的な在り方は起源に限定されることではない。人が社会的存在となって生業を持つと、漁村、農村などの生業に応じた住居群配置とその単位としての住居が形成される。それが舟屋、散居、町家などの地域型住居(生業に応じたシェルター)となる。また、集落・都市には神社、寺院、墓地といった聖なる空間が配置される。原始の巨石とは違うが、聖地という象徴的な空間が場に秩序をもたらす。家(シェルター)があつまって村となり、村を支える自然の大切な場所には神社などの聖地が配される。聖地はその象徴的な構え(シンボル)によって垂直な開けを導く。シェルターを中心とする場と超越的なシンボルの双方があって、ふたつでひとつの全体=「生きられる空間」=コスモス(宇宙)が成立する。
香山壽夫は建築起源のシェルター一元説を否定する。原始の人間がつくりあげた最初の建築は単なるシェルターではなかったことを人類学者のルロワ・グーラン、宗教学者のミルチャ・エリアーデ、建築家のルイス・カーンの言説を援用しながら示している[4]。住居をつくる際に要求されることとして「宇宙の秩序を与える」必要が含まれていること(グーラン)、「住居の建築様式において、宇宙的な象徴が強調される」こと(エリアーデ)、「建築は、大いなる超越に対する高遠な試みであって、最高の宗教的行為である」こと(カーン)、これらの言説は住居と建築が単なるシェルター以上の存在であることを示している。こういった前提にたち、香山は「建築は、私たちの平凡な日常の行為から、根源的な祈りにまで、空間的に働きかけて」くると主張する。
このことを如実に示すのがプエブロ・インディアンによる最初期の住居、ピットハウスである。これは竪穴式住居であり円形平面に4本の柱をたてて中央には火を焚く場、そのそばに大地に眠る先祖と会話するための小さな穴がある。大地に眠る先祖の霊と立ちのぼる煙が天へと抜ける穴が垂直軸をなす。シェルターと祈りがひとつとなった空間でありコスモス(宇宙)をなしている(FigⅠ-2)。

FigⅠ-2 ピットハウス 出典=香山壽夫『建築意匠講義』
プエブロ・インディアンの集落はピットハウスを起点とするものの、のちに住居と祈りの空間は分化していく。具体的に住居は竪穴から地上に上がり段状の集合住宅となり祈りの空間は地下にとどまり「キーヴァ」という礼拝場となる。ここでは、ふたつでひとつの全体がコスモス(宇宙)をなしている。
建築の起源は、ピットハウスのようにシェルターとシンボルがぴたりと重なりあいコスモス(宇宙)を形成するものだったのかもしれない。ただし、住まう場で祈りをささげつつ、そのそばにシンボルを配して村という共同体全体をコスモス(宇宙)にする姿もまた建築の起源であろう。日常を過ごす水平世界と祈りを捧げて垂直な開けを得ること、その両者をむすんでコスモス(宇宙)をもたらすことが建築の起源であり根源なのである。
環境は一つの全体であり部分に分解できるものではない。しかし、全体のなかでの表れとして便宜的に区別することは許されるであろう。本書ではその表れを二つの位相で捉えている。一つが自然環境であり、もう一つが文化環境である。自然環境は、地勢、天候、生物などを含む状況のことである。天候(気候と天気)は建築環境工学において熱、光、風といった要素に分解され、制御する対象となる。文化環境は、地域の風土・歴史に裏打ちされた周辺空間の様態のことである。建築学において都市計画や農村計画の研究対象領域となる。
21 世紀の幕開けに向けて2000年に建築関連5団体により「地球環境・建築憲章」が宣言された[5]。そこでは「持続可能な社会を実現していくことが緊急の課題」であるとし、「建築はそれ自体完結したものとしてではなく、地域の、さらには地球規模の環境との関係においてとらえられなければ」ならないとしている。これは地球-地域という二重環境に建築が適応することの必要性を問うものである。この憲章では創造すべき建築に以下の5つの指針が与えている。
建築は世代を超えて使い続けられる価値ある社会資産となるように、企画・計画・設計・建設・運用・維持される。(長寿命)
建築は自然環境と調和し、多様な生物との共存をはかりながら、良好な社会環境の構成要素として形成される。(自然共生)
建築の生涯のエネルギー消費は最小限に留められ、自然エネルギーや未利用エネルギーは最大限に活用される。(省エネルギー)
建築は可能な限り環境負荷の小さい、また再利用・再生が可能な資源・材料に基づいて構成され、建築の生涯の資源消費は最小限に留められる。(省資源・循環)
建築は多様な地域の風土・歴史を尊重しつつ新しい文化として創造され、良好な成育環境として次世代に継承される。(継承性)
5項目のうち、「自然共生」「省エネルギー」「省資源・循環」の3つは自然環境に適応する建築の在り方が、「継承性」では文化環境に適応する建築の在り方が示されている。なお、「長寿命」は、価値ある社会資産(ストック)になりうることを目指しており、自然と文化双方にまたがる評価軸である。このように、「地球環境・建築憲章」では地球環境時代の建築が自然環境と文化環境の双方に適応することの重要性を説いており、本書が提示する環境の2位相の妥当性を裏付けている。
Ⅰ 註
[1] 上田閑照 『場所 二重世界内存在』 弘文堂 1992
[2] ノルベルク・シュルツ 『実存・空間・建築』 加藤邦男訳 鹿島出版会 1973(原著1971)
[3] 森田慶一 『建築論』 東海大学出版会 1966、pp143-167
[4] 香山壽夫 『建築意匠講義』 東京大学出版会 2009、pp2-23
[5] 『地球環境・建築憲章』 建築関連5団体(日本建築学会,日本建築士会連合会,日本建築士事務所協会連合会,日本建築家協会,建築業協会) 2000
『住宅建築』2026 no.517 202606








Designing with Air: Rethinking Architecture Beyond the Wall | ArchDaily

ブラー・ビルディング、レイク・ヌーシャテル、イヴェルドン・レ・バン、スイス、2002。画像提供:ディラー・スコフィディオ + レンフロー
建築は伝統的に固体の持続性を通じて記録されてきました。私たちは、まぐさ石の重さ、桟橋の質量、壁の抵抗力でこの分野を定義します。軽さが言及される場合でも、通常は減法行為、断面の薄化や荷重の不安定な減少として理解されます。しかし、並行して存在する歴史は、より目に見えず、孤立させるのが難しいものであり、建設の主要な素材が空間を占めるものではなく、空間を通るものである。
空気を媒質として扱うということは、包絡の二元を超えて進むことを意味します。内側と世界の境界は絶対的な境界線ではなく、ろ過と圧力の場となる。私たちは建物を熱弁として見始めます。湿気、速度、熱が単なる背景の「条件」ではなく、形作られる物質そのものである一連の勾配です。
この変化は、キャリブレーションを通じて機能するアーキテクチャを示唆しています。気候がますます不安定になるにつれて、内部を気密性のある皮膚で密閉しようとする衝動は、解決策のようには感じられなくなってきます。建物をその領域の多孔質な参加者として考えると、異なる論理が浮かび上がります。見えない流れを操作することで空間を組織する構造です。
関連記事 なぜ私たちは浮かびたいのか?建築における軽やかさの心理学
インフラとしてのエア

イラン・ヤズドのドウラタバード庭園の風捕り。画像©:Bernard Gagnon、Wikipedia経由CC BY-SA 4.0
ヤズドの土の屋根の向こう側で、ウィンドキャッチャーは都市の大気の延長としてはあまり上がっていない。彼らの高いシャフトは、静かで過熱した通りの空気の上に突き出て、高く流れる潮流を遮断し、家屋や貯水槽、地下の部屋へと引き込んでいく。しかし、ウィンドキャッチャーは圧力、影、蒸発、そして厚い石積みの熱慣性との間でより微妙な交渉を行っている。そこでは冷却は機械の突然の介入ではなく、環境力のゆっくりとした調節によって生み出される。
これらの構造物に建築的意義を与えているのは、形が見えず不安定なものを中心に組織されている点にあります。塔は技術的な補完として建物から離れているのではなく、雰囲気を建築に織り込ませています。空気は区面を通して誘導され、減速され、濃くなり、その動きに応じて建物が形を成します。

カタール・ドーハのスーク・ワキフにある8セクションからなる石造風塔。画像©:ディエゴ・デルソ、ウィキペディアのCC BY-SA 3.0

アルハンブラ。画像©:Berthold Werner(ウィキペディア経由CC BY-SA 3.0)
アルハンブラ宮廷では、石の重い慣性が水の存在によって絶えず侵食されます。代わりに、水は熱的装置として展開され、大理石の盆地に張力をかけられた薄い液体のシートを使い、乾燥したイベリアの熱にさらされる表面積を最大化します。これは微気候の建築であり、太陽に焼けついた外観からポルティコの深い日陰への移行は、意図的な温度低下によって媒介されています。空気はこれらの反射面を通過する際に冷やされ、湿気が加わり、彫刻された漆喰の鋭い幾何学を和らげます。
頭上にそびえるムカルナは光を砕き、室内の表面積を増やし、床から上がる冷たく湿った空気を構造的に受け止めるスポンジの役割を果たします。この雰囲気には特有の音響的特性があり、肌の冷却を映し出す音の抑制があります。

アルハンブラ計画。画像提供:パブリックドメインのウィキペディア
建物は一連の境界線を通り抜けており、そよ風がスクリーンワークを通してフィルターされ、壁の重さによって方向を変えられ、空気がはっきりと重みを持ち、独自の重力を持つポケットの連続を作り出している。それは目に見えないものの空間性であり、部屋の中で最も重要な物質は水の皮膚のすぐ上で起こる蒸発です。

キューガーデンズ・パームハウス。画像©:Diliff(ウィキペディア経由CC BY-SA 3.0)
カーテンウォールが内部を標準化する数十年前、デキムス・バートンとリチャード・ターナーは、帝国とその奪われた植物との境界をほぼ溶けてしまうような構造的薄さに到達しました。造船の論理から借用された鍛鉄のリブは、建物というより張り詰めた膜のような緊張感の中で、6000枚もの手吹きガラスを支えている。

キューガーデンズ・パームハウス。画像©:ダニエル・ケース、ウィキペディア経由 CC BY-SA 3.0
ここでは、アーキテクチャが熱力学的バルブとして機能します。熱は地下のパイプや床格子のネットワークを通って押し込まれ、穴あきの鋳鉄床を通って透き通った皮膚に到達します。この温かさの上昇は空気を目に見える濃くし、結露がガラスや葉に付着し、機械的なものと生物学的なものの区別を曖昧にしている。ギャラリーを歩くことは、ヴィクトリア朝のグローバリズムの湿った縁辺を占めているようなものであり、鉄が蒸気の圧力と熱帯のゆっくりとした重い息遣いによって定義される空間の骨格を提供しているのです。この建物は完全な透明性を求める欲求と、建設された空気の頑固で腐食的な現実との脆く錆びついた妥協点のままです。
ブラー・ビルディング、レイク・ヌーシャテル、イヴェルドン・レ・バン、スイス、2002年。画像提供:ディラー・スコフィディオ + レンフロー
ブラービルディングは反記念碑として機能しています。600トンの鋼を使い、消えてしまう構造物です。ディラー・スコフィディオ + レンフロの「テンセグリティ」フレームワークは目的地ではなく、3万5千個の高圧フォグノズルの供給システムです。
ここでは、伝統的な建築的意図である境界の定義が、相転換の演出に置き換えられています。湖の水は汲み上げられ、ろ過され、霧化され、風の変動に反応する人工的な気象システムを作り出します。雲に入ることは視覚的な完全な崩壊を体験することであり、地平線は消え、建物は目の座標ではなく、皮膚に触れる触覚的な熱変化として感じられる。

ブラー・ビルディング、レイク・ヌーシャテル、イヴェルドン・レ・バン、スイス、2002年。画像©:ノーバート・エプリ、ウィキペディア経由 CC BY 2.5
これは体積のない質量の建築です。霧は根本的な不安定性の媒介であり、音を抑え、身体と地面の関係を溶かす厚いホワイトノイズです。霧の中で空気は不透明な固体となり、肺を占領し髪に張り付く物質となり、ナビゲーションという行為を儚いものとの感覚的な交渉に変えています。維持すべき仮面はなく、水と大気の均衡を維持するための絶え間ない機械的な努力だけがある。「建物」はその闘いの緊張の中にしか存在しない。ポンプが止まるか風向きがアルプスに向かうと、空気が一時的に濃くなりそうな空気の濃さ。
箕浦聖人(みのうらまさと)
1974年生まれ。2級建築士。インテリアコーディネーター
大学卒業後設計事務所勤務を経て、独立ならぬ孤立する。勤務経験に自動車部品の製造業があり、社会と工場の関係に建築の今の時代の見方に思いふけるようになる。著書に「日本人の良いところ」(日本文学館)。美修‐lan(ミシュラン)建築アトリエ の名で広島で活動
奇才のないたまたま都市から外れた郊外の市庁舎の建っている裏の敷地は大都市の非人間的な洒落た純粋主義が建築の流行を引き起こしている。太陽の上る方向、視線の抜ける方向にスカイライトの役目を持った二層吹き抜けの個室を持つ住宅を計画した。街の景色になじんだものの中で唐突なデザインの住宅を提出するのは、それがあるいは<型>といわれあるいは<様式>といわれる、ストック住宅の活用を無視したメーカー住宅の開発の中で、良識的な住宅にかかわらないでいてどうする。
本住宅は前面道路を北側に直角に二本もち、残り二方向は隣接する宅地に囲まれている。日中に階段の光を通じて、夜に玄関(土間)に見るような照明の光を借りて、階段の幾何学的な挿入ガラスの壁と二層吹き抜けの個室が並列している。こうした市庁舎のような公共空間/広場の問題に対し、アイストップとしてまちの活性化を問う。施主の住宅計画は直接工事の時期にはアプローチの計画や駐車場の変更がありえない。そのような予定に対し玄関を土間として大きくする。こうすることですでに住宅単体の中にアプローチを組み込む計画とした。
ル・コルビュジェの建築やバウハウスの教育がルネサンス以来の分析的知性による芸術の展開の流れにあるとすれば、本住宅は感性に基づく発想による新たな数寄の景色である。施主の資金計画/運用がちょうどこのプロジェクトでまかなえない都合に似て、奇抜な住宅といえども、ちゃんと住めなければならない。経営的視点でも総合的な企画でもないとのチェコ・キュビズム(20世紀初頭)での解決とした。まちの人々に愛されためずらしい芸術運動だったと聞く。低層の二階建て。市庁舎のすぐ裏手のよくある住宅地にて今日の建築を占うなどは凶と出るのであろう。4LDKの規模で庭付き一戸建て。駐車場から見える二階デッキのベランダの手すりをステンレスパネルで「レイヤー付き」とした。木造トラスがリビングから吹き抜けの個室まではりいっぱいに2メートルのピッチでかけ渡しており、天井に露出したはりではなくトラスであることが精神的な素材感を演出する。
この課題は目的を「感激するし洒落てもいる」住宅を設計することにある。部分技術である傾斜した壁、ステンレスパイプの三本の柱等施主の依頼によりチェコ・キュビズムはルネサンスから発展して作家とまちが活性化を共有する。ルネサンスから作家とは神を表現するのでなく主観的なものを表現するようになった。格好いい物は、建築家の感性次第で出来る。そうではなくて、いかに毎日のほうに設計で取り組めるかと思う。日常の基盤であり大切な人のために建てた住宅は、日常が些細なことでもあることが原因で、家族に中心はない。今時代がそうであるように、我々はトラブルと近しい日常にいる。大切なのは良識なのである。全体的観念以上に各部分が主張し、相互に影響しあい、その意識を高めるような空間への具体化である。
まちを見下ろす高台からは谷や野の景色に住宅では点景にしかならない。しかしこうして50年の耐用年数を持つ住宅とは、施主にはスタイルとして受け止められる。江戸時代に一般的になる数寄屋は紛れもなく猥雑な経過をたどった。崩壊の初めは90年代、デコンストラクテイビズムはパトロンを失った建築家、行き場をなくした建築の様式が情報化社会での建築のサービスとして始まり、住めればいいとそれ以上求めないインフラとしての建築とはスタイルとして広まっていく。
家族が親子供兄弟のつながりである一方で、仲間という人だけでなくまちや社会とのつながり、自分達だけでなく他人を、もっと言って世の中の弱い立場の人達を助けることに貢献するべきであるところ、脱構築で終わりを縁取った20世紀は、バブル経済崩壊後家族の価値観の多様化として口火を切った。成田離婚をはじめとする家庭崩壊は、自立できない子を狂気にさせていく。混乱の21世紀では、責任を背負うことが道徳なのだとか言っていては質問のための質問で終わる。形や意味やそれらの類似や相反によって様々な語や形を相互に連想させる言葉の豊かさや文法の逸脱を醸しながらでもこうした連合関係に逆らわない建築を作りたい。それが、現代家族のための住居だと思うのである。




New Horizons in Vories Studies 2026.03.31
関西学院大学建築学部ヴォーリス研究センター
〒669-1330 兵庫県三田市学園上ヶ原1蕃








Hôtel de la Paix: An Alternative Approach to Modern Heritage in Togo | ArchDaily
トーゴ共和国(トーゴきょうわこく、フランス語: République Togolaise)、通称トーゴは、西アフリカに位置する共和制国家。東にベナン、北にブルキナファソ、西にガーナと国境を接し、南は大西洋のギニア湾に面する。首都はロメである。

2024年末、首都トーゴの最近改装された植民地時代のパレ・ド・ロメの敷地内でイベントが開催されました。ロメ建築大学の学生たちは、学際的なStudio NEiDAがキュレーションした初のロメ建築交流会(RAL #1)に参加し、講演、映画上映、ワークショップ、建物見学などが行われました。並行展示では、同国の歴史上最も重要な建築が展示されました。このイベントの目的はトーゴの建築遺産を探求することであり、国境を越えて現代遺産の保存について問いを投げかける旅の始まりとなるものでした。パレ・ド・ロメのような植民地時代の建物はより評価され、容易に修復されますが、オテル・ド・ラ・ペーのような放置された現代建築は、かつての活力を取り戻すために創造的でボトムアップのアプローチが必要です。



トーゴは1960年にフランスから独立を果たしました。パレ・ド・ロメは1905年に旧ドイツ植民地政府下で総督官邸として建てられ、独立後も大統領官邸としての機能を継続しましたが、1990年代に荒廃しました。セゴンド・ギヨン建築事務所による5年間にわたる丹念な修復作業により宮殿は復活し、2019年に展示スペース、レストラン、教育スペースとして開館しました。最近保存された歴史的建造物として、RAL#1の理想的な場所であることは明らかでした。
画像ギャラリー





『住宅建築』2026 no.517 202606



























『住宅建築』no.517 2026年6月1日発行










On International Mother Earth Day: Urban Rewilding, Aquatic Ecosystems, and Ancestral Practices for Biodiversity

ワル・ワル農地。画像提供:世界記念物基金
アントニア・ピニェイロ 2026年4月22日
国連の国際母地球デーは毎年4月22日に開催され、「自然と地球との調和を促進する」ことを目的としています。気候変動の緊急性を踏まえ、地球が支えるあらゆる生命形態の保護の課題に対する認識を高めようとしています。これは、経済的、社会的、生態系のバランスを目指すとともに、生物多様性を守るよう世界社会に呼びかけています。生物多様性に対する犯罪には、森林伐採、土地利用の変更、農業の強化、畜産、違法な野生生物取引など大規模な行為が含まれ、これらは国連によって地球破壊の加速要因とみなされています。

生態系、すなわち生物とその非生物環境との相互作用を含む生態系は、特定の気候条件、土壌タイプ、動植物相によって特徴づけられる5つの地理的地域に分類できます:水生、草原、森林、砂漠、ツンドラです。建築や建設の観点から見ると、ほとんどの学問分野の取り組みは都市環境に集中しており、世界人口が80億を超える世界において、さまざまな生活形態を維持するための大規模・小規模の取り組みが行われています。国連によると、この人口のうち約55%が都市に住み、欧州委員会によると「都市」の定義によっては最大85%にのぼります。
国際母なる地球デーにあたり、地域レベルでの生物多様性保全に関する戦略や洞察を探る記事を選集し、しばしば見落とされがちな生態系としての水域や地域社会に基づく伝統的実践に焦点を当てています。
都市再野化:重要な影響を促す局所的な介入
2026年1月29日、スコットランド議会は、新築建物に巣作り用のアマツバリの設置を義務付ける法律を可決しました。これらの中空の建築用レンガは、小さな入口の穴と内部空洞を持ち、これは伝統的なアマツバメが巣作っていた古い建物の空間を模しています。同様の規模で、デザイナーのチェウォン・リー、ザイ・キム、ジョンミン・パクによる「EggNest」という取り組みは、生分解性素材を用いて都市の受粉者生息地を作り出しています。砕いた卵殻と土壌の複合材料から作られ、蝶や花、苔の自然環境を模倣した多孔質構造を形成し、小規模な生態系を生み出しています。これにより、周囲に溶け込んだり分解したりする生分解性素材の開発、都市環境でこれまで認識されていなかった種の生息地を創出したり、都市空間を変革して生物多様性の促進と教育を推進する取り組みが増えています。


SPACE10からビーが帰ってきた。画像:©イリーナ・ブールスマ
自然と共に設計する:コミュニティが都市の生物多様性の管理者となる過程
Immersive Resilience Garden / Changyeov Lee + Studio ReBuild。画像提供:Studio ReBuild
水システムの回復:人間の消費を超えた水生生物の保存
水危機の概念は通常、人間の消費の不足に焦点を当てますが、より広い視点では生態系全体とそれが支えるすべての生命体を考慮する必要があります。水生生態系とは、生物(植物、動物、微生物)が水域内の非生物環境と相互作用する生物群集のことです。水生バイオームには、湖、池、湿地(滞水)、河川や小川(流れる水)などの淡水システムが含まれます。その他の水生生態系には、湿地、湿地、湿地、河口、そして潮間帯、海洋帯、ネリティック帯、ケルプ林、サンゴ礁などの広大な海洋環境が含まれます。地球表面の約70%を覆うこれらの生態系は、水中内外の生物多様性に不可欠であり、自然のろ過や洪水制御などの重要な機能を果たしています。
都市生態系の再生:都市とその水遺産を再結びつく4つのプロジェクト


韓国ソウルの清渓川。画像©:トラバントス:Shutterstock経由
吸収、フィルター、ストア:スポンジ都市が気候変動に適応する方法を示す9つのプロジェクト

前海の貴湾公園は、市中心部を背景にしています。画像©:ホーリー
地球上の生命を守るための遺産、祖先、コミュニティ主導のアプローチ
4月21日火曜日、ユネスコは20の研究機関と共に、文化的または自然的価値で保護された世界遺産、生物圏保護区、地質学的意義が認められた世界のジオパークを含む登録遺跡の保全状況に関する初の調査を完了しました。その結果、これら2,260か所のサイトは1,300万平方キロメートル以上に及び、既知の種の60%を含む地球上の他のどこにも見られないものを含む、非常に高い生物多様性を有していることが示されています。これらの多くの場所は、渡り鳥や昆虫の休息や採餌場として機能しています。世界遺産はまた、人間と環境の関係に関する祖先の知識の宝庫としても認識されており、多様な種の生息地を提供し、多様な生活様式の基準点となっています。これらの場所は野生生物にとって非常に有益ですが、汚染、生息地破壊、気候関連災害、外来種の脅威がますます高まっています。

プトゥコス:土と草の混合で作られた先コロンブス期の家屋。画像提供:ニコラス・バレンシア

イスラス・フロタンテス・デ・アイ・タハラ – プエブロ・マダン(イラク)。画像©:エスメ・アレン

南町邸 / ルーヴィス

© 中村明
建築家によるテキスト説明。 その家は何世代にもわたり同じ家族のものであり、日常や記憶の層を静かに積み重ねてきた。新しい所有者は海外に住んでいますが、彼は譲り受けた場所に強い愛着を感じていたため、手放すことを選びませんでした。売却するのではなく、ROOVICEの「カリアゲ」フレームワークを通じて家を再利用する決定がなされました。このシステムは空き家を改装しサブリースし、所有者が管理の負担なしに物件を保存できる仕組みです。この方法により、家は再び居住可能となりつつ、そのアイデンティティと歴史を保つことができました。

プロジェクトはすでに存在しているものを慎重に読み解くことから始まりました。家を完全に再定義するのではなく、介入はそれを制約するものを取り除くことに焦点を当てました。1階のキッチンは、もともと最も深く暗い隅に押し込まれていた。周囲の仕切りを解体することで、再び日常生活の中心に戻されました。新たにオープンしたキッチンは、かつての畳部屋の中にあったダイニングエリアに面しており、庭に面しています。壁の撤去により構造梁が露出し、新しいカウンターを枠組みとして使われ、囲いを再び導入することなく微妙な境界線を作り出しました。必要に応じて、既存の構造物の横に新しいリサイクルビームを挿入し、補強部分が隠すのではなく見えるようにしました。


小さく分かれた部屋の連続は徐々に解き放たれていった。キッチンへ続く狭い廊下はメインスペースに吸収され、二つの畳の部屋が一体化してチーク材の床で連続したリビングとダイニングエリアを形成しました。元の障子は修復され、内装と庭園の柔らかな区切りが保たれました。

これらの部屋の天井は取り除かれ、高さの異なる層状構造が露出しました。これらの違いを平和化するのではなく、プロジェクトはそれらを受け入れています。キッチンカウンターの上を走る、細いパネル張りの帯と統合照明が導入され、移行を促しました。追加の照明ポイントは梁に直接組み込まれ、将来の居住者が自分の器具で空間を適応できるようにしました。



家のあちこちに、ある種の存在感を持つ要素が残されていました。独特の特徴を持つ元の黄色いキッチンは今も残っています。バスルームでは、引き戸とTOTOシンクキャビネットがそのまま残され、新しいユニットバスが導入され、過去を消し去ることなく機能的にアップデートされました。廊下では、元の二重トイレのレイアウトがより実用的な配置に再設計されました。単一のトイレと二次の洗面台エリアが組み合わされ、収納スペースへと伸びており、そこは現在ランドリールームとしても機能しています。












『竹山聖 建築思想集――都市・身体・可能世界』01
竹山聖
「ではエロスとは一体なんでしょう。滅ぶべき者なのですか。」
「けっしてそんなことはありません ‘」
「ではいったい何ですか。」
「さっきもいったように、滅ぶべき者と滅びざる者との中間に在る者なのです。」
ープラトン『饗宴』より
Then what is Eros? A mortal?
Hardly.
But what, then?
As I said before, intermediate between mortal and immortal.
—Plato: The Banquet

過去は静かに眠りにつくことを許されず、未来は夢の中にとどまることを禁じられる。あら ゆる時間が現在に流れ込む。あらゆる出来事が、場所が、「いまここ」に流れ込む。メディアが意識を加速し、交通の速度が身体を引き裂くだろう。世界は切断され、重ね合わされて、断片の輝きに満ちるだろう。都市の未来は不連続な出来事に溢れるだろう。未完結なオブジェの散乱を誘導するだろう。
不連続点を求めて人は集まり、出来事が出会う。未来の記憶は、異質な事物の衝突の現場、すなわち異なる世界の接触点に育まれることだろう。
The past is not allowed to fall quietly asleep, and the future is forbidden to remain in dreams. All time flows into the present. Every event, every place, flows into the “here and now.” The media will accelerate consciousness, and the speed of transportation will tear the body apart. The world will be severed and superimposed, filled with the brilliance of fragments. The future of the city will overflow with discontinuous events. It will induce the scattering of unfinished objects.
Seeking points of discontinuity, people gather, and events converge. Memories of the future will be nurtured at the sites of collisions between disparate things—that is, at the points of contact between different worlds.
さながらイオン状態の電子の相互交換のように、現代都市はますます各要素の相互作用の量と速度が増大してきた。「未完結な出来事が不連続に連続している」という言葉を、僕はこの 状況に捧げている。すべてのものが未完結な形でしかその存在を許されず、それらが何の脈絡 ももたないかのように不連続に連続している・
もとより、一都市はけっして「全体」ではありえなかった。都市は常に「部分」であった し、これからもありつづけるだろう。なぜなら都市はその出自からして、生産力の過剰を調整し、交換し、分配する機能を与えられ、したがって常に他者一後背地、旅人、神、敵、等々ー と関係づけられる宿命を負って来たからである。
Just as in the exchange of electrons in an ionic state, modern cities have seen an ever-increasing volume and speed of interaction among their various elements. I dedicate the phrase “unfinished events continuing in a discontinuous manner” to this situation. Everything is permitted to exist only in an unfinished form, and these elements continue in a discontinuous manner, as if they held no context whatsoever.
From the outset, a city could never be a “whole.” The city has always been a “part,” and will likely continue to be so. For from its very origins, the city has been endowed with the function of regulating, exchanging, and distributing surplus productive power; consequently, it has always borne the fate of being linked to others—the hinterland, the traveler, the divine, the enemy, and so on.
都市は記憶の織物であり、建築は時間の培養器である。古来、人間の生活を豊かにしてきた 技術の多くは、時間の保存技術であった。調理、そして農耕の技術は、食料の保存(言うまでもなく、それは時間の保存だ)を通して人々を飢えから解放した。建築や都市もまた、政治や宗教といった生産物分配のシステムの器として、さまざまな時間的差異をつくりだす装置であった。
書物は思考の時間を保存し、写真・録音・映画・ピデオ等々もまた、光や音により紡ぎだされた時間の保存装置だ。建築は時代のプログラムを空間化し、空間の構想者のさまざまな工夫によって、さまざまな時間の在り方をも空間化して来た。建築がその構想の次元において時間の空間化が目論まれ、また歴史の流れの中で時間の刻印を受ける存在であるとしたなら、それは記憶の工場でもあって、われわれに時間の厚みを生きることを伝えてくれもするだろう。
The city is a tapestry of memory, and architecture is an incubator of time. Since ancient times, many of the technologies that have enriched human life have been technologies for preserving time. Cooking and agricultural techniques freed people from hunger by preserving food—which, needless to say, is a form of preserving time. Architecture and cities, too, as vessels for systems of production and distribution—such as politics and religion—have served as devices for creating various temporal differences.
Books preserve the time of thought, and photographs, recordings, films, videos, and the like are also devices for preserving time, woven together through light and sound. Architecture spatializes the programs of an era, and through the various ingenuity of its designers, it has also spatialized diverse ways of experiencing time. If architecture is intended to spatialize time at the level of its conception, and if it is an entity that bears the imprint of time within the flow of history, then it is also a factory of memory, one that conveys to us the depth of living within time.
通信・交通手段の発達によって、あらゆる情報へのアクセスが容易になってきたが、その分、情報の断片化もまた進んでいる。むしろ情報の断片化を受容する社会、つまり情報のかけらで良しとする社会が、通信・交通手段の発達を可能にした、といえるかもしれない。われわれはもはや圧縮され、稠密化された情報のかけらしか得ることができないのだ。
われわれはかつてのように、すべての情報を共有する自足したユートピアを描きえないし、描こうとも思っていないだろう。もはや明滅する断片的情報の洪水のさなかに、自分の位置を定めるほかはないのだ。あらゆる情報、世界の全体像などは、現在というすべての時間が流れ込み、共存する状況にあっては、何人も知りえぬことなのであり、それら未完結な出来事が不連続に連続する世界像しか、おそらくわれわれは将来にわたっても共有することができないだろう。情報の未完結性、さらに言うなら、人間存在の未完結性、これが現在というさまざまな時間の共存体の姿を具現している。
しかしながら、事物が遮蔽されることではじめて、関係が明らかになることもある。遮蔽物が想像力をはばたかせるからだ。そしてそれはまた、他者とのコミュニケーションの欲望を際立たせもする。こうした引き裂かれつつ相互にかかわりあう世界を,われわれは生きているのである。
While advances in communication and transportation have made it easier to access all kinds of information, this has also led to an increasing fragmentation of information. In fact, one might argue that it is a society willing to accept this fragmentation—a society content with mere fragments of information—that made such advances in communication and transportation possible. We can no longer obtain anything but compressed, condensed fragments of information.
We can no longer envision—nor do we likely even wish to—a self-sufficient utopia where all information is shared, as in the past. We have no choice but to determine our own position amidst a flood of flickering, fragmentary information. In a situation where all time flows into and coexists within the present, no one can know the entirety of all information or the complete picture of the world; and likely, even in the future, we will be able to share nothing more than a worldview in which these unfinished events continue in a discontinuous sequence. The incompleteness of information—or, to put it further, the incompleteness of human existence—is what embodies the form of this coexistence of diverse moments of the present.
However, there are times when the relationships between things become clear only through concealment. This is because concealment gives free rein to the imagination. And this also accentuates the desire for communication with others. We are living in this world that is torn apart yet mutually intertwined.
時間もまた、微分化されつつある。
書物という形式が発見されて、われわれには世界が書物のように見えてきた。そしてそのようにして「歴史=物語」が書かれた。写真という形式が発見されて、われわれには世界が写真のように見えてきた。それは断片的、部分的であり、不連続であり凍結している。映画という形式が発見されて、われわれには世界が映画のように見えてきた。それは活動的であり、編集可能であり、虚構的現実の夢想に満ちている。ビデオという形式が発見されて、われわれには世界がピデオのように見えてきた。未完結な出来事が不連続に連続し、スローモーションも早回しも巻き戻しも容易な、すなわちあらゆる時間が操作可能な形でパッケージされた現実が出現したのだ。
人類の発見してきたメディアは人間の意識を改革しつつ、新しい世界の認識を開い てきた。建築が時代の空間意識の表象であるという側面を持つ限り、現在という時 間を表象する建築は、未完結な姿を取ることになるだろう。未来の時間は未完の形象の上に訪れる。
Time, too, is becoming fragmented.
With the invention of the book, the world began to appear to us as if it were a book. And in this way, “history = narrative” was written. With the invention of the photograph, the world began to appear to us as a photograph. It is fragmentary, partial, discontinuous, and frozen. With the invention of film, the world began to appear to us as a film. It is dynamic, editable, and filled with the reverie of a fictional reality. With the discovery of the medium of video, the world began to appear to us as if it were a video. A reality emerged in which unfinished events follow one another discontinuously, and where slow motion, fast forward, and rewind are all easily achievable—in short, a reality packaged in a form where every aspect of time is manipulable.
The media that humanity has discovered have transformed human consciousness while opening up new ways of perceiving the world. As long as architecture embodies the spatial consciousness of its era, architecture that represents the present will inevitably take on an unfinished form. The future arrives upon an unfinished form.
「領域」という言葉に対する関心が脳裏を離れたことはない。それは帰属の明らかな、いわば意味の安定している場であり、機能の裏付けをもって建築の主要な空間を支えている。
多くの領域が相互に連関しつつ建築は構成される。ただ、かならずしも機能によっては分類しえぬ領域が存在する。領域相互を結びつけながら、それ自体が自立した空 間であるような。
これが、異質の二者、あるいはそれ以上の領域相互の結びつきをもたらす第三の媒介的空間であって、そこではじめて関係性が生成される。
この媒介的空間は領域相互の連関において極めて重要な役割を果たすのだが、通常、社会から要求されるプログラムに姿を現わすことはない。それは、建築の定義そのものに関わるのであって、建築がいかにあるべきかを追求する過程を通して、建築家が自ら提案してゆくしかない類の空間なのである。
領域相互の連関のさなかに浮かび上がった、関係そのものの場、領域を脱しゆく可能性を持った事物を通してあらわれるダイナミックな力の場そのもの、これを 「超領域」と呼ぼう。
それは「機能なき場」であり、「出会いの場」であり、 「パブリックな場所」 だ。やがて「無為の時間の空間化」、「ゼロスペース」の概念を導きもするだろう。
「超領域」は異なる「領域」が出会い、混じり合い、切り離され、重なり合う流動的な場 だ。異質な事物が出会う場だ。相互に異なる領域から噴出した力の整流器、加速器だ。
どこにも属さず、しかしながらどこにも通じている世界、それが「超領域」と呼ばれる場所の姿だ。開放系の、多様な読み取りを許容する場所だ。他者との交感を果たし、異質な世界との交信を果たしつつ、限りない想像力をかきたてる場だ。「超領域」は、そして言うまでもなく建築は、「想像力解放の装置」なのであるから。
My interest in the term “domain” has never left my mind. It is a space with clear affiliation—a space of stable meaning, so to speak—that supports the primary spaces of architecture, underpinned by function.
Architecture is composed of many domains interconnected with one another. However, there exist domains that cannot necessarily be classified by function alone. They are spaces that, while connecting other domains, stand as autonomous entities in their own right.
This is a third, mediating space that brings about the connection between two or more disparate domains, and it is only there that relationships are generated.
Although this mediating space plays an extremely important role in the interrelationships between different domains, it does not typically manifest itself in the programs demanded by society. It is a space that touches upon the very definition of architecture itself; it is the kind of space that architects can only propose for themselves through the process of exploring what architecture ought to be.
Let us call this “trans-domain”—the very field of dynamic forces that emerges amidst the interconnections between domains, manifested through entities possessing the potential to transcend those domains.
It is a “field without function,” a “space of encounter,” and a “public place.” Eventually, it will likely lead to the concepts of the “spatialization of idle time” and “zero space.”
The “trans-domain” is a fluid field where different “domains” meet, mix, separate, and overlap. It is a place where heterogeneous entities encounter one another—a rectifier and accelerator for forces erupting from mutually distinct domains.
A world that belongs nowhere, yet connects to everywhere—this is the nature of the place called the “trans-domain.” It is an open system, a place that allows for diverse interpretations. It is a space that fosters communion with others and communication with heterogeneous worlds, while simultaneously stirring boundless imagination. For the “Super-Domain”—and, needless to say, architecture—is a “device for liberating the imagination.”
「想像力解放の装置」としての建築は、具体的にはその空間を介して人々の想像力を解放する。空間は、建築的諸要素の関係であり、関係の網目を読み取るシナリオをかくことが、設計という行為の根底にある。
むろんシナリオを裏切るシナリオ、さらに裏切るシナリオ、断念するシナリオ、投げ出されるシナリオ、背反するシナリオ、などなども方法論上の差異であって、ともあれある決断をもって空間は構想され、領域は関係づけられる。
「超領域」は、異質のシナリオの共存する場所と言い換えてもいい。もはや一筋縄のシナリオでは、現代の空間を準備することができない。
Architecture, as a “device for liberating the imagination,” specifically liberates people’s imagination through its spaces. Space is the interplay of architectural elements, and devising scenarios that interpret this network of relationships lies at the heart of the act of design.
Of course, scenarios that betray the original scenario, scenarios that betray those betrayals, scenarios that are abandoned, scenarios that are cast aside, and scenarios that contradict one another are all methodological variations; in any case, space is conceived through a decision, and domains are connected.
“Trans-domain” could be rephrased as a place where heterogeneous scenarios coexist. It is no longer possible to prepare contemporary space with a straightforward scenario.
イヴ・クラインの「空気の建築」には深く魅かれて来た*1。「非物質的領域」に属する空気、火、水などによって構想された建築だ。空気の屋根、火の柱、水の壁、といった具合に。ただし現実には、「空気の建築」はその実現の手続きを痕跡として示す作品しか残っていない。そしてクライン自身、こうした構想のもつ可能性と限界とを、ともに熟知していたに違いないのだ。見えないもの(非物質的領域)を見える形(物質的領域)に転写する、という手続きこそを、イヴ・クラインは生涯かけて追求しつづけたのである。
僕がクラインの作業に魅かれるのも、建築もまた、物質的領域を通して非物質的領域をしめすというプロセスを取らざるをえないからだ。とはいえ建築の場合、「ものの惰性」はとても大きい。物質的領域の論理なくして建築の実現はない。しかも絵画が人間の意識に関わるのに対して、建築は人間の身体(意識を備えた)に関わる。非物質的領域への道のりはますます遠い。意識は非物質的領域を自由に往来するが、身体は物質的領域のくびきを逃れられぬからだ。
意識がいかに仮想現実や映像の世界に遊んでも、身体はあくまでも一個のものであることをやめない。「建築」が生み出す場所や空間が、身体を取り巻く環境である限り、建築はものを通して思考されざるをえず、最終的にもまたものに帰着せざるをえない。クラインの出会った栓桔に、われわれもまた立ち会うことになる。
さまざまなメディアに解体されつつある環境の中にあっても、建築固有の領土はやはり身体に即した空間以外になく、そこを出発点とするよりほかに建築から世界への回路もない。建築は身体に即した環境のメディアである。
I have long been deeply fascinated by Yves Klein’s “Architecture of Air”*1. It is architecture conceived through elements such as air, fire, and water—which belong to the “immaterial realm”—such as roofs of air, pillars of fire, and walls of water. However, in reality, the only works of “Architecture of Air” that remain are those that reveal the traces of the procedures used to realize them. And Klein himself must surely have been fully aware of both the possibilities and limitations inherent in such concepts. It was precisely this process—transcribing the invisible (the immaterial realm) into visible form (the material realm)—that Yves Klein pursued throughout his life.
The reason I am drawn to Klein’s work is that architecture, too, is compelled to adopt the process of revealing the immaterial realm through the material realm. That said, in the case of architecture, the “inertia of things” is immense; without the logic of the material realm, architecture cannot be realized. Moreover, whereas painting engages the human consciousness, architecture engages the human body (endowed with consciousness). The path to the immaterial realm grows ever more distant. This is because while consciousness moves freely through the immaterial realm, the body cannot escape the constraints of the material realm.
No matter how much our consciousness may wander through virtual reality or the world of images, the body remains, above all, a single entity. As long as the places and spaces created by “architecture” constitute the environment that surrounds the body, architecture cannot help but be conceived through objects, and ultimately, it must return to objects. We, too, will come face to face with the cork that Klein encountered.
Even in an environment that is being dismantled by various media, architecture’s unique territory lies solely in spaces attuned to the body, and there is no circuit from architecture to the world other than one that begins there. Architecture is the medium of an environment attuned to the body.
パウル・クレーは「造形のなかの運動と時間」を熱意を込めて語り、「絵を、完結した製品として体験されるものでなく、発生の力がその中に動き、流れ、循環し、衝突し、あるいは和解し、さらに流動しつつある生存として考えた」という*2。この「絵」を「建築」と読み替えよう。空間は力の流れの場であり、建築はそれをもたらす抵抗であり整流器である。
「クレーは、時間というものに対して原理の説明者としてではなく、ほとんど呪術者のような感性を持っていた」*3とするなら、クレーの見ていたのは「無為の時間」だ。 クレーの絵は常に、ものと形のあいだ、静謡と躍動のあいだ、断片と無限のあいだ、線と面のあいだ、有彩色と無彩色のあいだ、意味と無意味のあいだを漂っており、このようなあいだに、僕は「無為」という言葉をあてている。
形のあいだを力が往き来しながら、そのさなかにあいだが、すなわち意味の無重力状態が生まれる。それは時間に追われる日々の生活からの解放の空間でもある。
おそらく人間は「無為の時間」なくしていきることはできないのだ。それはなにかとなにかのあいだの時間であり、どこにも属さない空間を呼び出す。
それはおそらく「屈折」の空間となるだろう 「屈折とは真の原子、弾性的な点である。クレーが能動的、自発的な線の発生要素として浮かび上がらせたのは屈折であって、このようにして彼は、デカルト主義者カンディンスキーとは反対にバロックとライプニッツとの親近性を証明したのである。カンディンスキーにとって、角も点も硬いもので、外部の力によって運動へともたらされる。しかしクレーにとってく無矛盾の非概念的概念>は屈折を経るのである」 とジル・ドゥルーズが語る*4のと同じ意味合いを持って。なにより無為は生の直接性そのものであって、なにかのための時間でも空間でもない。 「無為は労働とのいかなる関係も求めようとはしないこれが無為と余暇との違いだ」と、ヴァルター・ベンヤミンが述べているように*5。
Paul Klee spoke passionately about “movement and time in form,” stating that he “conceived of a painting not as a finished product to be experienced, but as a living entity in which the forces of emergence move, flow, circulate, collide, or reconcile, and continue to shift”*2. Let us reinterpret this “painting” as “architecture.” Space is a field of flowing forces, and architecture is the resistance and rectifier that brings this about.
If we accept that “Klee possessed a sensibility toward time that was almost that of a sorcerer, rather than that of a theorist”*3, then what Klee saw was “time of inaction/Mu-I.” Klee’s paintings constantly hover in the spaces between things and forms, between stillness and movement, between fragments and infinity, between lines and planes, between color and achromatic tones, and between meaning and meaninglessness; it is to these spaces that I apply the term “inaction/Mu-I.”
As forces move back and forth between forms, a space—a state of weightlessness in meaning– emerges within that movement. It is also a space of liberation from the daily grind of life, where we are constantly pressed for time.
Perhaps humans cannot live without “time of inaction/Mu-I.” It is the time that exists between one thing and another, evoking a space that belongs nowhere.
It will likely become a space of “refraction.” “Refraction is the true atom, the elastic point. It was refraction that Klee brought to the fore as the active, spontaneous element of line generation; in this way, he demonstrated the affinity between the Baroque and Lipnitz, in contrast to the Cartesian Kandinsky. For Kandinsky, both angles and points are rigid entities, brought into motion by external forces. But for Klee, the ‘non-conceptual concept of non-contradiction’ passes through refraction,” as Gilles Deleuze states*4, conveying the same meaning. Above all, inaction is the very directness of life itself; it is neither time nor space for any purpose. “Inaction seeks no relationship whatsoever with labor; this is the difference between inaction and leisure,” as Walter Benjamin states*5.
ベンヤミンは無為に関してこうも述べている*6。
無為であるための条件のなかでも、孤独は特に重要だ。いかに些細であったり不毛であったりしようと、すべての出来事から個人的な体験をまず解き放つのは、孤独なのである。なにしろ、孤独は、感情 移入を通して、いかに深層に埋もれてしまいそうな通行人でさえも、個人的な体験に引き入れてしまうのだ。感情移入は孤独な人間にのみ可能なのだ。すなわち、孤独こそが、真の無為にとっての必須条件なのである。
孤独な人間こそが無為の時間に容易に入り込むことができる。日々の生活は社会の中で営まれるのであって、孤独は社会と切断された状態だからだ3無為の時間には孤独が木霊している。
無為の時間を過ごす場所は、都市における微分不能点のようなものではないか、と僕は夢想する。y=f(x)の滑らかな曲線に突如出現する不連続点。微分可能な滑らかな領域と領域を、切断しつつつなぎとめる。 不均質な領域と機能を混在させ、異界と新たな空間的な次元を生成する場所。誰のものでもあり、誰のものでもない場所。自由のありかを自ら発見すべき場所。こうした微分不能点は、いわば裸形の空間であり、空白の場所であり、出来事の出現を待ちうけるばかりか誘起する場所だ。
「超領域」は都市や建築のただなかに生み出される場所であった。今、もうひとつの 微分不能点の可能性を僕は考えている。それはく独身者のためのスタジオ>だ。それは屈折そのものを具現する。
さらにベンヤミンの言葉を引いておごう*7。
無為であることとスタディすることとの近しい関係は、スタジオという概念に具現化されている。スタジオは、とりわけ独身男性にとっては、婦人の寝室に対応している。
経験はどんな結果ももたらさないし、体系ももっていない。経験は偶然の産物であり、本質的な未完結性を帯びている。この未完結であることこそが、無為に過ごす者が好んで引き受けることどもの特徴である。およそ知るに値するであろう物事の収集は、基本的に完結不可能であり、有用かどうかも偶然次第であって、スタディという行為はそのプロトタイプなのである。
く独身者のためのスタジオ>は、無為の時間を捉えることができるのだろうか。
Benjamin also has this to say about inaction*6.
Among the conditions necessary for inaction, solitude is particularly important. No matter how trivial or fruitless they may be, it is solitude that first liberates personal experience from all events. After all, through empathy, solitude draws even the most seemingly insignificant passerby—who might otherwise remain buried in the depths—into the realm of personal experience. Empathy is possible only for the solitary individual. In other words, solitude is the indispensable prerequisite for true inaction.
It is precisely those who are lonely who can so easily slip into moments of idleness. Since daily life is lived within society, and loneliness is a state of being cut off from society, loneliness echoes through these moments of idleness.
I often find myself daydreaming that places where we spend time doing nothing are like points of discontinuity in the city. A sudden discontinuity appearing on the smooth curve of y=f(x). A point that both severs and connects the smooth, differentiable regions.
A place that mixes heterogeneous domains and functions, generating another world and a new spatial dimension. A place that belongs to everyone and to no one. A place where one must discover the abode of freedom for oneself.
Such points of non-differentiability are, so to speak, naked spaces, blank spaces, places that not only await the emergence of events but also induce them.
“Trans-domains” were places created within the fabric of cities and architecture. Now, I am contemplating the possibility of another “indifferentiable point.” It is a studio for single people. It embodies refraction itself.
Let me further quote Benjamin*7.
The close relationship between idleness and study is embodied in the concept of the studio. For single men in particular, the studio serves as the counterpart to a woman’s bedroom.
Experience yields no results and possesses no system. Experience is a product of chance and bears an essential incompleteness. It is precisely this incompleteness that characterizes what those who spend their time in idleness willingly undertake. The collection of things that might be worth knowing is fundamentally impossible to complete, and whether it is useful or not depends on chance; the act of “studying” is its prototype.
Can a “studio for the single” capture this idle time?
*l 『イブ・クライン展図録』、滋賀県立近代美術館、1985年、pp4~8、竹山聖「イブ クラインの”空
間”-”空気の建築”の射程をめぐって一」
*2,3 滝口修造『画家の沈黙の部分』、みすず書房、1969年、pp58~59
*4 ジル・ドウルーズ『襞ーライプニッツとバロック』、宇野邦一訳、河出書房新社、1998、p27
*5 ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論』、岩波書店、1994年、p355、ただし文脈に即して訳しかえてある。
*6 同書、p361、同上。
*7 同書、p353、同上。
*1 Catalogue of the Yves Klein Exhibition, Shiga Prefectural Museum of Modern Art, 1985, pp. 4–8; Sei Takeyama, “On the Scope of Yves Klein’s ‘Space’ and ‘Architecture of Air’ (Part 1)”
*2,3 Shuzo Takiguchi, The Silent Parts of the Painter, Misuzu Shobo, 1969, pp. 58–59
*4 Gilles Deleuze, Folds: Lipnitz and the Baroque, trans. Koichi Uno, Kawade Shobo Shinsha, 1998, p. 27
*5 Walter Benjamin, The Arcades Project, Iwanami Shoten, 1994, p. 355; however, the translation has been adapted to fit the context.
*6 Ibid., p. 361; ibid.
*7 Ibid., p. 353; ibid.予感1989






宙地の間
地球環境時代のモデル建築
渡辺菊眞
はじめに
地球と地域 激しく揺らぐ基盤
私たちはとてつもない「不安な時代」を生きている。
不安の最大の要因は「地球」と「地域」である。
「地球」への不安とは、地球温暖化、気候変動への不安である。この間、世界中で数々の異常気象現象が引き起こされている。各地域でこれまでは起こることがなかった場所で大きな災害が発生し、多くの人命や資産が失われている。また、生物の生態環境の変化で農産物や水産物など食糧生産にも大きな影響が出始めている。
「地域」への不安とは、「地域」崩壊への不安である。世界中で多くの人々がどこにも故郷を見出せず、根無し草になりつつあるのではないか。とりわけ、世界に先駆けて減少社会へ突入した日本では,地方の過疎化は「限界集落」を超えて「消滅集落」の段階に突入しつつある。大都市は根無し草の坩堝であり、地域社会(コミュニティ)というものを見出すことさえ難しく、見出せたとしても、きわめて脆弱で希薄なものなってしまっている。
すなわち、世界中で私たちが生きていくために拠って立つ基盤が大きく揺らぎ失われつつあるのだ。
グローカル(地球−地域)建築へ
「地球」と「地域」に根をはって生きるための枠組みが必要なのではないか。そして、その枠組みを具現化する建築を設計しなければいけないのではないか。私は建築家として、そう思うようになった。秋田の角館、高知などで「地域」文化の消滅の危機に向き合い、海外のウガンダ、ヨルダン、タイでは「地域」と「地球」の問題に直面しながら、建築を実践し考えつづけてきた。
本書は、その問いに対するひとつの回答である。
めざすべき建築を「グローカル(地球–地域)建築」と呼ぼうと思う。
建築を成立させる基盤は太陽系の惑星・地球である。地球は地軸を傾けて自転しながら太陽の周りを公転する。この結果、地球上にはさまざまな気候帯が発生する。地球には緯度経度という球体分割グリッドがあるが、緯度が南北指標、経度が東西指標であり、緯度経度グリッドには必然的に東西南北の方位が備わる。このグリッドは、直交グリッドを前提とする均質な立体格子からなる「ユニバーサルシステム」とは全く異なる。「グローカル(地球-地域)建築」は、地球の緯度経度グリッドを基本座標とする。
地球温暖化に対しては化石燃料に依らない再生可能エネルギーへの転換が求められているが、第一に、建築システムとして自然を充分に活かして快適性を得る工夫、仕組みが必要である。太陽の熱と光、そして風を建築によってコントロールして快適性をうる仕組みがパッシブシステムである。この仕組みには予め太陽系の惑星である地球のシステムが織り込まれている。なぜなら、パッシブシステムは冬至や夏至の南中高度の違いに応答した断面計画で日射の遮蔽や取得を行うことを基本とするからである。
第二に、地域の建築についても太陽系の惑星である地球環境システムが大きく関わっている。地球のそれぞれの地域には、緯度経度による気候の差異があり、地表には多様な地形が刻まれ、様々な生物が生まれてきた。伝統的な地域空間の個性の根源は,太陽系の惑星地球がうむ気候の差異と地表地形の差異,そこで生きてきた生物圏の重ね合わせである。
「ここ」と「かなた」をつなぐ
地球上の唯一の場所として「ここhere」がある。地球に支えられた「ここ」が「地域」である。地球に支えられたさまざまな「地域」が「生きられる場=フィールド」となる。グローカル(地球-地域)建築は、パッシブシステムによって自然環境に適応し、地球上にある場=フィールドの読解にもとづいて設計される。それ故、グローカル(地球-地域)建築は、全体として地球環境システムに適応する建築となる。
しかし、それだけではない。
均質な立体格子の「ユニバーサルシステム」が「見えなく」してしまった極めて本質的なことがある。それは、日常を超えた何かを想うこと、「かなたbeyond」へ思いを馳せることである。私たちが家に住み、家を都市が包み、その都市を自然が支える、この総体が「地域」であるが、「地域」が「地域」として自律していくためには「かなた」が必要である。
自然景観を構成する山々や大海原、その果ての山の端、水平線に空が接する風景、自然景観のさらに向こう側 に「かなた」を想うことは、日常を基盤としながら次元を違えた質へと向かうことである。これは均質性を前提とする「ユニバーサルシステム」にはありえない。
大地に柱や石を打ち立てて、果てない空を大地にむすびつけることが建築の根源的役割である。この根源があるからこそ、自然景観の向こう側に次元の違う「かなた」を想うことができる。私たちは「ここ」と「かなた」が重なる場でないと生きてはいけない。このことは 20 世紀を代表する数々の哲学者や思想家が力説したことでもある。「かなた」があることで、「ここ」の輪郭が定まり、「ここ」を大切にして生きていくことができる。「ここ」しかないと思えば「ここ」も見えず、そのために「ここ」だけよければよいという、自己中心的な思考に陥り、自己主張のみの「ここ」同士の軋轢だけが加速する。近代が放り投げてしまったものが「かなた」への接続である。グローカル(地球-地域)建築は「かなた」への接続を奪還する。地球に支えられた「ここ」にいて、「かなた」へと接続する、それがグローカル(地球-地域)建築である。
めざしたいのは,均質な「ユニバーサルシステム」ではなく、地球の「ここ」と「かなた」をつなぐ「コスモス(宇宙)」である。
「宙地の間」―地球人のコスモスを建築するー
本書のタイトル「宙地の間」は、「そらちのま」と読む。私の自邸をそう名付けたが、読みは造語である。「宇宙」は、中国で古くから使われてきた概念である。空間と時間の総体を表す。宇(う)は「宀」であり、屋根である。すなわち、覆われた空間の広がりを示す。宙(ちゅう)とは、空(そら)にとどまっているもの、とぎれない時間を示す。「空中」「天」「虚空」という意味もある。「宇宙」から、屋根を取り去って「宙」とし、「宙」と「地」をつなぐ。地球人たる私たちにとってのコスモスは「宇宙」ではない。大地に足を踏みしめて限りない宙の下で生きること。それが「宙地の間」であり、私たちのコスモスである。「地球」という「母胎」に依拠しながら「地域」で自律的に生きられる「場」をどう創るかを強く問いたい。それをめざす「グローカル(地球-地域)建築」である。
本書ではその設計手法を具体例とともに示したい。
「Ⅰ.グローカル(地球-地域)建築」では、「グローカル(地球-地域)建築」とは何かを示すとともに、この建築を背後で支える思想について議論する。
「Ⅱ.環境に適応する パッシブシステムとフィールド」では、「グローカル(地球-地域)建築」の設計の基本原理となる、環境適応手法の二つの位相、すなわち、パッシブシステムの導入とフィールドの読解について解説する。そして、両手法の「かなた」を引き寄せることを可能にする「地球感受の空間」のあり方を示す。両手法は、「グローカル(地球-地域)建築」の要となる手法である。
「Ⅲ.グローカル(地球-地域)建築をめざして 建築作品とプロジェクト」では、筆者が手掛けた10の建築作品およびプロジェクトを5つのグループに分けて紹介する。ここで、「めざして」とあるのは、地球−地域建築は、いまだ発展途上であること、さらには、完成して固定されるものではなく常に更新されるべき建築であることを意図している。
「Ⅳ.グローカル(地球-地域)建築の設計手法」では、グローカル(地球−地域)建築の設計は二つの環境適応に「地球感受の空間」を重ねることを基盤にすることを段階的に示し、その「つりりかた」や、風景化のあり方についても論じる。
「Ⅴ.グローカル(地球-地域)建築のコスモロジー」では、グローカル(地球-地域)建築が地球を基盤に据えたコスモロジーに支えられていることを確認するとともに、そのコスモロジーこそ、これからも地球人が地球に生き続けるために必要であることを示す。

Goethe Institute Senegal by Kéré Architecture, 2026. Image © Sylvain Cherkaoui
ケレ建築によるセネガルのゲーテ研究所、2026年。画像 © Sylvain Cherkaoui
Written by Antonia Piñeiro アントニア ピニェイロ 2026 年 4 月 16 日
2022 年 2 月、ケレ アーキテクチャーによって設計されたダカールのゲーテ インスティトゥートの建設が始まりました。 1978 年からセネガルに存在するゲーテ インスティトゥートは、この新しい建物によってドイツ、セネガル、西アフリカの文化的つながりを強化するマイルストーンを迎えています。アフリカ大陸初の専用ゲーテ・インスティテュートとして、創造産業の支援と知的交流の促進への長期的な取り組みを具体化しています。 2026 年 4 月 16 日から 18 日まで、ゲーテ インスティトゥートは新本部の落成を記念する一連のイベントを開催します。

2022 年プリツカー賞受賞者であるブルキナファソの建築家フランシス ケレによって「交流、イノベーション、持続可能な協力のためのプラットフォーム」として設計されたこのセンターは、地元の材料と生物気候原理の使用を通じて、伝統的な職人技と材料の革新を組み合わせています。この建物は、大西洋、シェイク アンタ ディオプ大学、レオポルド セダール サンゴール美術館に近い 2,700 平方メートルの敷地にあります。このデザインは、周囲の環境に合わせて形作られ、地元のラテライトから作られたレンガで構築された現代アフリカ建築を体現しています。

Goethe Institute Senegal by Kéré Architecture. Section, 2022. Image Courtesy of Kéré Architecture
ケレ建築によるゲーテ・インスティテュート・セネガル。セクション、2022 年。画像提供:Kéré Architecture

ケレ建築によるゲーテ・インスティテュート・セネガル。 1 階平面図、2022 年。画像提供:Kéré Architecture
この 2 階建ての建物は、Rebuild.ing のドイツ人エンジニア、ダカールを拠点とする Worofila の建築家、地元の企業や職人らの緊密なコラボレーションの結果です。生活と対話のための空間として構想されたこの施設は、中央のバオバブの木を中心に構成されており、アフリカの知識を紹介する図書館など、学習、創造性、交流に特化した多目的スペースを備えています。 1 階には講堂、カフェテリア、図書館があり、2 階には教室とオフィスがあります。アクセス可能な屋上にはイベント用の追加スペースがあります。 2026年4月16日から17日まで、ダカールのゲーテ・インスティトゥートは、講演、パネルディスカッション、ガイド付きツアーを含む一般公開プログラムを提供します。


Jan van Riebeeck
世界分割(デマルカシオン)の最前線
The Front Lines of the War to Divide the World(Demarcation)
-17世紀・オランダ・ケ-プ・バタヴィア・トンキン・出島-
-17th Century, Netherlands, Cape, Batavia, Tonkin, Japan-
世界の海をつないだ航海者たち
Navigators who connected the world’s oceans
クリストバル・コロンのグアナハニ(サンサルバトル)島到達(1492)以降,日本がヨ-ロッパ世界と初めて接触したのは,よく知られるように,中国のジャンク船に乗った3人のポルトガル人が種子島に漂着した1543年9月とされる。種子島の領主,時堯はこの招かれざる来訪者を手厚くもてなし,火縄銃(マッチロック式マスケット銃)と黒色火薬の製造法を学んだ。この火器の伝来が織田信長の天下統一に大きな役割を果たすことになる。
同じ年,ニュルンベルグでコペルニクス(1473-1543)の地動説(『回転論(天球の回転)』De Revolutionibus Orbium Caelestium)が出版されるが,日本の歴史のコペルニクス転回もまさに1543年に始まったといっていい。鉄砲伝来に加えて,キリスト教の伝来がある。日本へのグロ-バリゼ-ションの波の最初の到達であった。
コロンの「新世界」の「発見」によって,ポルトガルとスペインは,ローマ教皇アレクサンデルⅥ世を仲介として,トルデシーリャス条約(1494)を結ぶ。すなわち,ベルデ岬諸島から西370レグア(リーグ)の子午線(西経46度37分・東経133度23分)を境界線として東をポルトガル領,西をスペイン領とするデマルカシオン(世界分割)協定を結んだ。日本の標準時子午線は東経135度(明石)だから,この時,日本は子午線の東はスペイン,西はポルトガルの領分となったわけである。16世紀の「世界」の歴史は,ヨーロッパでは両国の世界分割戦として記述されることになる。
17世紀に入って,この両国に割って入ることになるのが,トルデシーリャス条約の埒外に置かれたオランダ,イギリス,フランスなど他のヨーロッパ諸国である。その先駆けとなるのがイギリス東インド会社EIC(1600年設立)であり,オランダ東インド会社VOC(1602年成立)である。各国が「東インド会社」を設立するが,最初のヘゲモニーを握ったのは,スペインからの独立戦争を勝ち取ったオランダ(ネーデルラント連邦共和国)である。17世紀はオランダの世紀である。オランダ船リ-フデde Liefde(慈愛)号が豊後の臼杵湾黒島に漂着したのは1600年である。本書が起点とするのは1600年である。
ポルトガル船の種子島漂着からちょうど100年後の1643(寛永20)年,平戸オランダ商館が閉鎖され,出島に移転した直後,第10代オランダ商館長(第2代(実質初代)長崎オランダ商館長 1641年11月1日-1642年10月29日),そして第12代(第4代長崎)オランダ商館長(1643年8月1日-1644年11月24日)を務めるヤン・ファン・エルセラックJan van Elseracq / Elzerachの2度目の着任に随行して赴任したヤン・ファン・リ-ベックJan van Riebeeck(1619-1677)というオランダ人がいる。本書は,「オランダの世紀」をアジア海域に生きたこのヤン・ファン・リ-ベックというひとりのオランダ人をめぐる「物語」である。
リーベックは,ユトレヒトの南に位置するクレンボルフ Culemborgで1619年に生まれ,21歳でVOC職員となって外科医の助手としてバタヴィアに赴任した。その能力を評価され,商務員に昇任,出島に滞在したのは1年に満たないが,東京(ハノイ)で商務員としてて交易に従事した(1643-48)。トンキン交易の確立にリーベックは大いに貢献するが,不正蓄財を問われて解雇され,オランダに強制送還される。詳細は本論に委ねるが,その東インドでの「経験」を買われて再び東インドへ向かうことになる。その「経験」とは,バタヴィア・出島・東京でのVOC商務員としての実績と,強制送還の途次にテーブル湾で遭難したハーレム号の救出に当たった際の現地探索の「経験」である。VOCは,ケ-プに中継基地を建設する責任者にリーベックを選任するのである。
ケープタウンの建設は本書の大きな焦点である。農耕を知らない先住民の土地に植民拠点をいかに構築するかについて,その最初の10年,その最前線で指揮を執ったのがリーベックである。彼は,日誌,報告書の形で,その過程について膨大な記録を残している。如何に食糧を調達するか,先住民との関係を如何に構築していったのか,自給自足世界の構築は何故挫折したのか,何故奴隷を導入せざるを得なかったのか,都市の起源,そしてそのグローバルなネットワーク形成をめぐる基本的な問題を知ることができる。
そして,東西交易と海禁,「海洋自由論」(フーゴー・グロティス)vs「海洋閉鎖論」(ジョン・セルデン),国際法(万民法)と自国法をめぐる様々な出来事は,まるで,世界分割の帝国主義時代に戻るかのような今日の国際関係の起源を思い起させる本書のテーマである。
ケ-プタウン建設の任務を果たしたリーベックは,その後,マラッカに赴任,最後は1677年にバタヴィアで死んだ。その墓石は,現在,ケープタウンの南アフリカ博物館に,妻マリアの墓石とともに収蔵されている。

Contemporary Ecuadorian Architecture: Connecting Materials, Environment, and Culture
エクアドルの現代建築: 素材、環境、文化をつなぐ |アーチデイリー

Casa Toquilla, RAMA Estudio, Portete Island, 2021. Image © Francesco Russo
カーサ・トキージャ、RAMAエストゥディオ、ポルテテ島、2021年。画像© Francesco Russo
エクアドルの領土には、太平洋岸からアンデス山脈の頂上、広大なアマゾン熱帯雨林、そして火山のガラパゴス諸島に至るまで、驚くほど多様な景観が広がっています。国の各地域は、さまざまな環境、文化、社会的背景に反映された独自の特徴を示しています。ラテンアメリカの建築は先祖代々の豊かな伝統、土着の建築技術、地元の材料に根ざしていますが、現代のエクアドル建築は、これらの要素と実際の需要を融合させた進化するアイデンティティを表現しています。伝統と革新、地域資源と現代技術は、社会的責任と美学とともに、自然環境、都市状況、社会的背景と相互作用します。
デザイン、環境、文化の相互作用を通じて、現代建築は何百万もの人々の生活を形作り、私たちが住む空間内で経験を生み出し、記憶を保存します。エクアドルの建築家は、地域社会への奉仕、教育や文化的目的の支援、あるいは個人のニーズへの対応など、分野の境界を拡大するよう努めています。創造的なソリューション、技術スキル、文化的感性によって定義される建築に関する議論に直面して、材料を使った実験はコミュニティ間のつながりを構築するのに役立ち、単なる環境上の利点以上のものを提供します。






H.P.ベルラーヘからOMAへ
投稿の編集 “低地・社会住宅・スーパーダッチ” ‹ SLAB — WordPress
布野修司
オランダ(ネーデルラントNederland)がスペイン・ハプスブルグ朝(1516~1700)から独立したのは80年戦争(1568~1648)中の1588年とされる。周辺諸国に承認されるのは1648年のウエストファリア条約によってであるが,カルロスⅠ世(1516~1556)そしてフェリペⅡ世(1556~1598)の時代に最盛期を迎え「太陽の没することのない帝国」と呼ばれるスペイン王国の無敵艦隊がイギリスに敗れたのが1588年である。スペイン帝国は,17世紀以降,徐々に弱体化していくことになる。そのスペインに代わって世界史の主役に躍り出たのがオランダである。

| 図2-3① シモン・ステヴィンの「理想都市」モデル Royal Library The Hague |
オランダは,独立を宣言すると,すぐさま海外進出を開始し(遠国会社1595など先駆諸会社),先行するポルトガルとスペインのデマルカシオン(世界分割)戦に割って入った。デマルカシオンとは,クリストバル・コロン(1451~1506)がグアナハニ(サン・サルバドル)島を発見した2年後の1494年,ローマ教皇アレクサンデルⅥ世(1431~1503 位1492~1503)の仲介でトルデシーリャス条約を締結,ヴェルデ岬諸島の西370レグア(約2000km)を通る子午線(西経46度37分)の東をポルトガル,西をスペインの領域とすることを決めたことをいう。この時,日本は標準時子午線(東経135度)が通る明石付近より東はスペイン領,西はポルトガル領に分割されたことになる。
オランダは,ポルトガル・スペイン両国の植民拠点をも襲いながら,世界最初の株式会社である連合オランダ東インド会社VOC(1602~1799),また,続いて設立されたオランダ西インド会社WIC(1621~1791)によって,ジャワ,モルッカ諸島,マラッカ,台湾,ギニア,ケープ,そしてブラジルなどに次々植民拠点を築いて一大海洋帝国を形成する。アメリカ合衆国のニューヨークも,その起源はオランダが植民拠点としたニューアムステルダムである。「近代世界システム」(I. ウォーラーステイン)の最初のヘゲモニーを握ったのはオランダであり,17世紀はオランダの時代である。
植民都市拠点を建設するために,ライデン大学にオラニエ公マウリッツ公によって,ネーデルダッチ・マテマティークというエンジニア養成機関が設けられたのは1600年である。中心となったのは,当時,要塞技術や建築技術のみならず,あらゆる科学技術に通じ,オランダ科学技術の祖とされるのがシモン・ステヴィン(1598~1620)である。その理想港湾都市計画(図2-3①)は,実際,「東洋の女王」と呼ばれたバタヴィア(ジャカルタ)建設のモデルとされている。
オランダと日本との関係は深く,リーフデ号の臼杵湾漂着(1600),平戸オランダ商館開設(1609)以降,徳川幕府の海禁政策下のもとでも出島のオランダ商館(1641~1860)は幕末まで存続した。西欧世界の情報はバタヴィアから出島を通じてもたらされ,科学技術の知見は蘭学として受容されていった。
オランダは,しかし,18世紀になると,英仏にヘゲモニーを奪われていく。そして,フランス革命(1789)によって革命軍にネーデルラント一帯を占領され(1793),イギリス軍にケープ植民地(1795),東インド(1811~15)を占拠される。今日のネーデルラント王国(当初ベルギー・ルクセンブルグを含む)が成立するのは1815年のウィーン会議においてである。
こうして,オランダは19世紀前半には海外植民地のほとんどを失う。1975年に独立する南米のスリナムと現在もオランダの自治領として残るカリブ海のアルバ,キュラソーなどの小島を除けば,オランダ領東インド(インドネシア)のみがオランダの植民地となる。「近代世界システム」のヘゲモニーは,大英帝国,そしてアメリカ合衆国へ移行していくことになる。
近代建築運動は,19世紀半ば以降,20世紀にかけて展開されることになるが,オランダは,イギリス,フランス,ドイツに互して,近代建築運動の核のひとつとなる。以下に見るように,オランダ近代建築の父とされるH.P.ベルラーへ以降,アムステルダム・スクール,デ・ステイル,ロッテルダム・スクールなどの集団を組織した建築家たちは,ル・コルビュジェ,ミース・v.d.ローエ,F.L.ライト,W.グロピウスなど近代建築の巨匠たちに勝るとも劣らない近代建築を代表する建築を残している。そして,熱帯のオランダ領東インド(トロピカル・オランダ)でも多くのオランダ建築家が活躍する。その代表がデルフト工科大学卒業の同級生H.M.ポント(1884~1971)とH.Th.カールステン(1884~1945)である。オランダ近代建築の父とされるH.P.ベルラーへもいくつかの作品の設計に関わり,1923年にはオランダ領東インドを訪れて『私の印度旅行―文化と芸術に関する考察―』(Berlage 1931)を書いている。
近代建築をリードしてきたオランダが世界建築の最前線で再び大きな注目を浴びるようになるのは,近代建築の批判が顕在化し,「ポストモダン建築」が称揚される流れにおいてである。戦後ジャカルタで幼年期(8~11歳)を過ごしたレム・コールハウス(1944~)OMA(1975)の登場以降, 意欲的なオランダ人建築家たちが次々に表れて,17世紀に世界の海を股にかけたように,世界各地に注目すべき建築を建設していくのである。
オランダの近代建築の父とされるのがH.P.ベルラーへ(1856~1934)である。日本の近代建築の父とされる辰野金吾(1854~1919)とほぼ同い年,ル・コルビュジェ(1887~1965),ミース・ファンデル・ローエ(1886~1969),ワルター・グロピウス(1883~1969)など近代建築の英雄たちの親の世代である。
ベルラーヘに先行するオランダ(ネーデルラント王国)の19世紀を代表する建築家はピエール・カイペルス(1827~1921)である。ネオ・ゴシック様式のアムステルダム国立美術館(1885),アムステルダム中央駅(1889)が代表作であるが,教会建築を中心に100以上の建築を設計している。オランダ南部のロールモントで生まれ,アントワープの王立美術アカデミーで,ベルギーのネオ・ゴシックの建築家たちに建築を学んだ。1851年以降,ロールモントのタウン・アーキテクトを務めている。ノートルダム大聖堂など数々のゴシック建築の修復で知られるフランスの建築家・理論家ヴィオレ・ル・デュック(1814~79)とも交流があったという。
ピエール・カイペルスのアトリエでは多くの若い建築家が訓練を受け,後継者となった息子のヨセフ・カイペルス(1861–1949)の他,多くの建築家が育っていった。ピエール・カイペルスは,アムステルダム工芸学校でも建築工芸教育に当たった。後述するアムステルダム・スクールの主導者P.クラマー(1881~1961),M.d.クレルク(1884~1923),J.v.d.メイ(1879~1949)はカイペルス事務所の出身である。
オランダで最初の建築団体「建築振興協会MBB」が,王立建築家のJ.D.ゾッヘル (1791–1870)らによって,アムステルダムに設立されたのは1842年である。ただ,王立英国建築家協会RIBA(1832)のように建築家の職能団体でははなく,建築家,エンジニア,建設業者を含む団体であった。カトリックであったカイペルスは,以後も建築家の団体には加わらなかったが,19世紀における建築家養成の中心となったのはピエール・カイペルスであった。H.P.ベルラーヘは,初代会長となるK. d.バゼルとともにオランダ建築家団体BNAを設立する(1908)。MBBは1919年にBNAに統合される。
ベルラーヘは,P.カイペルスと直接の関係はなく,一世代下の息子の世代である。その評価は多様であり,オランダの近代建築の父とすることについては異論もあるが,ベルラーヘを中心に置くことによって,オランダの近代建築の動向はおよそ以下のように理解することができる。すなわち,ベルラーヘは,19世紀中葉に生まれたオットーワグナー(1841~1918)がそうであるように,前近代の様式建築の世界から近代建築の世界への過渡期に位置し,前近代と近代の葛藤の中から,煉瓦造を基本とする「アムステルダム・スクール」と鉄とガラスとコンクリートを基本とする「ロッテルダム・スクール」(「デ・ステイル」グループ・「オプバウ」)が大きな二つの流れとして生まれてくる。それぞれの建築家はその間に位置づけられるが,代表作である「ヒルフェルスム市庁舎」(1931)で知られるW.M.デュドック(1884~1974)のように両派に属さない流れもある。ヒルフェルスム・スクールとも言われるが,日本には大きな影響を与えた。また,ジャワにも「ヒルフェルスム市庁舎」によく似たW.レメイの「東ジャワ総督府庁舎」(スラバヤ)がある。
オランダ建築界は,1920年代以降,全体として,新即物主義,機能主義,合理主義建築の大きな流れに飲み込まれていく,というのが見取図である。
ベルラーへは,アムステルダムに生まれ,オランダ王立美術学校で絵画を学んだ後,チューリッヒ高等技術学院(現スイス連邦工科大学ETHチューリッヒ校)で建築を学んだ(1875~78)。その後3年間,当時の建築家の卵が行ういわゆるグランド・ツアーとして,ドイツ・オーストリアからイタリアなどヨーロッパ各地を旅行している。1881年に帰国,アムステルダムの土木技師T.サンダース (1847~1927)の建築事務所に勤める。そして,アムステルダム市主催の証券取引所国際コンペに応募(一次案)入選(199作品中3位)する(1883)。1884年からはサンダース事務所の共同主催者となる。1885年の証券取引所応募(第二次案)は落選(4位)するが,紆余曲折があって,1898年にアムステルダム証券取引所の実施設計建築家に選ばれることになる。そして独立する。以降,自らの事務所を率いて建築活動を展開することになる。
ベルラーヘの代表作アムステルダム証券取引所が竣工するのは1903年である。インドネシアのスラバヤの生命保険年金協会AMLLビルの竣工(1900)の方が早いことになるが,初期の建築活動のパトロンとなったのは,オランダの保険会社ネーダーランデンのカレル・ヘニーである。ネーダーランデン保険会社の事務所ビルをアムステルダム(1894),ハーグ(1895),ロッテルダム(1910),ネイメーヘン(1911),バタヴィア(1913),ハーグ(1925),ユトレヒト(1930)と立て続けに受注している。オランダ領東インドの仕事もこの保険会社を通じての仕事である。一般に東京駅のモデルになったというアムステルダム駅が竣工したのは1889年である。

| 図2-3② ハーグ市立美術館 H.P.ベルラーエ 1935 |
一方,1902年には,アムステルダム市から自治体に義務づけられた市域拡張案作成の指名を受け,第一次案を作成している。1915年にこの市域拡張案のうち南部地区について承認され,実施に移された。このアムステルダム南部地区拡張計画(1917)もベルラーヘの代表的な仕事である。ベルラーヘは,ウィーンのオットー・ワグナー(1841~1918)同様,アムステルダムのシティ・アーキテクトとして,主要な施設の設計や都市計画に関わるのである。
ベルラーヘの作品は,①歴史様式の時代:T.サンダース建築事務所時代(1881~98),②新しい建築の時代:独立からアムステルダム証券取引所の竣工まで(1898~1903),③アムステルダム証券取引所の竣工以降,第一次世界大戦終結まで(1903~1918),④第一次世界大戦終結以降(1918~34)に分けられる(宇田直史2011)。
アムステルダム証券取引所の第一次案,第二次案そして実施案を見ていくと,①②の推移はおよそ理解できる。折衷様式の第一次案,オランダ・ルネサンス様式の第二次案,いずれも建築様式の選択がテーマとされている。当時は,ネオ・ゴシック様式が支配的であり,ネオ・ルネサンス様式が提起される状況にあった。ベルラーヘは,そうした中で新たな試みを始めるのであるが,大きな方向として,様式に関わる要素をそぎ落としていく過程である。ダイヤモンド労働組合本部(1900)が既にその方向を示している。③は,社会不況そして第一次世界大戦の時代であり,ベルラーヘ事務所は仕事の受注に苦しんでいる。1913年には,オランダの大財閥夫人H.C.ミュラーのお抱え建築家となり(~1919),ハーグに移り住んでいる。一方,公共住宅建設や都市計画の仕事は契約外とされ,この時期,上述のようにアムステルダム南部地区拡張計画に取り組んでいる。ベルラーヘの建築は1910年代末までは全て煉瓦造である。1911年に「流し込みコンクリート工法」による2階建ての実験住宅を試みているが,現場打ちの一体成形型コンクリート構造による新たな表現を試みるのは1920年代に入ってからである。従って,③④の区別は建築構造の変化にも対応している。A.ペレー(1874~1954)による鉄筋コンクリート造の最初期の近代建築とされるフランクリン街のアパートが1903年,シャンゼリゼ劇場が1913年,ノートル・ダム・デュ・ランシーが1923年,鉄筋コンクリート造が一般化していく,その過程の最前線に位置したのがベルラーヘである。そして,新たな方向を示すに至ったのが遺作となった「ハーグ市立美術館」(1935)(図2-3②)である。
ベルラーヘ事務所,そしてその周辺には数多くのすぐれた建築家たちが蝟集した。そうした中から,いくつかのグループが生れてくる。ベルラーヘ事務所に所属した建築家には,J.F.スタール(1879~1940),C.J.ブラーウ(1885-1947),P.ツヴァルト(1885~1977),J.ウィルス(1891~1972)などがいる。
アムステルダムは,その黄金時代,17世紀の半ばから後半にかけての人口はおよそ20万人と推計されている。その後,英仏に追い上げられて衰退していくが,19世紀初頭にもほぼ同程度の人口を維持していた。ところが,産業革命が及び,20世紀初頭には,人口は2.5倍となり,50万人に膨れ上がるのである。流入する労働者の住宅が不足し,過密住宅,衛生悪化,コレラ流行など深刻な住宅問題,都市問題が起こったのは他のヨーロッパ都市同様である。
オランダ政府が逸早く制定したのは,「住宅法」(1901)である。自治体は建築条例を制定し,不良住宅を撤去する権限を得た。人口1万人以上の都市には都市拡張計画の策定義務が課された。当時のヨーロッパで最も進んだ諸政策とされる。さらに,国が低利融資をし,労働者住宅を建設する非営利団体の住宅協会制度が創設された。これがオランダ社会住宅制度の起源となるが,アムステルダムでは,1901年以降,社会住宅が大量に建設された。この建設に関わったのがアムステルダム・スクールの建築家たちである。
アムステルダム・スクールは,その建築理念や理論についてのマニフェストを掲げたグループではない。その名は,ベルラーヘの還暦記念論文集『ベルラーヘ博士とその作品』(1916)で初めて用いられる。中心的指導者もいないとされるが,実質的に主導したのはクレルクであり,クラマー (1881~1961)である。他に,「アムステルダム・スクール」を代表する「海運協会ビル」(1913~16)をクラマー,クレルクと設計したメイ,1918年に創刊した機関誌『ウェンディンヘン(転回)』の編集長を務めたH.ウェイデフェルト (1885~1987),ベルラーヘ事務所のJ.F.スタール(1879~1940),ベルラーヘと共同したことのあるJ.グラタマ(1877~1947)が中心人物としてあげられる。実は,クレルク,クラマーがそうであるように,「アムステルダム・スクール」に加わった建築家には,ピエール・カイペルス事務所出身者が多い。G.F.l.クロアCroix(1877~1923),N.ランスドルプ,J.M.ルートマン,P.フレイネルらかなりの数が参加している。

| 図2-3③ 船の家 J.F.スタール パーク・ミーアウェイク ベルヘン 筆者撮影 |
「アムステルダム・スクール」の名前を国際的に知らしめることになったのはベルヘンの戸建住宅団地計画パーク・ミーアウェイクプロジェクトである(図2-3③)。スタールが組織し,クラマー,メイ,ブラーウの他,A.J.クロプホラー(1877~1923)とその妻M.スタール・クロポホラー(1891~1933)が参加している。そして,一連のアムステルダム市の公営住宅の設計が「アムステルダム・スクール」の代表作となる(図2-3④)。「アムステルダム・スクール」には,アムステルダム市公共事業局に勤める多くのイン・ハウスの建築家たちが参加している。その建築を特徴づけるのは,煉瓦造であり,個性的なファサード表現を基本としていることである。
オランダの近代建築については,日本の近代建築運動の嚆矢とされる「分離派建築会」の創設メンバーである堀口捨己(1895~1984)の『現代オランダ建築』(1924)がある。日本の近代建築の草創期を代表する堀口捨己が,同時代のオランダ建築の動向に大きな関心を寄せていたことは,当時の日本の建築界では,グロピウス,コルビュジェあるいはロシア構成主義への関心が支配的であったなかで,日本の近代建築史にとっても興味深い。『現代オランダ建築』には,アムステルダム・スクールの建築が豊富に取り上げられている。
雑誌『デ・ステイル』がライデンで創刊されるのは1917年である。P.モンドリアン(1872~1944),T.v.ドゥースブルフ (1883~1931),B.v.d.レック (1876~1958)が開始した総合芸術運動であり,画家,彫刻家らとともに,建築家が加わった。主な建築家には,J.J.P.アウト(1890~1963),R.ファン・ト・ ホフ (1887~1976), G.リートフェルト(1888~1964),C.v.エーステレン(1897~1981),J.ウィルスらがいる。

| 図2-3④ デ・ダヘラート・アムステルダム市営住宅 ミシェル・デ・クレルク 筆者撮影 |
「デ・ステイル」の造形理念の中核に置かれたのは,モンドリアンの「新造形主義」である。シンメトリー,自然の形態,自然色を排除し,青,赤,黄の三原色と無彩色(白,灰色,黒)の平面と直交する直線による構成のみを造形の基本とするその方法は,抽象的

| 図2-3⑤ シュレーダー邸 G.T. リートフェルト 1924 筆者撮影 |
な純粋造形論であり,必ずしも,建築の設計方法となるわけではない。それ故,「デ・ステイル」を代表する建築を挙げるのは難しいが,ドゥースブルフが「芸術家の家」(1923)と題する建築のイメージを描いている。あくまでもイメージに過ぎないが,このイメージを現実化したとされるのが,世界文化遺産に登録(2000)されたG.T. リートフェルト(1888~1964)の「シュレーダー邸」(1924)(図2-3⑤)である。小住宅が単独で登録されるのは珍しいが,近代建築史上のインパクトは大きかったということであろう。
機関誌『デ・ステイル』は,1928年まで刊行され,グループはドースブルフの死(1931)まで続いたが,アウト,リートフェルトは,1920年に離脱している。また,モンドリアンも,ドゥースブルフが垂直と水平だけでなく,対角線を導入した要素主義(エレメンタリズム)を主張したことから,グループを脱退する(1925)。1920年代に入ると,オランダの建築家たちは,ワイマール期のドイツの建築家と同様,大きく「新即物(ノイエ・ザッハリッヒカイト)」すなわち機能主義,合理主義の方向へ傾斜していくことになる。その受け皿となったのが,ロッテルダムで,W.クロムホウト(1864~1940)の主唱によって,J.A.ブリンクマン(1902~1949)らに,J.J.P.アウト,エーステルンも加わって結成された「オプバウ (建設,構造)」である。エーステルンは,CIAMの議長を長年(1930~1947)にわたって務めた建築家である。
アムステルダムでは,1927年にB.メルケルバッハ (1901~1961),J.H.フローネヴェーへン (1901~59),J.ダイカー(1890~1935)らによって「デ・アフト (8)」が結成される。そして,2つのグループは1932年に合併して,「デ・アフト・エン・オプバウ」が結成される。
その主張は,「デ・アフトは非美学的であり,悲劇的であり,非ロマン主義的であり,非立体的である」「美しく建てることはできる。だがここしばらくは,劣悪なプランを誤魔化すファサード建築を建てるよりも,格好は悪いが機能的なものを建てるほうが遙かにましなのだ」という「デ・アフト」のマニフェストに端的に示されている。すなわち,様式建築を否定し,「アムステルダム・スクール」や「デ・ステイル」の造形主義,クラフトマンシップを否定し,機能主義,合理主義を全面的に打ち出すのである。「格好は悪いが機能的なもの」というのは謙遜である。「デ・アフト・エン・オプバウ」に結集した建築家たちは,「美しい」「機能的な」一群の建築を残している。
「デ・アフト・エン・オプバウ」すなわちオランダ近代建築を代表する建築とされるのがブリンクマンそしてレーンデル・ファン・デル・フルフト(1894~1936)によるロッテルダムの「ファン・ネレ工場」(1931)である。カーテンウォールの原理を大規模に活用し,外部に開放され,日光を利用して快適な労働環境を提供しており,戦間期のモダニズムかつ機能主義文化の象徴となった新しいタイプの工場の完成度を体現しているとして世界文化遺産に登録されている(2014)。
この「ファン・ネレ工場」の設計に携わったとされるのがマルト・スタム(1899~1986)である。ワイセンホーフ・ジードルングの住宅で知られるが,出展したキャンチレバー構造椅子の特許をめぐってミースv.d.ローエと争ったというエピソードも残している。さまざまな運動グループとつながりを持ったことが知られ,1922年にベルリンのマックス・タウト(1884~1967)の事務所に入所し,ドイツ工作連盟(1907~33)に関わ,その後バーゼルに移り,エル・リシツキー,ハンネス・マイヤーらによって1924年に結成された前衛建築グループ ABC に参加している。また,1928年の近代建築国際会議CIAMの創設にも関与し,ソ連に渡ってマグニトゴルスクなどの都市計画に関っている。
J.J.P.アウトは,デ・ステイル派の理論家として知られるが,造形理論に留まることなく,1918年にロッテルダム市の都市計画主任となり都市計画に関わりながら,建築家として多くの建築を設計している。近代集合住宅の先駆となるロッテルダムのフーク・ファン・ホランドの集合住宅(1924)やワイセンホフ・ジードルングの住宅(1927)など一連の低層集合住宅で知られる。W.グロピウスにも評価され,バウハウス叢書に『オランダの建築』(1926)を書いている。
「ロッテルダム・スクール」という呼称は当時あったわけではない。「デ・アフト」がロッテルダムを拠点としたこと,戦災を免れ,煉瓦造の建築が都市の骨格として残ったアムステルダムに対して,第二次世界大戦の空爆によって徹底的に破壊され,戦後,近代都市として生まれ変わったロッテルダムとの対比から,「デ・アフト・エン・オプバウ」に象徴されるモダニズム建築の流れを「ロッテルダム・スクール」と呼ぶようになるのである。
当時「デルフト・スクール」と呼ばれる,伝統的様式建築を基本とするグループも存在した。「オプバウ」の創立メンバーでありながら,転じたM.J.G.モリエールのような建築家もいる。
ベルラーヘ事務所に所属したことのある建築家にも,「アムステルダム・スクール」に加わったものもいれば,「ロッテルダム・スクール」に加わったものもいる。両派に与することなく,独立して設計活動を展開した建築家ももちろん存在する。そうした中にいるのがW.M.デュドック(1884~1974)である。デュドックは,アルクマールの士官候補学校(HBS),ブレダのロイヤルミリタリーアカデミー(KMA)に学んだ,すなわち軍隊でキャリアを積んだ土木技師である。1914年に退役し,ライデンで公共事業を担当,翌年ヒルフェルスムの土木技師に就任,以降,ヒルフェルスムのタウンプランナー,タウン・アーキテクトとして活動した。都市計画と建築を全体として適合させるべく,ヒルフェルスムの労働者住宅,学校などほとんどの公共建築をデュドックは設計した。代表作がヒルフェルスム市庁舎である。
ネーデルラント王国は,第一次世界大戦は中立を維持したが,第二次世界大戦の勃発翌1940年5月のナチス・ドイツの空爆でロッテルダムは市中心部が消失,壊滅的被害を受けた。政府は降伏,女王とともにロンドンに亡命,全土は占領された。そして,太平洋戦争勃発によって東インドも日本軍に占領された(1942)。アムステルダムは,物理的戦災はほとんど受けなかったが,ユダヤ人迫害で8万人以上の市民が強制収容所に送られたことはよく知られる。
ロッテルダムの戦後復興については,ヴァン・トラールト市都市計画局長などによる提案が知られるが,建築家としてリードしたのは,ブリンクマン社を引き継いだファン・デン・ブローク・アンド・バケマ社(現ブロークバケマ)であり,アルド・ファン・アイク(1918~1999)である。
ファン・デン・ブローク(1898~1978)は,デルフト工科大学教授(1948~)となるが,デ・アフト・エン・オプバウを引き継ぐオランダの近代建築運動ニーウ・バウエン(新建設)の創始者として知られる。
J.B.バケマ (1914~1981)は,アムステルダム建築アカデミーでマルト・スタムに建築を学び,ロッテルダム以前に,アムステルダムの都市計画局に勤務している。チームXのメンバーであり,雑誌フォーラムの編集者としても知られる。2人が協働した作品にはロッテルダムのラインバーン(1953),デルフト工科大学講堂(1958~66),パンパス計画(1965)などがある。
アルド・ファン・アイクは,スイス連邦工科大学チューリッヒ校を1942年に卒業している。戦後まもなく1946~1950年,バケマ同様,アムステルダム市の都市開発部で「スペールプラーツ(子供の遊び場)」計画を担当した後,独立する。アムステルダムの孤児院「子供の家」(1960)が代表作とされる。彼もまた,チームXメンバーで雑誌「フォーラム」の編集委員(1959~1963,1967)をつとめた。また,アムステルダム建築アカデミー(1954~59),デルフト工科大学(1966~84)で教鞭をとった。
バケマそしてアイクにリードされるオランダの戦後建築は,CIAMの機能主義批判に向かう。アルド・ファン・アイクはその方向を「構造主義」と称した(Forum. 1959.07)。建築要素の単純な機能関係ではなく,基本的構成単位を積み重ねることで複合的かつ秩序だった全体性をつくり出す方法を問題とするのである。変化や成長のプロセスを許容しうるダイナミックな新陳代謝の構造を追求したのが日本のメタボリズム・グループであるが,オランダ構造主義の建築家とされるヘルマン・ヘルツベルハー (1932~)は,「構造主義はライフサイクルの長い構造物とライフサイクルの短い充填剤を区別する」というメイジャー・ストラクチャーとマイナー・ストラクチャーを分ける同様な主張していた。
アルド・ファン・アイクが「構造主義」を主張し, メタボリズム・グループが「新陳代謝」建築論を展開する一方,ロバート・ヴェンチューリの『建築の多様性と対立性』(1966)以降,1960年代後半から1970年代にかけて「ポストモダニズム建築」論が展開される。そうした中でレム・コールハウスRem Koolhaas(1944~)が設立したのがOMA(The Office for Metropolitan Architecture)(1975)である。
コールハウスはロッテルダムで生まれ,アムステルダムで育ったが,小説家,批評家,脚本家で父親の仕事に従って,8歳から11歳までジャカルダで暮らしている。19歳で新聞社につとめるが,1968年,24歳になってロンドンのAAスクールに入学する。母方の祖父ダーク・ルーゼンブルク(1887~1962)は,デルフト工科大学,エコール・ド・ボザールで学んだベルラーヘ事務所出身の建築家であり,その影響も大きかったのであろう。AAスクールを終えると,続いて,コーネル大学のO.M.ウンガ―ス (1926~ 2007)研究室(1972~),続いてピーター・アイゼンマン(1932~)が初代所長を務めた都市建築研究所IAUS(1967~)に学んでいる。そして,いきなりの独立である。3人の建築家と共同で,まもなくザハ・ハディド(1950~2016)が加わった(1977~1980)。
OMAという事務所名が示すのは,メトロポリスの建築をターゲットとするということである。コールハウスの名が建築界で最初に知られるようになったのは,均質なグリッド街区に分割されたマンハッタンがどのような原理で存在しているのかを読み解く『錯乱のニューヨーク』(1978)である。抽象的な概念や枠組みによって都市をとらえるのではなく,既に存在している都市空間で異質な機能が衝突し合いながら多様に展開される活動を捉える,その都市読解の方法は,形態の美学よりも活動の体系としてのプログラムを重視するその建築理論にも直接つながっている。近代建築が追求した純粋な建築形式から離れ,現代都市の複雑さをそのまま建築の内部に取り込もうとするのである。

| 図2-3⑥ エヂュカトリアム ユトレヒト レム・コールハウス 1998 |
初期の作品として,ロッテルダムの「ダンスシアター」(1987)などが知られるが,P.ジョンソンが1989年キュレートしたニューヨーク近代美術館の『脱構築主義者の建築』展に,P.アイゼンマン(1932~),F.O.ゲーリー(1929~),ザハ・ハディド(1949~2016),C.ヒンメルブラウ(1942~)D.リベスキンド(1946~),B.チュミ(1944~)らとともに招待されることによって,コールハウスは,建築における「デコン派」の建築家と目されるようになる。コンストラクション(脱構築)は,ポストモダン,ポスト構造主義の哲学者ジャック・デリダ(1930~2004)の鍵概念である。P.ジョンソンがAT&Tビル(1984)でポストモダン建築を主導した建築家と言われるようになるのはこの展覧会を組織したことが大きい。
コールハウスは,上述のように,形態を弄ぶ建築家ではないが,90年代以降のグローバリゼーションの波に乗ることになった。ザハ・ハディドも含めて,OMAスクールは,世界中の都市開発プロジェクトにインヴァイトされるようになるのである。コールハウスには,その理論を具体化する建築として,閲覧,保存,情報検索,読書といった多様なプログラムの組み合わせを再構成する「シアトル中央図書館」(2004)がある。また,「中国中央電視台CCTV本部ビル」(2012)「ザ・ロッテルダム」(2013)のようなオフィスビルとは思えない作品がある。
21世紀に入って,世界建築の最前線をリードする建築家たちは「スーパーダッチ」と呼ばれるようになる。OMA出身の建築家を中心にオランダ人建築家が世界各地で注目すべき建築を次々と実現していくのである。
MVRDVは,ヴィニー・マース(1959~),ヤコブ・ファン・ライス1964~),ナタリー・デ・フリース(1965~)によってロッテルダムを拠点として1993年に設立されたが,いまや300 人を超えるスタッフを擁し,上海,パリ,ベルリン,ニューヨークに支店を置いている。アムステルダムの 高齢者のための100戸の集合住宅「オクラホマ」(1997),ハノーヴァー万博オランダ館(2000)年で注目を浴びて以降,刺激的な作品を作り続けている。
MVRDVと同世代のベン・ファン・ベルケル(1957~)とカロリン・ボス(1959~)が設立した (1998~)は,アムステルダムを拠点に,オースティン(テキサス),ドバイ,フランクフルト,香港,メルボルン,上海に支社を置き,400人以上の所員を抱える。ベルケルはAAスクール,ボスはロンドン大で美術史を学んでいるが,コールハウスがAAスクール出身であることを思えば,21世紀の世界建築の最前線を形成する発信地はAAスクールであり,ロンドンと言えるかもしれない。「メビウス・ハウス (1998)」— 流動的な空間構成。「エラスムス橋 (ロッテルダム, 1996)」
デルフト工科大学出身のフランシーヌ・ホーベン(1955~)に率いられるMECANOO(1984~)は,デルフトに拠点を置き,オランダ,ヨーロッパを中心に活動するが,ロンドン,ニューヨーク,髙雄にも支社がある。デルフト工科大学は,歴史的にもオランダの建築教育の中心であり続けているが,優れたオランダ人建築家を輩出する拠点である。デルフト工科大学図書館
もうひとり,1950年代生まれのウィール・アレッツ(1955~)は,アイントホーフェン工科大学の出身であるが,理論家として知られ,著作も多い。プロフェッサー・アーキテクトとしてAAスクール(1988~1992)ベルラーヘ研究所所長(1995~2002),ベルリン芸術大学(2005~2012),イリノイ工科大学建築学部長(2012~2017)など 多くの大学で教鞭をとってきた。
BIGを設立したデンマークのビャルケ・インゲルス(1974~)もOMA出身である。 デンマーク王立美術院を経てカタルーニャ工科大学で建築を学んだ後,OMAを経て2001年に建築事務所PLOTarchitectsを設立,そして2005年にBGMを設立した。コペンハウス郊外のVM Houses(2008)で注目されて以降,数多くの国際設計コンペで勝利し,2012年に拠点を移した。今や500人以上のスタッフを抱える国際的組織となっている。トヨタ自動車が裾野市(静岡県)の東富士工場を閉鎖した跡地に建設予定の実験都市ウーブン・シティ中の都市設計をBIGが行うことが発表されている(2021)。
「横浜港大さん橋国際客船ターミナル」(2002)のコンペ(1995)で勝利したFAOは,ファシッド・ムサヴィ(1965~)とアレハンドロ・ザエラ・ポロ(1963~)の二人のユニットであったが,ポロもOMA出身であった。1998年にOMAに入所した重松象平(1973~)は,ニューヨーク事務所代表である。
人口約1760万人の小国であるにも関わらず,世界的に著名な建築家を輩出する基盤となっているのは,国土計画,住宅政策,自治体の都市計画にしっかり建築家が位置付けられてきた歴史があるからである。国土計画―都市計画―社会住宅計画が一体的に進められる体制があるからである。
第一に,オランダが「低地(ネーデルラント)」であることが大きい。アムステルダムのスキポール空港が海抜以下(-3m)に位置するように,国土の多くは干拓地,低地であり,治水,防災のための国土計画が大前提となる。ライン川,マース川,スヘルデ川の河口に形作られた三角州は建国以来洪水に悩まされてきた。オランダ中央部の治水対策は,ゾイデル海開発でアフシュライトダイクの建設(1933)で一定進んでいたが,1953年に北海沿岸で発生した大洪水で大きな被害を受けた。それを契機として作成されたのがデルタ計画である。ライン川とマース川の河口三角州の治水対策が計画され,1997年に13箇所の治水構造物の建設計画が全て完工している,建築家が,この治水計画を前提として,都市計画,土木計画,ランドスケープ計画を統合的に考えることが求められるのは当然であるが,国土計画について分野を超えたアドヴァイザリー・ボードが国のレヴェルにあることも大きい。
第二に,オランダが社会住宅(ソーシャルハウジング)国家であるということがある。1901年の住宅法によって,公共住宅建設,住宅協会制度などが設けられ,建築家の設計参加が制度化されたことが大きい。アムステルダム・スクールが実にユニークな集合住宅を設計することが出来たのは住宅法の制定による。20世紀前半には,都市住宅の30〜40%が社会住宅となるが,この制度が若い建築家に大量の設計機会を与えるのである。
第三に,オランダでは公共建築の設計者の多くは設計競技(コンペ)によって決定されるということがある。オランダ建築家団体BNAがその方針を堅持しているのも大きい。若手建築家も公共建築の設計するチャンスを与えることで,時代に流れに即応する新しい建築のあり方を実現する仕組みがある。王立英国建築家協会RIBAをはじめ,世界中の建築家協会が,建築家と言えども事業者である,業務独占は認められないというなかで,建築家の役割を認めてきているのである。
そして第四に,デルフト工科大学を中心とする教育システムがある。建築,都市,景観…を統合して教育する伝統が維持されていることである。デルフト工科大学は世界最大級の建築学部である。そして,オランダには国家建築顧問制度がある。国家建築の質を監督,建築文化を推進する機能を担っているのである。ヨーロッパでもユニークである。
そして第五に,オランダは,都市国家の伝統を維持し,分散的自治組織が機能していることがある。オランダの都市の人口(2023)は,首都アムステルダム93.5万人,ロッテルダム67.1万人,デン・ハーグ50.6万人,ユトレヒト37.4万人,アイントホーフェン24.7万人である。各都市自治体で,建築家,大学,行政,デベロッパーが一体的に都市計画を推進していく,そういう仕組みが出来上がっているのである。
堀口捨巳(1924)『現代オランダ建築』岩波書店
J.J.P. OUD(1926)“Holländische Architektur”,Bauhausbücher
Singelenberg, Pieter (1972): H.P. Berlage. Idea and style. The quest for modern architecture, Utrecht, Haentjens Dekker & Gumbert
Kohlenbach (1991): H.P. Berlage: Schriften zur Architektur, Birkhäuser Basel.
Molema, Jan (1996) “The New Movement in the Netherlands 1924-1936”, 010 Publishers.
Hendrik Berlage (1996): Hendrik Petrus Berlage: Thoughts on Style, 1886-1909 (Texts & Documents), The Getty Center For The History Of Art.
Oers, Ron van (2000) ‘Dutch town planning overseas during VOC and WIC rule (1600-1800), Walburg Pers.
Sergio Polano, Giovanni Fanelli, Vincent Van Rossem (2002) : Hendrik Petrus Berlage, Phaidon Press.
宇田直史(2011)『H.P.ベルラーヘの建築理念と意匠的特質に関する研究』学位請求論文(早稲田大学)。
Francis Strauven(1998),“ Aldo van Eyck: The Shape of Relativity”Aldo van Eyck, “Het Verhaal van een Andere Gedachte” (The Story of Another Idea), with the principle “Aesthetics of Number”, in Forum 7/1959, Amsterdam-Hilversum.
The editorial team for the magazine Forum 7/1959-3/1963 and July/1967 existed of Aldo van Eyck, Herman Hertzberger, Jacob Bakema et al.
Herman Hertzberger(1991), Lessons for Students in Architecture, Rotterdam 1991-No.1, 2000-No.2, 2008-No.3. Definition by Herman Hertzberger: “Structuralism deals with the difference of a structure with a long life-cycle and infills with shorter life-cycles.”
Hans Ibelings(2003),“ SuperDutch: New Architecture in the Netherlands ”
W. Curtis, Modern Architecture Since 1900
SLAB – Global Criticism of Architecture & City & Housing
建築の世界近代史 —— 世界を建設した力
AFプロダクション=編著
A=青井哲人/F=布野修司
目次案
序 「世界」をつくったのは誰か ── 帝国と国民国家(A) Mサイズ 12pp
近代世界システム、脱植民地化の4波、大小「世界」の乱反射、統治を伴わない影響・・・
1 まず私たちの視野を広げよう Lサイズ 18pp
1 日本近代建築史を世界史のなかへ(A)
── 改革 restoration・膨張 expansion・爛熟 involusion
2 世界に押し広げられる「建築の近代」 Lサイズ 18pp✕5=90pp
1 産業革命と帝国のデザイン ── イギリス(F)
2 普遍性の帝国 ── フランス(A)
3 国際性と土着性の近代 ── オランダ(F)
4 産業政策とロマン主義 ── ドイツ(A)
5 計画の帝国 ── ロシア/ソヴィエト(A)
インタールード:ハウジング近代史への展望 遍く/偏る(岡部明子)Sサイズ
3 独立してゆく国々を主語とする新たな物語 Mサイズ 12pp✕9=108pp
1 地中海的なものとフランスのレガシー ── マグレブ(F)
2 「アフリカの内側」の著しい多様性 ── サブサハラ(F)
3 イスラームと近代建築 ── 西アジア(F)
4 スラブ世界とソヴィエトの影響(A→諸喜田)
5 英国のレガシーとインド性 ── 南アジア(F)
6 共通性の高さと複雑なアイデンティティ ── 東アジア(A)
7 重層性の上の色鮮やかな近代 ── 東南アジア(F)
8 コモンウェルズの果てで ── オセアニア(F→安藤)
9 ラテンアメリカの近代建築 ── ラテン・アメリカ(F)
インタールード:辺境的近代建築の骨と色(伊藤暁・福島加津也)Sサイズ
4 物語の破壊/破壊の物語 Lサイズ 18pp✕4=72pp
1 文化帝国あるいは道化としてのUSA — 20世紀後半の栄華と凋落(江本弘)
2 MOMA史観のすきま 南欧・中欧(A)
3 中国の台頭とかげり(市川紘司)
4 2025年の世界(A)
あとがき(F+A)
原稿ヴォリューム:
Sサイズ 4pp✕850字=3,400字 図版4点(6pp)✕2=12pp
Mサイズ 12pp✕850字=10,000字 図版4点(14pp)✕10=140pp
Lサイズ 18pp✕850字=15,000字 図版6点(21pp)✕10=210pp
全362pp+他20pp 384pp(図版108点)
2026 0407 Pakistan Flood Arch Daily
洪水ゾーンにおける照明の建設:季節的な浸水のための建築 |アーチデイリー

Ganvie_2018の空撮図。画像©:ビクター・エスパダス・ゴンザレス
アナンヤ・ナヤック 2026年4月6日公開
洪水は驚きとして訪れません。洪水は再び現れ、同じ増水した川とモンスーンの空をたどり、地面を緩め、本来抵抗するはずのなかった家々に入り込みます。壁は失われる前にほどかれ、材料は流される前に集められ、構造物は破壊ではなく順序を示唆する馴染みのある方法で再建されます。毎年水が戻る風景では、生き残りは再び始める能力によって定義されます。
バングラデシュの氾濫原、ブラマプトラ流域、メコンデルタでは、浸水は季節的に確実に起こっています。世界銀行や気候変動に関する政府間パネル(IPCC)などの機関の報告は、洪水を曝露や被害で捉え、抵抗力と耐久性で成功を測ることが多いです。しかし、毎年水没する地域では、こうした指標は問題の本質を部分的にしか説明していません。地盤自体が固体と液体の状態を行き来します。地盤が固定されているかのように建設することは、それを定義する条件に反して設計することになります。
これに応じて、建築は恒久性ではなく可逆性を重視して調整された異なる意思決定のセットで機能します。材料は交換しやすく、構造システムは分解しやすく、空間配置は最小限の労力で移動できるように選ばれます。バングラデシュのクディ・バリ住宅システムはこの論理を明確に示しています。軽量の竹枠は構造荷重を軽減し、継ぎ目で構造を分解し、建設は専門的な工程ではなく現地の労働に依存しています。一見控えめに見えるものが、実は非常に精密です。すべての決定は将来の解体の瞬間を予期しています。

クディ・バリ/マリーナ・タバスム建築事務所。画像:©アシフ・サルマン

Fleinvær Refugium / TYIN Tegnesue + Rintala Eggertsson Architects.イメージ©:パシ・アルト


Floating House/ CTA | Creative Architects. Image © CTA

Pono Colony – August 2022. Image Courtesy of Heritage Foundation of Pakistan

Khudi Bari, Vitra Campus / Marina Tabassum. Photo © Julien Lanoo
20260403 Arch Daily
設計された快適さ、購入された快適さ:香港におけるパッシブデザインとエアコン |アーチデイリー

© ジョナサン・ヤン 2026年4月2日公開
かつては熱的快適性を確立するには、はるかに意図的で調整された建築的知性が必要でした。すなわち、向き、質量、材料の挙動、換気の可能性、日陰、そして日光や表面が熱を吸収し放出する方法の相互作用です。これは単なる好みの問題ではなく、必要性によるものだった。1960年代後半から1970年代にかけて、香港の多くの戦後のモダニズム建築が建設され、市の公営住宅や広範な住宅の大部分を占めていた当時、エアコンはまだどこにでもあるデフォルトのサービスではありませんでした。冷却が存在する場合でも、限られていて分布が不均等でした。快適さは受動的な方法で、断面、ファサードの奥行き、開口部、気候の細部などを通じて交渉しなければなりませんでした。特に1970年代から1980年代にかけて、地域全体で空調が標準化されるようになると、機械式冷却がこの建築的意思決定の基盤に取って代わり始めたのは後のことでした。
エアコンは特に香港や近隣地域で建築空間に悪影響を与えたのでしょうか?より正確には、エアコンへの広範な依存が建築設計のインセンティブ構造を根本的に変えたという主張です。
内面の快適さをサービスとして提供できるようになると、多くの受動的な戦略はオプションとなり、時には知性というより非効率性として扱われることもあります。すべての平方インチが収益化されている都市では、厚さ、セットバック、交差換気通路、日陰の深さ、多孔質の敷居を必要とする気候対応装置は、賃貸可能または販売可能な床面積を減らす可能性があるため「コストが高い」と解釈されることがあります。一方、機械式冷却はほぼ普遍的な解決策を提供します。それは、環境コストをほとんど考慮せずに、プランの種類や向きを越えて再現可能な制御可能な室内気候です。この変化の中で、建築はより薄く、より密閉的で、より一般的になりがちです。一方で、プラットフォームタワー開発からメガモールに至るまで、都市の主流のタイプは、熱的快適さを設計するのではなく、購入・維持するものとして扱う傾向が強まっています。
超高層ビルデザインの再考:レスポンシブファサードとパッシブデザインの利点

© ニコ・ヴァン・オルショーヴェン 香港における受動的熱戦略:不透明度、質量、そして交差換気
チェ・ホン邨はその好例です。ブロックは比較的薄い比率で、ユニット内の換気の可能性を高めています。ファサードは多くの現代の住宅の外壁よりもはるかに管理されており、現在は鮮やかな色彩で有名ですが、外観は実際には比較的不透明です。建物の外皮が外縁に近い位置にある壁のラインは比較的高く上がり、視界や外側の開放性を制限しつつも、強い日差しや直接的な熱からの保護を提供します。大きな窓が導入される際は、ファサードが微妙に凹み、構造フレームや床板が自然な日陰装置として機能します。この調整された不透明度は偶然ではなく、まぶしさや日光曝露を減らし、香港全域で一般的なコンクリート構造が熱容量を加え、室内の温度変動を和らげる助けとなっています。コンクリートは日中に熱を吸収し、その後に放出できるため、熱伝達のピークを遅らせることで、室内が午後の日差しに圧倒されにくいのです。このようにして、外殻は内蔵されたブリーゼソレイユとなり、質量、深さ、断面の論理を通じて、後ろの部屋を天候やまぶしさ、太陽負荷から緩衝します。

チェ・ホン邨の断面図と立面図をGemini AIツールで再描画。画像©:ジョナサン・ヤン

ライド川や平石邨など他の邸宅では、中央の中庭型式を用いた異なる受動的論理が現れます。円形でも長方形でも、アトリウムは単一通路を内側に開け、自然換気と一日中空気の流れを感じさせます。大きな空洞はスタック効果を支えています。熱い空気は上昇して上方に排気し、特に地面面が比較的透水性が高い場所では冷たい空気が下層から吸い込まれます。この整理は快適さの微妙な空間的勾配も生み出しています。廊下とアトリウムの縁は中間の熱避難所となり、住民が熱に満ちた外壁の状態から離れ、換気の良い内側ゾーンを代替の「涼しい」環境として利用できる空間です。このように、受動的な快適さは単なるファサードや気候の力学の問題ではなく、建物内部のマイクロクライメートの建築的分布であるインテリア・アーバニズムの側面でもあります。

都市のデフォルトとしての窓ユニット:即時性、後付け、そしてエアコンファサード
もちろん、これらの受動的な機能は今日よく称賛されますが、香港の熱快適性の問題に対する万能薬ではありませんでした。例えば、激しい調理時や、コンクリートが日中に吸収した熱を再放射し始める夜遅くには、室内の快適さは理想的とは言えないこともあります。こうした瞬間、つまり湿度が高く、空気の流れが制限され、熱が蓄積するときこそ、受動的戦略の限界が明らかになります。これが、公営住宅内で窓型エアコンが広く普及している理由の一因となっています。多くの住民にとって、エアコンは贅沢品ではなく、生活の質を直接向上させるものであり、家電の最も説得力のある約束である「即時性」を受け入れるものです。32°Cの暑さと重い湿度の中で長い一日を終えた後、熱制御された部屋に入る感覚に勝るものはほとんどありません。快適さは徐々にではなく瞬時に与えられます。
この変化は香港の建設文化にも支えられました。この地域の竹足場技術は、迅速で適応性が高く広く利用可能であるため、外部のエアコンの設置や交換を比較的容易にしており、他の場所では複雑で高価な上層階でも可能です。しかし、この容易さは建築的な結果も伴います。改修は主に分散化され、ユニットごとに行われるため、ファサードは調整されていない決定の積み重ねになってしまいます。コンデンサーユニット、ブラケット、ドリップライン、ダクトが数十の独立した設置を通じて高さを越えて集まり、偶然でありながら混沌とした都市の表面を形作っています。これは香港の視覚的アイデンティティの一部であり、訪問者も地元民も魅了する「ACシティ」ですが、同時により不安な問いも投げかけます。適応が容易になると、依存は自動的になってしまうのでしょうか?

維持管理および改良作業のための局所的な竹製足場。画像 © SvG はパブリックドメインのウィキペディアより提供
窓型ユニットや分割システムの支配は、香港の建築方法によってさらに強化されています。コンクリート構造は頑丈ですが、壁内でダクトネットワークをきれいに彫り、調整するのは難しく、土地の経済性から機械的な追跡や使用可能な面積にカウントされない工場の狭間を減らす圧力が強まります。したがって、大規模開発やインフラを除き、多くの建物タイプで集中空調は技術的調整と空間的収容の両面で抑制されます。現在でも多くの建物は窓用ユニットやミニスプリットシステムで稼働し、コンプレッサーやコンデンサーを正面に直接吊るしています。これは大きな機械室を避け、総床面積(GFA)を保ち、冷却を統合された建築システムではなく分散型サービスとして扱う方法です。
補足からベースラインへ:ACが地域のデザインインセンティブをどのように書き換えるか
空調への依存の問題は、エネルギー消費や持続可能性だけでなく、建築的な結果としてもますます検討される価値があります。受動的な戦略は香港の暑さや湿度に対する完全な解決策ではありませんでしたが、エアコンの広範な採用は多くの場面で機能的な代替手段となっています。熱的快適性は、向きやファサードの深さ、換気の論理にほぼ依存せずに提供できます。これはある意味で明確な改善であり、よく設計された建物はピーク時の状況を管理するために選択的にエアコンを活用できますが、機械的冷却を基準とみなすと設計インセンティブも再構築されます。

PMQ香港、アトリウム面の廊下。画像©:AaaM 建築事務所、PMQマネジメント・カンパニー リミテッド
その変化は、都市の支配的な建物形態――大型ショッピングモール、住宅タワー下のポディウム開発、多くの複合用途複合施設――に見て取れる。ここでは深いプランや囲い込みの内装が当たり前になっている。機械的冷却と人工照明により、限られた日照や自然換気があっても広々とした途切れのない床板が実現可能となり、利用可能または賃貸可能な面積を最大化するための開発圧力と巧みに合致しています。時間が経つにつれて、熱的快適性、新鮮な空気、日光は空間的な要因として扱われることは少なくなり、むしろ供給されるべきサービスとして扱われるようになった。これは、エアコンが「良い」か「悪い」かというより広い問いを投げかけることになる。つまり、その存在が建物を何に変えたのかという問題だ。

Gemini AIツールによるチェイフン邨の立面図の再描画。画像©:ジョナサン・ヤン
アパートの建物でも、オリエンテーションや受動的な戦略が一貫して優先されるわけではありません。広大な眺望、効率的なユニットプラン、そしてますますガラス張りの拡大するエンベロープにより、床面積はより深く、レイアウトはコンパクトで、自然換気が限られた完全に囲まれた廊下やロビーが生まれます。この意味で、エアコンは極端な日の補助システムから、より高い内部熱負荷を生み出し、年間の長期間冷却を必要とするタイプに日常的に依存するものへと移行しました。今後の問題はエアコンが廃止されるべきかどうかではなく、香港の気候においては依然として不可欠であり続けるでしょう。デザインが現代的な受動的知性を取り戻せるかどうかです。より良い向き、通気性のある敷居、日陰のファサード、そして依存を減らし建築の選択肢を広げる換気戦略です。
現在世界中で進行中の14の主要な博物館プロジェクト |アーチデイリー

LACMAのデイヴィッド・ゲフィン・ギャラリーズ、東ウエストバンク・コモンズから南東のウィルシャー大通りに向かう外観で、手前にはトニー・スミスの『スモーク』(1967年)があります。イメージ©:イワン・バーン
2025年から2026年初頭にかけて、複数の地域で多数の博物館プロジェクトが発表、進捗、または着工され、完成までの期間は主に2026年から2030年にかけて延長されました。アジア、ヨーロッパ、北米、中央アジアにまたがるこれらの発展は、現代都市における文化機関の役割の継続的な変化を反映しています。近年では、博物館は単なる展示会場としてだけでなく、教育、研究、市民参加を受け入れる公共向け環境として構想されるようになっています。この拡大されたプログラム的範囲は、都市条件、空間的連続性、文化インフラをより広範な都市形成プロセスに統合する建築戦略を伴うことが多い。
これらのプロジェクトの多くは、公共景観、交通接続、複合用途プログラムを取り入れた、より広範な都市または地域の枠組みに関連して計画されています。孤立した文化的対象として機能するのではなく、文化地区やウォーターフロントの再開発、または成長する大都市圏内の市民ノードの形成に貢献しています。Snøhetta、Kéré Architecture、MAD Architects、BIG、David Chipperfield Architectsなどの事務所によるデザインアプローチは、地域の文脈、素材システム、環境的配慮によって形作られた多様な対応を示しています。
アジアの博物館
中国・トンジョウの北京美術館 / Snøhetta + BIAD

スノヘッタとBIADによる北京美術館。イメージ©・プロルーグ
北京美術館の建設は2025年12月に北京の副中心地とされる通州区で始まり、2029年の完成が見込まれています。Snøhettaが北京建築デザイン学院と協力して設計し、11万平方メートル以上の敷地を持ち、美術、無形遺産、現代的実践を融合させる多分野の機関として構想されています。「ビジョン」という概念を中心に構成されたこの建物は、中央の円形アトリウムを特徴とし、ギャラリー間の視覚的なつながりを築いています。

BIG設計の蘇州現代美術館は、錦基湖沿いのウォーターフロントにほぼ完成し、2026年に「唯物論」展で開館予定です。連続した波打つ屋根の下に連結したパビリオン群として構想されたこの6万平方メートルの複合施設は、蘇州の伝統的な庭園建築を現代的な空間的枠組みで再解釈しています。屋根付き通路のコンセプトを中心に構成されており、ギャラリー、中庭、公共空間を水、植生、建築形態を統合した連続的な連なりを形成しています。曲線のガラスと金属のファサードは周囲の景観を反映し、橋や地下の接続により柔軟な動線が可能となり、博物館を文化的な目的地であると同時に湖畔環境の延長として位置づけています。

ウズベキスタン国立博物館、安藤忠雄建築事務所によるレンダリング。画像提供:ウズベキスタン芸術文化開発財団
ウズベキスタン国立博物館は2025年にタシケント中心部で起工し、2028年にウズベキスタン芸術文化開発財団が主導する大規模な文化イニシアチブとして開館予定です。安藤忠雄によって設計され、この博物館は国の遺産の保存と展示のための主要な機関として構想されており、円、正方形、そして連結する三角形のボリュームなどの幾何学的な形態の構成によって組織されています。このプロジェクトは、展示スペース、図書館、教育施設を公共広場を中心に組み込み、自然光と空間の順序が訪問者体験の形成に中心的な役割を果たし、建物を瞑想的かつ市民的な環境として位置づけています。
ウズベキスタン・ブハラのジャディド遺産博物館 / リナ・ゴトメ

ジャディッドの遺産博物館。標高図。ウズベキスタン芸術文化開発財団(ACDF)提供画像©:リナ・ゴトメ — 建築
ブハラのジャディド遺産博物館は、ウスモン・ホジャエフに関連する歴史的邸宅の改装を通じて開発されており、2027年の開館が予定されています。リナ・ゴトメが設計したこのプロジェクトはジャディド改革運動に捧げられ、保存と現代的な建築的介入を融合させています。歴史的な都市中心部であるリャビ・ハウズ近郊に位置し、既存の構造を維持しつつ、歴史的記憶と現代の文化表現を結びつけるというゴトメのアプローチを反映した新たな空間要素を導入し、博物館を都市の広い織物の中に位置づけています。
北米の博物館
ラスベガス美術館 / ケレ建築事務所 + スキッドモア、オーウィングス&メリル

ケレ建築設計のラスベガス美術館(LVMA)。プラザビュー。イメージ©:ケレ建築、ラスベガス美術館提供
ラスベガス美術館は2029年にシンフォニーパークで開館予定で、市内初の専用美術館として計画されており、ケレ建築がスキッドモア、オーウィングス&メリルと協力して設計しています。官民パートナーシップの一環として開発されたこのプロジェクトは、モハーヴェ砂漠の参考資料を取り入れ、地元産の資材を取り入れ、建物の外側に広がる大きなキャノピーを設けて日陰の屋外空間を作り出しています。内部は峡谷と表現される中央の循環要素を中心に構成されており、博物館のプログラムには展示スペース、教育施設、地域社会と国際的な訪問者の両方に向けた公共施設が含まれています。
ロサンゼルスのルーカス・ナラティブ・アート美術館 / MADアーキテクツ

サンドヒルメディア/エリック・フューリー。画像©:サンドヒル・メディア/エリック・フューリー
ルーカス・ナラティブ・アート美術館は、2026年9月にロサンゼルスのエキスポジション・パークで開館予定であり、視覚メディアを通じたストーリーテリングに焦点を当てた新たな文化機関を紹介します。ジョージ・ルーカスによって設立され、MADアーキテクツが設計したこの30万平方フィートの建物は、連続した高架構造によって、地上に日陰の公共空間を創出しています。プログラムにはギャラリー、劇場、教育スペース、アメニティが含まれ、周囲の景観は博物館と広範な博覧会公園キャンパスをつなぐ新しい遊路や集会エリアを紹介しています。
ロサンゼルスのLACMAにあるデイヴィッド・ゲッフェン・ギャラリーズ / ピーター・ズムソー+スキッドモア、オーウィングス&メリル
ロサンゼルス郡立美術館のデイヴィッド・ゲッフェン・ギャラリーズは、2024年末に大規模な工事が完了した後、2026年4月にオープン予定です。ピーター・ズムソーがスキッドモア、オーイングス&メリルと協力して設計したこのプロジェクトは、20年以上にわたる開発期間を経て、敷地を横切る水平で高架の構造物を導入し、ウィルシャー大通りを架けます。メインの展示レベルは地上約30フィートの高さにあり、連続した単層ギャラリースペースとして構成されており、階層的な順序なしに柔軟なキュレーションの配置が可能です。地上には公共施設を備えたパビリオンが並び、造園された広場や屋外プログラムエリアがキャンパス全体に広がり、建築、芸術、公共生活を統合しています。
ニューヨークの唐翼メトロポリタン美術館 / フリーダ・エスコベド

メトロポリタン美術館の唐翼の外観レンダリング(南西の角からの眺め)。画像©:フィリッポ・ボロネーゼ、写真提供:フリーダ・エスコベド・スタジオ
メトロポリタン美術館の拡張により、2030年の完成が予定されている現代美術と現代美術に特化した新しい唐棟が導入されました。フリーダ・エスコベドの設計によるこのプロジェクトは、ギャラリースペースを約50%増やしつつ、エレベーターやスロープなどの新しい垂直接続を導入することでアクセスや流通の問題にも対処しています。デザインは石灰岩の格子状ファサードを特徴とし、テラスや公共施設を取り入れて、博物館とセントラルパークの空間的関係を拡張しています。
ヨーロッパの博物館
ヘルシンキ建築デザイン博物館 / JKMM建築事務所

ヘルシンキ建築デザイン博物館、JKMM建築事務所、クンマ・レンダー。イメージ© MIRとJKMMアーキテクト
2025年に国際コンペが終了した後、JKMMアーキテクツがフィンランドの新しい建築・デザイン博物館の設計を担当し、2027年に建設が始まり2030年の完成が予定されています。ヘルシンキのサウスハーバーウォーターフロントに位置するこの提案は、三角形の幾何学で特徴づけられた低層のパビリオン型構造で、主要な都市の眺望を保ちつつ、海岸線に新たな文化的存在感を確立する形をとっています。博物館は広範な全国コレクションを統合し、展示スペース、デザイン図書館、公共プログラムを含みます。
スロベニア・ブレッドのムゼイ・ラフ / デイヴィッド・チッパーフィールド建築事務所

ムゼイ・ラフの翻訳。画像©:デイビッド・チッパーフィールド建築事務所
デイビッド・チッパーフィールド建築事務所が設計したムゼイ・ラーは、2026年にブレッド湖近く、ジュリアンアルプスの麓にある森林地帯に埋め込まれた場所にオープン予定です。建物は地形に部分的に溶け込み、傾斜屋根と地形に応じて構造化された体積を持ち、内外の空間を次々と導入しています。このプロジェクトにはギャラリー、彫刻庭園、公共施設が含まれ、Fundacija Lahコレクションを収蔵して初めて一般公開されます。

ケレ建築によるエルハルト美術館。庭園の外観。レンダリング。画像提供:ケレ・アーキテクチャ
現在ドイツ北東部で建設中で2027年の完成を予定しているミュージアム・エアハルトは、アーティストであるアルフレッド・エアハルトの作品に捧げられており、ケレ建築事務所のヨーロッパ初の美術館プロジェクトを代表しています。設計には、木材や粘土など地元産の素材が取り入れられ、中央に押し固められた土壁が受動的な気候調節を提供しています。木造構造は分解・再利用が可能であり、周囲の景観には庭園や水管理システムがあり、建物を環境の文脈に統合しています。

BIGが設計した新しいハンガリー自然史博物館は、デブレツェンにあり、都市を地域の文化・教育センターとして確立するための広範な取り組みの一環として構想されています。建物は森林の床から重なり合うランドスケープのようなリボンの形をしており、主に木材で造られ、部分的に敷地内に埋め込まれています。プログラムには展示ホール、研究施設、公共スペースが含まれ、設計では地熱システム、太陽光パネル、植栽された屋根景観が統合され、周囲の公園が建物全体に広がっています。
関連して、OMAによる新博物館の拡張が3月21日に一般公開され、人間性に焦点を当てた新しい展示が行われました。また、2025年に7つの最終候補提案が発表された後、ニール・マクラフリン建築事務所がヨルダンのベタニーにあるイエスの洗礼博物館の国際コンペで優勝者として発表されました。 ノルウェーでは、キステフォス美術館がイェヴナカーの敷地に新館建設の当選作品として『クリストとガンテンバイン』を選びました。
Fundació Mies van der Rohe Presents “Transnational Narratives,” a Documentary on Six South Asian Women Architects

建築における平等のためのリリー・ライヒ助成金。2026年3月10日、バルセロナのミース・ファン・デル・ローエ館でのTransnational Narrativesドキュメンタリープレゼンテーション。
「ジェンダー平等は建築における継続的な問題です。女性建築家は世界中で職業の約3分の1以下に過ぎません。」これは、第4回リリーライヒ建築平等助成金の成果として制作されたドキュメンタリー『Transnational Narratives: A Celebrating South Asian Women in Architecture』の冒頭の声明です。この助成金はミース・ファン・デル・ローエ財団による取り組みで、建築実務における機会の平等なアクセスを促進し、不当に見えなくされてきた建築への貢献の研究と普及を支援しています。この文脈の中で、イゲア・トロイアニ博士、マムナ・イクバル博士、アーティスト兼研究者のポーラ・ラウシュ、映画監督の辻野リメによって制作されたこのドキュメンタリーは、南アジア系の6人の建築家、スミタ・シンハ、チトラ・ヴィシュワナート、サラ・カーン、ファウジア・クレシ、サジダ・ヴァンダル、ニールム・ナズの経験を可視化しています。彼らのプロとしてのキャリアはインド、パキスタン、イギリスにまたがっています。

『Transnational Narratives: A Documentary Celebrating South Asian Women in Architecture』は、しばしば主流の学問的ナラティブの外に位置する建築実務を浮き彫りにすることで、助成金の使命に貢献しています。より集団的で社会的に関与した建築の代替的な実践方法を提示し、職業の未来に新たな可能性を開きます。この映画は、ロンドン・サウスバンク大学建築学部長のイゲア・トロイアーニ博士、ラホール工科大学のマムナ・イクバル教授、そしてアーティストで研究者のパウラ・ラウシュ、映画監督の辻野リメによって開発されました。トロイアーニとイクバルがインタビューとリサーチを担当し、辻野が多くの撮影と編集を主導しました。


収集された物語は、建築を多面的で献身的な実践として描いています。すなわち、デザイン、教育、研究、社会的行動を融合させた学問分野です。これらの女性たちの職業経験を通じて、映画は共感、倫理、環境責任を前面に押し出しています。移民、母性、活動家、家父長制の文脈に立ち向かうレジリエンスといった個人的な歴史を基に、これらの建築家たちが自らの道を切り開き、若い世代のロールモデルとなっている様子を描いています。この映画は、建築家であることの意味、母国で経験した課題、そしてフェミニズム的で包摂的かつ国際的な実践へのアプローチという三つのテーマを中心にインタビューを構成しています。
AF-Forum(Study Group)
建築とジャーナリズムAJ研究会[1]第1回 2021年7月3日 14:00-17:00
基調報告 神子久忠 コーディネーター:布野修司:コメンテーター:斎藤公男,和田章,今村創平 記録:佐藤敏宏
1941(昭和16)年4月20日生まれ
1958(昭和33)年3月 江見町立中学校卒業(鴨川市)
同年4月 千葉県立安房第一高等学校入学(館山市)
1960(昭和35)年3月 同高校卒業
4月 桑沢デザイン研究所プロダクトデザイン科入学
この間,幸建築研究室(構造事務所),連合設計市ヶ谷事務所でバイト。
1962(昭和36)年3月 卒業
1962(昭和37)年4月 日本大学理工学部建築学科二部入学
1967(昭和42)年3月 同大学卒業
同年4月 新建築社入社
1971(昭和46)年2月 同社退社
11月 相模書房入社
1984(昭和59)年2月 同社退社(*相模書房は2015(平成27)年9月廃業)
3月 日刊建設通信入社,
1996(平成8)年1月 同社退社
4月 日刊建設工業新聞社入社
2009(平成21)年3月 同社退社
*新建築社に約4年,相模書房に約13年,建設通信に約12年,建設工業には約13年,退社後現在で12年。
*相模書房,建設通信,建設工業などでの出版は,別紙の通り。
*相模書房(増補版も含む)
三宅理一「ドイツ建築史〈上〉」「ドイツ建築史〈下〉」/向井正也「日本建築・風景論」/丹下敏明「スペイン建築史」/郭中端・堀込憲二「中国人の街づくり」/田中清「建築設計事務所の経営」/光安義光「わすれがちな設計のポイント」/小川守之「建築家マッキントッシュ」/山本正三「ウイリアム・モリスのこと」/ウィッチャリー,小林文次訳「古代ギリシャの都市構成」/◆小林文次「日本建築図集」/小林文次「建築の誕生」/真鍋恒博「省エネルギー住宅の考え方」/山田修「わかりやすい住まいの法律」/中善寺登喜次「住まいの設計ノートから」/山本公喜「住みかえの知識」/◆髙橋林之丈「苦悩する建築設計界」/林青梧「文明開化の光と闇―建築家・下田菊太郎伝」/田中正大「日本の自然公園」/森川育造「住まいの補修と維持管理」/山野勝次「建築昆虫記」/◆向井覚「建築家吉田鉄郎とその周辺」/向井覚「建築家鉄郎とその周辺」/向井覚「建築家・岩元禄」/◆布野修司「戦後建築論ノート」→増補改訂版(れんが書房新社)/◆陣内秀信・板倉文雄「東京の町を読む」/◆佐々木宏「ル・コルビュジエ断章」/佐々木広「二十世紀の建築家たちⅠ」,「二十世紀の建築家たちⅡ」/佐々木宏「〈インターナシュナル・スタイル〉の研究」/佐々木宏「巨匠への憧憬」/佐藤京子「庭とのふれあい」/小谷喬之助「劇場物語」/エドゥアルド・トロハ「エドゥアルド・トコハの構造デザイン」/◆近江栄「光と影・蘇る近代建築史の先駆者たち」/近江栄「建築設計競技」鹿島出版会(学位論文)/近江栄「光と影」/原沢東吾「建築学入門」,原沢東吾「建築学序説」,原沢東吾「都市と建築の哲学」/◆西澤文隆小論集1「コート・ハウス論」,2「庭園論Ⅰ」,3「庭園論Ⅱ」,4「庭園論Ⅲ」/エリアス・コーネル著,宗幸彦訳「ラグナル・エストベリー」/レオナルド・ベネーヴォロ著,佐野尊彦・林寛治訳「「図集 都市の世界史」1,2,3,4巻/小野木重勝「明治洋風宮廷建築の研究」/RIA建築綜合研究所近藤正一(伊達)◆「建築家山口文象 人と作品」/横山不学「遥かなる身と心との遍歴」/前田邦江「手づくり家づくり」/遠山静雄「アドルフ・アピア」/岡島孝雄「建築経済学」/◆長谷川堯「神殿か獄舎か」,「建築―雌の視角」,「都市廻廊」/小能林宏城「建築について」/◆上松佑二「世界観としての建築」,ルドルフ・シュタイナー著,上松佑二訳「新しい建築様式への道」/◆松倉保夫「ガウディの装飾論」/松倉保夫「ガウディの設計態度」/松倉保夫「ガウディの装飾論」/砂川幸雄「現代の家づくり」/保坂陽一郎「まもりのかたち」/城戸久・高橋宏之「藩校遺構」/◆今和次郎「日本の民家」/小倉強「東北の民家探訪日誌」/小倉強「増補 東北の民家」/川島宙次「民家の画帖」/◆山本祐弘「樺太アイヌ・住居と民具」/山本祐弘「北方自然民族民話集成」/山本祐弘「北の家・南の家」/山本祐弘「インテリアと家具の歴史」/知里真志保,山本祐弘・大貫恵美子「樺太自然民族の生活」/◆池浩三「家屋文鏡の世界」/池浩三「祭儀の空間」/池浩三「住まいと匠」/須田敦夫「日本劇場史の研究」/飯田須賀斯「中国建築の日本建築に及ぼせる影響」/小林昌人・溝口歌子「民家巡礼・東日本篇」,「西日本篇」/林野全考「近畿の民家」/杉山信三「韓国の中世建築」/片桐正夫「朝鮮木造建築の研究」/田村剛「作庭記/◆野村孝文「増補 南西諸島の民家」/◆宮内康「風景を撃て 大学1970-75」/◆横山正「透視画法の眼」/中村順平「建築という芸術 上」「下」/カサネリェス著,入江正之訳「アントニオ・ガウディ」/◆水原徳言「白井晟一の建築と人」/石山修武「バラック浄土」/李家正文「トイレットで語ろう」/岡秀隆「建築デザインの論理」/◆吉阪隆正「乾燥なめくじ」/吉阪隆正「告示録」/吉阪隆正「住居学」/吉武茂介「焼きもの塗もの金もの」/田中久「裸のスウェーデン」/ピュツェップ著,田中久「手術センターの計画」/竹内芳太郎「年輪の記」/田中昌穂「家相真法秘要」/永雄五十太「さしがね入門」/津川俊夫「英和建築用語字典」/井上宇一「建築設備ポケットブック」/清田文永「空港」/佐藤武夫「公会堂建築」/広瀬考六郎「都市上下水道」/髙橋靖夫「最新透視図技法・図法編」/高野浩毅「パースで進める店舗設計」/笠原敏郎・市川清志「建築物法規概説」/田中礼治「鉄筋コンクリートの構造入門」/川原泉「建設業のTQC早わかり」/米国教育保健省公衆衛生局編・吉武泰水他訳「綜合病院の設計と構造」/石関秀穂「屎尿浄化槽設計資料集」/髙橋靖夫・高橋久美子「最新透視図技法・入門編」/福田健也・高橋久美子「スケッチパース」/小菅哲「建築マネジメント実践」/小林梅次「日本の草屋根」/◆武基雄「市民としての建築家」/◆中村順平「建築という芸術」上,下/◆岸田日出刀「岸田日出刀」上,下/五十嵐敬喜「裁かれる近代」/太田邦夫「東ヨーロッパの木造建築」/川島宙次「世界の民家・住まいの創造」/田中重光「大日本帝国の領事館建築」/馬場璋造「建築21世紀はこれからだ」/竹村真一郎「白い僧院」/
*いろいろな出版社
◆石田繁之介「三井の集会所」/石田繁之介「三井の土地と建築」(以上,日刊建設通信社)/石田繁之介「三井の建築六十年の軌跡」/石田繁之介「ジョサイア・コンドルの綱町三井倶楽部」(以上,南風舎)/◆田中孝「物語・建設省営繕史の群像」上,中,下(以上,日刊建設通信)/西澤文隆「西澤文隆の仕事Ⅰ」,「Ⅱ」,「Ⅲ」/◆「本間利雄自伝」(以上,鹿島出版会,2022年)/馬場璋造「信頼される建築家像」/馬場璋造「日本の建築スクール」(以上,王国社)/徳岡昌克「建築―ゆずり葉のデザイン」/◆佐野正一「建築家三代」/佐野正一・石田潤一郎「関西の建築」/小菅哲「建築マネジメント概論」/小菅哲「建築マネジメントの実践」/江藤静児「鉄筋混凝土にかけた生涯―阿部美樹志」(以上,日刊建設工業新聞社)/◆村野藤吾・神子共著「村野藤吾著作集全一巻」(同朋舎,現在は鹿島出版会)
◆は内容に少し触れる本。
相模書房のオーナーは鈴木二六。1936(昭和11)年創業。箱根強羅の環翠楼のオーナーで,小田川漁業協同組合理事長をやった。鈴木家は小田原の名門で,兄の鈴木十郎は1949(昭和24)年から5期小田原市長をやった。早大中退,同人雑誌を出すなど文芸に興味があり,巌谷小波(いわや・さざなみ)と懇意だったから,初期は武田麟太郎,里見弴,野上弥栄子などの文芸書を出していた。相模書房には巌谷家・親戚の巌谷さだ子が,経理で死去するまで勤務していた。
二六は初めて箱根・強羅温泉を探りあてた第一号。敷地,建物は岩崎弥太郎三男の別荘。本館2棟と離れ4棟。相模書房は岸田日出刀との関係(岸田を中心としたいろいろな本を出す)から,環翠楼内に本館とは別に離れ4棟をつくった。岸田に私淑した郭茂林の設計。骨太のディテールで,建築家・郭の力量がわかる。
相模書房の初代社長は小林美一,編集は引頭百合太郎(いんどう・ゆりたろう)。引頭は岸田と懇意だった。私が入った頃は小林,引頭は老齢で,用事のある時だけきていた。
「新建築」事件で一緒に辞めた小川格は「a+u」創刊に1年関わり,私が相模書房に入った翌年(1972年)相模書房へ。退社後,1983(昭和58)年南風舎を設立。現在は顧問。したがって相模書房の仕事は,小川との共同作業である。
2代目社長(1950年)は,佐藤弘。鈴木二六は相模書房のオーナーだから,年2回,決算報告に環翠楼に招待,慰労してくれた。
相模書房は2015(平成27)年9月廃業,80年の歴史を閉じた。社屋は入舟町(八丁堀)の木造2階のしもた屋,近所に印刷屋などがあった下町。その後,再開発で一変。昔,道路向うに沖種郎の「連合設計」,いま川方向に岡部憲明の事務所がある。
いまはなくなったが,当時の印税支払いは増刷部数の印紙をもっていき,押印してもらう。500部程度が多かった。その時,増刷部数だけの現金を渡し,押印してもらった印紙を奥付に貼る。今和次郎,吉阪隆正などの本はこうしたやり方で,その場ですべて押印してくれた。
相模書房は,2015(平成27)年9月廃業。79年の幕を閉じた。入舟町の再開発に伴い,銀座・松屋百貨店裏に移転,1階と地下(地下は倉庫)。いまはホテルとなっている。廃業に際し印税未払いは,弁護士に依頼し,未払い分相当の書籍を引き取ってもらう交渉をした。大半が応じてくれた。(神子久忠)
目次
Ⅱ 『新建築』から相模書房,そして『日刊建設通信』『日刊建設工業新聞』へ.. 13
布野:神子さんの方から,略歴,これまで携わられた著書,さらに相模書房の歴史についてのメモを頂きました。それと「選ばれる設計者になろう 信頼されることが一番」という神子さんの文章を資料としてお配りしています。これは,神子さん自身の仕事ですが。『建築21世紀はこれからだ 編集者・写真家 三〇〇年の視点』(相模書房,2013)に書かれたものです。建築家へ向けてのアジテーションというか,激励のメッセージというか,建築家への期待が述べられています。
| 1981年 |
神子さんは,私にとって特別な編集者で,編集者のひとつのモデルなんです。というのも,僕の処女作の『戦後建築論ノート』(相模書房,1981)を書かせた編集者なんです。なんの実績もない,まだ20代だった私に,「とにかく,お前書け!」ってアジった,その編集者が神子さんです。著者が書いたものを出版社に持ち込むのが一般的なのかもしれませんが,編集者というと,著者をアジルというか,いろいろ疑問を呈したり,アドヴァイスしたり,議論のなかで共同で本をつくりあげる,そんなイメージがあります。神子さんに最初に出会った編集者だからなんですが,編集者のモデルだと今でも思います。神子さんが相模書房から,建設通信,建設工業新聞社などに移られても,私は,結構原稿を書く機会をいただきました。
経歴見て,初めて知ったんですが,桑沢デザイン研究所におられたんですね。山田脩二さんと一緒ですか。ほぼ同じ歳ですよね。そういう事も含めまして,今日はおうかがいできればと思います。
神子:神子でございます。こういうリモートのミーティングは初めてで,緊張してます。建築とジャーナリズム研究会の第1回ということですが,これまで編集者としてわたしのやってきたことをお話してみたいと思います。 お手元に資料がいっていると思うんですが,桑沢デザイン研究所に入る前に,舘山に在る,今は安房高と言いますが,昔の安房第一高等学校,そこを出たんです。丁度,1960年の安保の直前ですね。今でも大変よく覚えてるんですが,社会科の先生がガリ版刷りで,60年安保について毎回授業で教えてくれたんです。田舎の高校ですけれども,60年安保については結構理解してたんです。
布野:神子さん,皆さんと経歴,画像共有しますか。
神子:そうしてください。安房第一高等学校を出て上京して入ったのが,今でも渋谷に在ります桑沢デザイン研究所[1]なんです。後で驚くんですけども,長谷川堯さんも同じ時期に桑沢デザインにいたんですね。
布野:一緒にいらっしゃった?
神子:学生で
布野:えー。これは初耳ですね。
神子:後から聞いて,びっくりしたんです。
布野:長谷川堯さんは,同郷なんですが,僕の一回り上です。
神子:僕より4歳位の差です。堯さんは,あちこち勉強に行ってるんです。桑沢デザイン研究所2年間だったんですが,講師陣は多士済々でした。「建築美学」は阿部公正[2],それから篠原一男,それから松村勝男(1923~1991)[3],そういう人たちが皆助手の頃です。一般教養科目なんだろうと思うんですが,教えに来ていました。その中に,村上一郎[4]という,これは評論家で,歌人ですけど,教えに来ていました。
村上一郎さんは,今でも思い出すんですが,奈良の慈光院の凄い借景の空間がありますね,奈良の盆地が見える。慈光院の話をするんです。不思議な人だなーと思いましたね,何で文科系の人が慈光院の話をするんだろうって。後で分かったんですけども,村上一郎さんは紀伊国書店の顧問だったんですね。それで紀伊国屋書店から紀伊国屋新書の最初に出したのが,篠原さんの『住宅論』(1962年,紀伊国屋書店,SD選書,1970年復刻)なんですね。村上さんが建築の話をしていたのは,どうも篠原さんのサゼッションだったんですね。
とにかく,教師陣に錚々たるメンバーがいたんです。その村上一郎さんが,授業の中で建築の話をする中で,今度はこういう同人雑誌だしたんだ,と僕らに紹介したのが,村上一郎,谷川雁[5],吉本隆明[6]が出した『試行』[7](1961年9月創刊)という雑誌でした。1961年に出したばかりでした。僕らは意味が解りません。そこで,いろいろ教えてもらったんです。村上一郎を筆頭に,吉本隆明,・・・皆そこから付き合いが始まったんです。その頃に早稲田に…
布野:吉本隆明に直にいろいろ教わったんですか?
神子:もちろんです
布野:そうですか,僕は一度だけですけど,1988年頃ですが,春秋社の「東京思想論集」の企画で米沢慧さんと二人で話を聞いたことがあります。企画は,ものにはなりませんでしたけど,超有名人だったから,ちょっと気後れしたというか,緊張したことを覚えています。
神子:早稲田に,今あるかどうか分りませんが,観音寺というお寺があって,ありますか? あそこに「自立学校」[8]というのを,吉本が,谷川雁,埴谷雄高,黒田寛一らとともにつくったんです。吉本も,埴谷雄高も,『試行』のメンバーが,毎日教えてましたね。そのメンバーに教えてもらって,「ああそうか,こういう事か」と勉強したんですね。
もうひとり桑沢には高根正明(1931-1982)[9]という人がいたんですね。これも一般教養科目教えていた。清水幾太郎(190-1988)の高弟でしたね。。高根さんからも「現代思想研究会」で教えてもらいました。今のGAの在る,直ぐ後ろ,千駄ヶ谷に住んでました。そこでも勉強しましたね。建築よりかいろんなことを話しましたね。それで,結局,一番影響をその頃受けたのは吉本隆明ですね,死ぬまで追っかけをやったんですから。
出版リストに関わったいろんな本があげてあるんですが。野村孝文さんの『増補版 南西諸島の民家』がありますね。吉本の大きな柱は南島論ですから,興味を持ったんですね。
布野:『増補版 南西諸島の民家』(相模書房)は僕も買って持ってたような気がしますが,何年ですか。
神子:1961年が初版で,増補版を出したのは1976年です。
布野:沖縄については,池浩三さんの『祭儀の空間―その民俗現象の諸相と原型』(1979,相模書房)も出されてますよね。そして『家屋文鏡の世界―古代祭祀建築群の構成原理』(相模書房,1983年)はちゃんと読みました。『祭儀の空間』は,『現代思想』で書評をしています(日本建築の原像『現代思想』1979年6月,(布野修司建築論集Ⅰ収録))。東南アジアを歩き出してましたし,日本建築のルーツに興味があったんです。
| 1979年 |
神子:吉本の南島論というのは,柳田國男は暖流,黒潮を重視するんですが,吉本は日本海流を重視します。沖縄から玄界灘を抜けて,日本海に流れていく寒流ですね。それで,吉本さんが,野村孝文の『南西諸島の民家』が大変参考になったと言われたんですね。吉本の日本海重視の論拠には,和舟の問題もあります。船底が浅くって,浅瀬の港に着けるんですよね。とにかく,民家論が吉本の南島論の軸になっている。沖縄にカミアシャゲというのがありますね。それを解明するのが池浩三さんの『祭儀の空間』ですね。それは吉本の南島論につながっているんです。吉本についてそんなのを勉強していったんですね。
布野:吉本の南島論というのは,『琉球弧の喚起力と南島論』(河出書房新社,1989),『全南島論』(作品社,2016)がありますが,沖縄返還(1972年)が大きな背景にありますよね。
| 1983年 |
神子:そうです。
神子:戻りますと,桑沢デザイン研究所と「自立学校」に通って,埴谷とか,吉本とかいろんな先生にならったんですが,実際事務方をやったのは現代思潮社[10],今在りますかね,石井恭二が創業した,他に松田政男とか,アナーキーな連中ですね。
そんなことをやっているうちに,バイトの方をしなくちゃいけないっていうんで,四谷三丁目にあった幸建築研究所にいくんです。所長は佐藤幸一,日大の構造出た先生ですね。構造事務所でした。全部で4,5人でしたね。日大の山岳部のメンバーでしたね。理工の山岳部じゃなくって日大の本部の山岳部のメンバー。ヒマラヤに行ったり,年中山登りばっかりしてました。金が無くなると幸建築研究所でバイトしたんです。そこに随分いまして,構造計算できないんですけども,構造の図面が描けるようになった。隣の部屋に二葉積算というのがあった。
布野:二葉積算というのは,積算事務所のパイオニアですよね。
神子:二葉積算は,社長が宮谷重雄[11]さんだったんですが,日本積算協会の最初の発起人は宮谷さんなんですね。宮谷さんは,俺が会長になるよりか,吉阪に会長になってもらえっていう感じだったから,日本積算協会の初代の会長,吉阪隆正さんじゃないでしょうかね。その後,会長になられた。
布野:しかしそれにしても,たった1,2年の間にいろんな経験をされたんですね。
神子:そうです,振り返れば,いろんな事やりましたね。
布野:僕も,大学入っていきなり全学ストライキで,鉄塔の設計とか,木造の移築とかいろんなことをやったんですが,60年安保の時はもっと凄かったような気がしますね。
神子:幸建築研究室というのは,構造事務所ですから,今でも覚えているんですが,吉村順三の同志社の宝物館,それから箱根の小涌園,などの構造をやっていました。僕が構造図持って赤坂に在った吉村順三さん所に届ける。小僧ですから,そんな事をやっていました。
市ヶ谷には,鎌倉書房という『ドレスメイキング』を出していた有名な出版社がありました。また,そのビルの中に連合設計社市谷建築事務所がありました。
布野:連合設計というと,吉田秀雄,吉田桂二さんですね。共同設計を旗印に掲げて設立されたんですよね。
神子:その頃はですね,いろんな連合設計流行ってました。・・・ねろうさんだとか,峰岸さんだとか,・・・連合という組織からをつくった,名前だと思うんですが,その一つが連合設計の市谷事務所。
神子:連合設計でも随分バイトやりました。やってみたら,やはり,デザインは出来ないんです。しかし,ドラフトマンでも設計が面白くなったんですね。面白くって,僕がやったのは,そうですねー,軽井沢の別荘とか・・・
布野:神子さん,連合設計でのアルバイトは,日大理工に入られた後のことも含んでますか?
神子:そうですね。幸建築研究室に行ってたら,日大に関係があるから,お前行ったらどうか,という話になったんです。連合設計でもうドラフトマンとしてほぼ所員でしたから。食べるのも充分食べられたし,もうこのまま自立しようかとも思ったんですけど,日大の二部なら大丈夫だから入ればということになったんです。入ってからは,昼間はもう卒業するまで設計やってましたね。昼間はフル回転。日大は,皆さんご存知のように,近江(栄)[12]さんの研究室に入ったんです。小林文次[13]さんが教授で居ましたね,その下に近江さんが居たんです。
布野:斎藤先生,文次先生は怖かったようですね。
斎藤:凄い怖いし,お洒落だし。英語で授業やっていたね。も~情熱的でしたね。
神子:そうでしたねー,あの頃。文次さんはね,お兄さんが角田文衛[14]さんという,歴史学の大家ですから。小林文次さんは凄かったです。研究室に戻るだけでビシッとする,緊張感が走って,もう~すごい緊張感。研究者というのは,こういう事かと。片っ方の近江さんは穏やかでフランクですから,対照的でしたね。
布野:相模書房時代には,『建築の誕生』の改訂とか,『古代ギリシャの都市構成』(1980)とかぜんぶ担当されたんですね。
神子:そうなんです。中でも小林文次さんの凄いのは英文で作った「日本建築図集」ですね,英文併記の日本の本なんですが,今は大判になってます。解説が中心なんですが,独特な建物を見つけてくるmmですね。外国から来る人たちのお手本,教科書になりました。で,文次さんは増版するたんびに写真を替えるんですね。そのたんびに本人の所に行って,チェックを受けた。それが文次さんのやりかたでした。今でもその本は売っているんじゃないですか。いい本です。
布野:今でも,売っているんですか?
神子:版をかえて売っていると思います。ぜひご覧いただくといい,大正の建物はやっぱり素晴らしいなーという感じがありましたね。
神子:近江研の話でもうひとつあるのは吉田鉄郎のことですね。近江さんは吉田鉄郎の弟子だ,最後の。日大の助教授でしたかね。鹿島建設の設計と兼務してた。吉田鉄郎さんのドイツ語の本がありますね。ドイツ語の内容はあんまり十分でなかったので,その後長谷川堯さん,大川三雄さん含め今の現役の仲間が翻訳しなおして,本になってますが,最初のは近江さんも含めてやった。吉田鉄郎さんの一番晩年の時に,自宅へ行って,一生懸命。いろんな小間使いをしてたのは矢作英雄さん。吉田鉄郎のいろんな資料を預かって来まして。それに沿ったものを建築学会の黄表紙に一杯書いてる。最後に本にまとめるんですけど。日大を辞めて,・・駅の近くにいらっしゃったんです。矢作さんが入院した時に見舞いに行ってます。娘さんがいたんですが,父が亡くなって,内容は分らないけど。これをゴミに捨てるっていう連絡があった。ゴミの収集車が何日に来るというので,慌てたんです。娘さんですから,吉田鉄郎の貴重な資料って分んなかったですね。いやーたいへんだ。すぐ止めてほしいって,直ぐ止めてもらいました。その頃吉田鉄郎の美術館,図書館でみんな動いてたんです。NTTファシリティーズの吉岡さん,今も居ると思うですが。吉岡さんが「じゃーうちが引く受けましょう」っていうんで。どうでしょうか2トントラックで2,3台有りましたね。吉田鉄郎の資料全部引き受けてくれて。・・・・っていうんで,大川さんを軸に,郵政から菅野さんに,もう大変な資料が。今その・・・の資料は・・・資料館が在ると思うんで,そこに収まっていると思う。貴重な吉田鉄郎の資料が一杯,そこに。田端・・の資料は日本で4つか5つある,そこが一番持っていると思う。吉田鉄郎さが持っていた物ですからね。そんなのが日大の,そこで有りましたね。それが・・・
日大に居た時に,近江さんは建築史,ジャーナリズム研究史の看板もっていましたから,僕は,すーっとそこに入って行ったんですね。それで,研究室は面白かったんですけども,最後にどうするかと言うんで。卒論では『建築家の主体性確立のために』というのを書いたんです。その後路,主体性論が流行っていたんです。あんまり出来は良くなかったんですけど, 桜建賞をもらって,賞状を万年筆をもらいましたね。
布野:今もありますね。
神子:ありますか,そうでしょう。桜建賞ありますか~。桜建会というのがあって,斎藤(公男)先生は前会長でしたね。
神子:そうですか。建築家の主体性,主体制論については,吉本とかですね,鶴見俊輔とか,それからアナーキー系の人たちの随分影響を受けました。戦争責任論,転向論も当時流行っていました。そうした議論が卒論には集約されていて,タイトルは「建築の主体性確立のために」ですけれども。半分以上が丹下批判ですね。丹下健三の戦争責任論です。
布野:卒論ありますよね,どこかに。是非読んでみたいです。
神子:あると思いますよ・・・。後に,長谷川堯さんが『神殿か獄舎か』で丹下批判をしますね。僕にとって全く違和感が無かったし,長谷川さんの本を出していくことになるんです。後から井上章一さんが,日本の建築家はヨーロッパの建築家と違って,戦争責任を問われるような活動をしてなかったといいますよね。ああ,そういう事かなーと思いますが,そういう意味では,ヨーロッパの建築はすごいですよね。
布野:井上章一の『アート・キッチュ・ジャパネスク-大東亜のポストモダン』(青土社,1987)(『戦時下日本の建築家―アート・キッチュ・ジャパネスク』(朝日選書, 1995年)ですね。井上章一のこの本のもとになったもは「ファシズムの空間と象徴」ⅠⅡ(『京都大学人文学報』,1982年,1982年)という論文なんです。なんで知っているかというと本人から送られてきたんです。相当,違和感をもちました。そのことを「国家とポストモダニズム建築」(『建築文化』1984年4月号)で触れたんですね。日本にはファシズム建築などない,丹下健三の「「大東亜建設記念営造計画」が社会的にになった役割は,戦争協力という点から考えれば,無視しうるものだと言える」と言い切っているんですね。日本のファシズム建築様式についてはどこにも書かれていない,実現もしていない,だからなかったというんですね。これは,長谷川堯さんとも話したことがあるんですが,「帝冠様式」といった屋根を載せるかどうかという問題が,建築家に実際に迫った問題を井上は理解していない,いまでいう忖度もあるし,特高警察,治安維持法が身近に強いた時代のプレッシャーですね。それと,実現すべきものとしてあった「近代建築」は,丹下健三の「「大東亜建設記念営造計画」によって既に乗り換えられており,モダニズム以後の建築は戦前戦後で連続しているというのも違和感のひとつですね。
神子:日大の時に,もうひとつやったのは,「週刊建設ニュース」っていう,週刊誌があったんですね,そこに「竣工5年後」という頁を編集長にもらって,近江さんとか,黒沢(隆)とか,大岡さんとか,みんなでルポして書いたんです。3年,4年書きましたね。その頃どういう訳か,分らないんですが,原稿料は手形でくれたんです。手形でくれても,どうすればいいか分らない。小林文次さんの所にいらっした助手の住谷さん,女性ですが,お茶の水の駅前のここの所に行ったら手形を割ってくれるから,そこに行きなさいと教えてくれたんです。行って手形を割ってもらって原稿料もらった。僕ら貧乏ですから,随分嬉しかったですね。
布野:『週刊建設ニュース』っていうのを知らないんですけど,どこが出していたんですか?
神子:黒沢隆が年中書いていました。
布野:黒沢さんは先輩ですか?
神子:同じ歳。
布野:同級生ですか。
神子:黒沢とは死ぬまで行き来してましたね。優秀でしたね。でも先生にならずに助手で終わっちゃっいました。惜しい男でした。
布野:誰かにいじめられたんですか?
神子:なかなか こういう形じゃ言えない
布野:斎藤先生はけっこうご存知ですよね。その雰囲気は。
斎藤:学園紛争とかそういうのありましたしね・・・
神子:一杯ありました,一つはね,黒沢が優秀だったですから,この優秀さがやっぱり,ブレーキになったかな。よく勉強してました。
斎藤:批判が多かったですね。
神子:そうです。あんなに教えることに情熱を持った人いなかったですね。
布野:卒論で桜建賞獲って,1967(昭和42)年に日大を卒業,『新建築』 に入られますよね。近江栄先生の勧めですか?
神子:そうです。近江さんの推薦です。近江さん推してくれて,入れてくれたんだろうと思うんです。
布野:馬場璋造時代ですか?湯島ですね。
神子:そうです。
布野:で,1971年に,4年程で辞められますよね。日大闘争も起こり,1968年には東大が全学ストライキをやった。僕は,1968年に上京しましたので,当時の東京の雰囲気はよく知っています。
神子:新建築社に入ったんだけど,労働環境が悪かった。大変ひどくて,どうしようかって…,組合をつくった。一つは労働環境の改善,もう一つは編集権の確立ということですね。編集権の確立ということでは,川添登さんたちの第一次の新建築問題(1967年)がありますね。村野藤吾の「有楽町そごう」を批評したことに吉岡社長が激怒し,編集部員全員が解雇された事件ですね。川添さん,平良(敬一)さん,宮内(嘉久)さん,宮島さん,全員が解雇された。
その時も編集権と言っていたんですけれども,後から馬場さんにも聞くと,社長の一番の友達の村野をけなしたということと,もう一つは部数が激減したことがあるんですね。編集権以前に『新建築』はやばいっていう状況があったと馬場さんはおつしゃってました。部数減が大きな要因だというんですね。その当時,吉岡保五郎さん,創設者ですけども,湯島すぐ100mぐらいの所に住んでいらして,本が出来上がると,吉岡邸にみんな編集長以下,呼ばれまして,出来具合をチェックしてたんだそうです。
新建築に僕らが入った時も,労働環境改善と編集権の確立を同じようにいったんですけど,後々で考えてみると,すでに川添さんたちも,馬場さんたちの時も,編集権はちゃんと確立していて,経営的から圧迫されるということは無かったですよね。やっぱり部数の問題が大きい。それと,僕らのときには労働環境が大きかったですね。労働環境,ひどすぎた。それで組合をつくったんです。丁度,東大の安田講堂の時期でしたね。安田講堂のときに,たいへんな闘争をやったわけですが,新建築社には赤旗が林立しました。
布野:神子さんに聞いたんですけど,新建築問題について,内藤廣研究室で,修士論文が出てるんだそうですが,それは,第一次を扱ってるんですか。
神子:全部ですね,両方です。
布野:二次もですね。
神子:布野さんがおっしゃったように,内藤さんが東大の教授の時に,たぶん内藤さんの指導だと思う。『新建築』史ですね。川添さんぐらいからのオーラルヒストリーがベースですね。全部やってくれてました。日経BPの『日経アーキテクチャー』,『コンストラクション』かな。優秀でしたね。内藤さんに残部があったら,布野さんに送ってとメールを送ったんですけどね。
布野:まだ,受け取ってないです
神子:ただ,オーラルヒストリーというのはね,大事な第一次資料ですけれども,検証が要ります。粉飾して喋っている,自己確認,思い違い,それは大きいですね。第一次資料って面白いんですけど,そこのチェックがジャーナリズムには大事なんです。生に使えません。
布野:それけっこうポイントですね。
神子:今度の建築とジャーナリズム研究会にしても,議論を深めたらいいと思います。
布野:結局4年で辞められたのはどういう経緯ですか。
神子:まあ,組合やったことでやめるんですね。その頃は全共闘の時代でしたから,みんなやってました。東大安田講堂,日大闘争もあった。磯崎さんが日大に講義しに行ったりした時期ですね。日大建築の全共闘議長は前川建築設計事務所の社長の橋本功さんですね。建築共闘の議長,闘士だったんです。
布野:日大全共闘議長は秋田明大ですね。橋本さん近江研ですか
神子:違うでしょう,設計の研究室じゃない,
布野:前川國男先生も日大の自主ゼミに呼ばれたんでしょう。そこで,前川さんは橋本さんと知り合ったんですね。僕は,宮内嘉久さんに呼ばれたんですけれど,結局は僕が潰してしまったということになってしまってるようですが,『地平線』という雑誌を出す企画があったんです。そこで橋本さんに出会いました。最近,福井駿さんという若い京都工業繊維大学の大学院生が,『編集者宮内嘉久の思想と実践について』(2021年3月)という修士論文を書いたんです。そのためのインタビューを昨年受けて確認したんですが,1980 年に,布野修司,入之内瑛,橋本功,小柳津醇一,富永譲,武者英二,永田祐三,藤原千晴がメンバーでした。企画が破綻したのは布野と宮内が対立したからで,永田さんは,布野さんが「支援ではなく売上で運営」すべきと主張されたと見ておられます(『永田祐三の直観力』建築ジャーナル,2019 年)と聞かれたんですが,要するに,自立メディアをうたうのであれば,スポンサーを当てにするのは変だ,ということなんです。その宮内VS布野の対立に関しては,僕は当時『建築文化』1978年10月号に掲載した「自立メディア幻想の彼方に」という表題の文章に書いています。
神子:そうでしたか,
布野:神子さん,『新建築』で扱った建築で印象に残っているものはなんですか?
神子:建物ですか?一生懸命,紙面をつくろってやってましたからね。あの頃は,新左翼運動でしたから。皆さんご存知のように,東大では助手共闘があって,福田晴虔[15]さんとか横山正[16]さんとかがいました。
布野:僕は,横山さんはよく知っています。何度も飲んでいます。吉武泰水研究室の助手だった松川淳子[17]さんが同級生で,ら福田晴虔さんのこともよく聞きました。
神子:当時,いろんな交流があって,いろんなことをやってました。よその会社の団体交渉に平気で出たりね。今では考えられないですけども,三一書房とかは勝ち組になりましたね。『新建築』では仕事しないでそんなことやってました。
布野:仕事してないんじゃないですか?
神子:そうなんです。で,『新建築』止めて,実は鹿島(出版社)に決まったんです。最後の身体検査で受ければいいよと言われてたんですが,『新建築』の騒動が伝わって,駄目になるんです。後に,長谷川愛子さんにお会いしたときに,聞いたんです。
布野:『SD』,『都市住宅』の編集やったかもしれないんですね。
神子:とにかく仕事をしながら,三里塚ですとか,東京中ゲバ棒もって動いてましたから。
布野:ゲバ棒持って歩いてたんですか,『新建築』で!
神子:うん,『新建築』の中はそうではない。仕事が終わるとね。
布野:三里塚も行かれた。
神子:そうです。三里塚は鉄塔が最後だね。三里塚終わったのは。ご存知のように原っぱですから。広いんですよ。現役は元気ですから。その原っぱ,平気で駆け巡って。僕らはよたですから追いつけませんね。そんな事とか,ドキュメンタリー残ってますけどね。三里塚のもう,市街戦みたいな状況でしたね。
布野:僕は,三里塚の鉄塔の図面を描いたんですよ。松川淳子さんの指令で。1段目と2段目で角度が変わるんですが,徹夜で角度出したことを覚えています。サイン,コサイン・タンジェントの立体幾何学ですが,結構手間取った。ガセットプレートの原寸図を描いて鉄骨屋に持っていったんです。現場にも行きました。したら,担当した2段目が膨らんでるんです。間違えたかなあとびくびくしたんですが,ボルト,ナットは締まってますから,構造がおかしいんじゃないかと思いました。構造計算は誰がやったということになったんですが,早稲田のコンピューターで計算したとも聞きましたが,構造は佐久間さんということでした。
布野:結局,相模書房に行かれるわけですが,長谷川堯さんが絡むんですよね。桑沢デザイン研究所で既に知り合われてたんですよね。
神子:そうです。で,尭さんとは呑む(読む。呼ぶ)から何かつくろうかって。尭さん最初の本。今暁さんその手紙を持っていているんです。長文の手紙を尭さん書いて。それで,よしこれでやとうかと思った。
布野:71年11月に相模書房に入られて84年までですから…
神子:13年です。
布野:長谷川さんの『神殿か獄舎か』が出るのは1972年ですよね。これは,僕ら学生にはものすごくインパクトがありました。1972年に大学院に入って,三宅理一や杉本俊多,千葉政継なんかと「雛芥子」を結成,表現主義の映画界とか,黒テントの芝居のプロデュースとか,麿赤児の「大駱駝館」の旗揚げ前公演とか「文化活動」に戦線を転じていたんですけれど,『神殿か獄舎か』が出た直後に,話してほしいと会いに行ったんですね。新宿の「らんぶる」という茶店です。その時は,『神殿か獄舎か』を出すのに全精力使って疲れているので・・・と断られるんですけどね。
神子:
布野:長谷川堯さんは同郷で丁度一回り上の丑年で,その後,いろんな場面で着きあってもらいました。松江で飲んだこともあります。
神子:相模書房の本のリストは,これちょっと年代がバラバラですが・・・
布野:長谷川さんは,その後,『建築-雌の視角』(1973),『都市廻廊 あるいは建築の中世主義』1975と出されるんですが,『新建築』で,『日本近代建築史再考―虚構の崩壊―』という特集を村松貞次郎,藤森照信と組んでやられますよね。
神子:その頃でしょうか,よく村松貞次郎先生のところにも行ったし,ちょうと行った時に,東北大学から来た藤森君です,紹介してくれたことがあります。
布野:僕は,太田広太郎先生の大学院の授業を一緒に受けましたよ。
神子:そうですか。
布野:学年は僕らより一つ上だったけど,一緒に大谷先生の授業とかは受けてましたね。1973~74年頃ですかね。
神子:相模書房の本のリストがありますよね。
布野:冒頭に三宅理一の『ドイツ建築史』上下というのがありますよね。僕らは同級生なんだけど,三宅はフランスに留学したんだけど,なんで『ドイツ建築史』書くんだ,とちょっと問題になったんですよ。同じ時期に杉本はドイツに留学したんですよ。
神子:杉本さんに怒られましたよ。
布野:杉本が『フランス建築史』書けば,なんて言っていました。僕は1976年の夏にヨーロッパに行くんです。部分的に八束さんと回ったりした,チューリッヒで会って,また,ニュールンベルクからロマンチック街道でミュンヘンまで行った珍道中でしたが,杉本にはベルリンで,三宅にはパリで会いました。杉本は,すごく歓迎してくれて,ハンス・シャローンのベルリン大劇場のカール・ベーム指揮の演奏会,それとベルリン国立美術館でのベケットの芝居のチケットを買っておいてくれたんですよ。
神子:その辺のことあんまり知らなかったんですよ。
神子:相模書房についても簡単なメモをつくりましたが,1936(昭和11)年創業でオーナーは鈴木二六。初代社長は小林美一。鈴木家は小田原の名門で,同人雑誌を出すなど文芸に興味があり,文化人だったんですね。兄は小田原市長を5期やっています。強羅の温泉を掘り当てて,今でも在りますね,箱根強羅の環翠楼のオーナー,名門ですね。そこにちょっと書いたかと思うですが,初期には武田麟太郎,里見弴,野上弥栄子などの文芸書を出していた。それと岸田日出刀さんの本を戦前からずいぶん出していました。
布野:親しかったんですね。
神子:そうなですよ。編集をやっていた引頭百合太郎が岸田と懇意だったんです。岸田さんの本をほとんど受けて来ましたね。岸田日出刀さんの本が戦前,戦中ですね,圧倒的にあります。ご存知のように,岸田さんのお弟子さんが郭茂林さんですね。霞が関ビルやったり,貿易センタービルやたりした。環翠楼に本館とは別に離れ4棟をつくったんですが,これも郭茂林の設計です。
斎藤:日大の
神子:そうです,日版の,お茶の水に日版ビル,あれも郭茂林さん。
布野:吉武研だから,郭茂林さんは知ってます。吉武さんが岸田さんの助教授になるんですが,公営住宅の51Cの設計にも郭茂林さんは関わっています。息子がほぼ同じ歳でいましたね。芦原先生のとこだったかな。
神子:郭淳さんですね。霞が関引き払って,杉並の方に行かれたんですけども。そんなことがあって。岸田日出刀という本を出し,大きな本。岸田さんのドクター論文といろんなもの,未完本です。委員長が吉武泰水さんでしたね。お金集め,全部仕切ってくれたのは,郭茂林さん。郭茂林さん優秀なひとでしたから,亡くなって台湾に台湾版と日本版の郭茂林さんの・・をつくる。僕らはみんなお手伝い。今は見られるようになったと思うんですけども。その事もあったせいか,郭茂林さんはデザインが好きで。図面よく描けたんですね。箱根の環翠楼の離れにもまだ泊まれると思うんです。とてもいい建物でしたね。
布野:編集された本のリストには,相模書房[18]以後のものも含まれていますね。
神子:◆印がついているのが,出来れば,どこかにコメント残しておきたい,そういう本ですね。相模書房は零細出版社なので,紙の質とか,斤量とか製本,全部やりました。神保町に今はまだ紙屋さんが在ります。そこに行って紙を選んだり,すぐ下に橋本製本というのがありました。職人タイプのオヤジさんでした。長谷川堯さんの三部作なんかは線香花火でつくった。基本的に編集の僕らがやって,初めにデザイナーに「こんなのはどうでしょうか」と言って,その本の装丁デザインをしてもらう。本が出来ると,今は東販,日版ありますけども,神保町の本屋さん,全部で4,5軒ありましたね。簡単なレジメを書いて,こんな本出たんですがと行くと。だいたい部数の半分くらい,3000部ぐらいですから,その半分ぐらいを取次が前渡金をくれるんです
布野:それは企画の段階ですか。
神子:いや本の見本持って行って,向こうの担当が見て決めるんです。これは力関係で今も新参の出版社はほとんど,ただ同然でもらえない。相模書房は長かったから信用はあった。みなさんご存知のように,今はどんどん本を出さないと前渡金が来ない。会社が回らない。今は猛烈に出す出版社はあんまりないですけど,自転車操業ですね。出してないと前渡金が来ないんです。
布野:増版で食べるというセンスはなかった?それも含めて自転車操業ですか?
神子:相模はそういうことはなかったですね。教科書を何点もつくって出している出版社がありますよね。会社の運転資金はそこで確保するわけです。新刊はほとんど売れません。増版を何点持っているかというのと,教科書を何点持っているか。彰国社さんは教科書をつくっている。重版をベースにして,新刊の数は押さえている。新刊の数は今でも一般書も同じかなと思うんですけど。
布野:紙屋さんとか製本屋さんが近くに居て,手作り感あるじゃないですか。だけど,最近は,製本はみんな長野だと言うんですね。ちっちゃな製本屋ではもたなくって,日本中まとめてやっているみたいなことになっている。
神子:その通り,僕の居たころにも,印刷はみんなそっちでやってました。
布野:70年代はオイルショック後みんなそうでした。
神子:そうです,今大量に機械製版ですから。本が厚かろうと,金かかろうが平気でつくっている。これは本を作り方の作業の一つですけれども。出す方のしんどさがそこに有る。だからどっちかと言うと重版で食べて頑張るか,今は教科書が駄目になっちゃいましたから。重版だけで持ちこたえないと大変だから何とか点数を稼ぐということですかね。
布野:ちょっと先走りすぎましたけど
神子:そんなことで,相模書房では沢山本を出しました。鈴木二六さんはオーナーですが,年に二回,財務報告みたいなことをするだけなんです。売り上げはどうですか,というんですが,内容にタッチはしないんです。私が入った頃は小林,引頭は老齢で,用事のある時だけきていた。結局その中で,長谷川堯さん,布野さんもそうですが。みなさんによく出会いましたね。
やっぱり今思うのは,根本にあるのは,最初の吉本隆明と鶴見俊輔,この辺の土台が僕にはベースになっていて,いつも頭にあったのは「どうすれば時代に切り結べるような本が出せるか」というのは一貫してましたね。ですから,いろいろ人の論文を,学会に行ってよく読んでましたね。要点は,時代に切り結べるもの,どういう著者をつかまえればいいのか,出した本の大半はそういう視点から作られているんです。リストに※をつけてありますが,それだけでも,充分話ができるような,思い出のある本ばっかりですね。
布野:1984年に相模書房をやめられて,その後,日刊建設通信,そして日刊建設工業新聞に移られるわけですが,相模を辞められたのは,出版社としてのある種の限界があってということですね。小川格さんさんと一緒に辞められて,小川格さんは編集事務所の南風社を設立されるわけですよね。
神子:そうです。現在は顧問ですけどね。「新建築」事件で一緒に辞めた後,「a+u」創刊に1年関わり,私が相模書房に入った翌年(1972年)に相模書房へ合流します。相模書房の仕事は,小川との共同作業なんですね。相模書房はもう辞めよう思ったのには幾つか理由はあります。一つは重版で食べる所ですから,一杯重版点数を持っている。その重版も年中部数が増えるのは厳しい。経営的にしんどくなった。それから,もう一つは執筆者がいなくなった。これも今,布野さんの最初の時は何年,20年ぐらい経ってますかね。
布野:私の『戦後建築論ノート』の頃ですか,そんなところじゃないです。1981年に出してもらったんですから,40年経っています。最初にちょっと言いましたけど,僕が東洋大に移った頃,毎週とは言いませんけれども,池袋の喫茶店に呼び出されて「お前どこまで出来た」と,それを見せると「これではだめだ」と,何か熱い指導された記憶があります。「こんな生ぬるいことを,お前は将来偉くなるかも知んないから,もう少しキツイこと書いておけ」とアジテーションですねほとんど脅しですね。俺は鮮明に覚えてますよ。すごくアジられた。だから編集者というのはアジって,執筆者を鞭打って育てるものだとずっと思っています。
神子:大変申し訳ない。
布野:その後も,日刊建設通信でも,日刊建設工業新聞でも,使って頂きました。まあまあ成長はそれなりにはしたのかなーと,思ってます。
神子:僕にとっては,布野さんは鮮烈でしたね。こういう事を書く人が,その後にどう見ても,匹敵するような執筆者いなくなっちゃた,若手で。その後,うんこれは!と思ったのは早稲田の礼仁さん。
布野:中谷礼仁。
神子:明治国家のなんとかという。
布野:『国学・明治・建築家』ですね。あれは修士論文ですね。今村創平さんは同級生ですか?
今村:先輩です。
神子:そうですか。あれ読んだ時に久々に布野さん以外の大きな筆者が出たという感じがしました。あの本を出したかったたですね。それほど布野さん以降居なくなったった。
布野:ちょっと言いすぎですね。
神子:居ないんですよ。
和田:東北大に居ますよ。
布野:五十嵐太郎ですか,どうかな。斎藤先生が建築学会長になられた時には『建築雑誌』の編集長に起用されたんですよね。
神子:建設通信というのは,業界三紙のうちの一つですね。日刊建設工業通信,日刊建設工業,こないだ廃業した日刊建設産業新聞の3つですね。日刊建設通信は,田中一[19]さんという社会党の大ボスがつくった。今でいう二階みたいな社会党の代議士ですね。その人がつくった出版社です。その弟が田中孝,本人は代議士。弟は会社,それが建設通信ですね。建築系は強かった。田中孝『物語・建設省営繕史の群像」上,中,下を出しています。名著だと思います。建設省,今の国交省ですね。逓信省から来てから郵政へ行って,,ご存知のように郵政建築の保坂さんとか,国交省の方は・・・明治28年といっている。こっちはあれでしたね。建築が強くって。そこでずいぶん作りました。この群像は今でも,営繕部長委託して本に。凄い本だなーと思うんですけど。そんなのを作ってました。それで
布野:『建設通信』時代ですね。業界紙で,それこそ,その日その日のジャーナルのなかで,建築家とか,建築文化を扱っておられた印象があります。
神子:そうです。それをほぼやっていた。それで,ある日,ライバル紙,建設通信とは対局的な建設関係のゼネコン系の新聞,業界紙です,そこから声がかかった。今の社長・・・実はこれこれしかじか,うちは建設には強いんだけども建築の方がだめだから・・っていうんで呼ばれたんです。こっちへ来て,建設通信の方,建設工業の方,皆さん,その間に一杯取材をさせていただきました。それが大きな流れです。
布野:,建設通信に約12年,建設工業には約13年ですか,相当な人脈をお持ちですよね。退職後12年ということですが,今も現役でバリバリ仕事されています。最近も私の本の書評を送っていただきました。これ最新の建築士会連合会の機関誌ですけど,伊東豊雄インタビュー兼評論,相当な枚数書かれてる。実際に取材をされてた書かれるんですね。
神子:もっと突っ込むべき,やるべきことがまだまだあるんですね。時間はとても足りなくって・・・。
布野:神子さんは,プロとして,自分のことは自分でまとめるとおっしゃっていますし,さらに聞く機会はこの研究会でも設けたいと思います。今日は,A-Forumの「建築とジャーナリズム研究会」のキック・オフ・ミーティングということでので,神子さんへの質問も兼ねてですね,少し議論したいと思います。
一つはこの間,紙媒体の建築ジャーナルというか,メディアが無くなって来たということがあります。それもすでに20年近くになります。例えば『建築文化』が無くなったのは2003,4年だと思います。『SD』『都市住宅』もない。そういう問題をどう考えるかというのが一つの問題意識としてはあります。プラス,もうひとつ神子さんのようなエディターというか,そういう仕掛け人が居なくなった,ということがあります。さっき書き手が居なくなったというのと並行してると思うんですけど。そういう中で,このA-Forumのような場の意味もあるんじゃないかと思います。僕は途中から参加させてもらってるんですが,構造系の先生方の活躍見て来ています。ただ,それが上手く一般に伝わって行かないということも感じます。建築ジャーナリズムと一般ジャーナリズムがつながらない,それ以前にそういう問題があります。発信者側の問題,それを伝えるメディアの問題ですね。今日はいろんな先生がいらっしゃいます。チャット欄に是非,意見,質問を書込んでいただきたいと思います。
布野:神子さんが居なくなったというのは答えにくいかもしれませんが,紙媒体メディアとそれに代わってSNSによって情報だけは得る,そういうルートが成立しているわけですけどどう考えますか。そういう時代だから『建築雑誌』もいずれ変わらざるを得ないだろうと思って,建築学会でいろんな反対はあったんですけど,『建築討論』というメディアをつくったんです。最初は学会という枠が相当議論の幅を狭めるのでは思ってたけど。辛うじてちゃんと議論できるかたちにはなったんじゃないかと思います。立ち上げには相当苦労しましたが,二代目を引継いでくれた青井哲人さんが軌道に乗せてくれました。
神子:あれは建築の何年でしたか始めたの。もう何年経ってますか
布野:和田先生と僕が,会長,副会長をやっている時に,やろうと言って
和田:2011年から2013年が任期でしたね。
神子:最初は違和感があったんですか。
布野:学会を通すときには,『建築学会』があるわけですから,その位置づけが問題になったんです。A-Forumというこの場とも関係がありますので背景を言いますと,学会というからには,その中核は,論文審査権ですね。だから,論文集委員会が一番偉い。だけど,プロフェッサー・アーキテクトというか,大学のアーキテクトを採るときに,学位論文が必要とされる。日本建築学会は,学術,技術,芸術という三位一体をうたうわけで,他の工学系学会とは違うわけです。しかし,建築学科は大抵工学系の学部に所属しますので,学位とか論文の数が問われます。斎藤先生はアーキニアリング・デザインということをずっと主張されてきていますね。首都圏でいうと横浜国立大学のYGSとか,早稲田とか,法政とか,建築家を頑張って評価しようという流れはあるんですが,文科省からのプレッシャーもあるので,学会で『建築選集』というのを作ったんですね。そこに発表したら,大学もそういうのを認めて欲しい,学会としては認めますよ,ということを進めてきた。それで,結果的には,『建築討論』ということになったんですが,これ,和田先生が主張されたんですよね。僕は『建築文化』でいいんじゃないか,彰国社に許可をもらいに行こうか,「潰れたからいいでしょう」なんて言ってたんです。それはともかく,そこに作品を一杯発表していもらって,それから建築選賞が選ばれて,さらに学会賞が選ばれる,という仕組みなら,OKということになった。メディアとして,機能するだろう。だから,編集委員会は建築学会賞と同じ構成,建築家何人,環境系何人,歴史系何人というかたちになったんです。まあ,僕はとにかく初めて,議論の記録性が大事だと言って出発したんです。
それで2014年に1号,2号と出すんですが,WEBデザインも定まらず,記事を作るのに苦労しました。だいたい応募して来ない。一生懸命応募してくれた中に香月真大君なんかがいて,その後つきあうことになったんですが,とにかく,書評を書いたり,粗雑な記事を随分載せました。僕が3期やって,『建築雑誌』編集長経験者の青井さんが二代目で,軌道に乗せてくれたんですね。こんど,2022年1月から三代目に五十嵐太郎君のところの市川浩司君が三代目になるようです。縮めていいましたけど,そういう経緯です
神子:和田さんは,『建築討論』のほうがいいということだったんですか,
和田:最初,『建築批評』ということだった
布野:そうです。僕は『建築批評』を主張したんです。だけど批評されたらみんな応募しなくなる,ということで,『建築文化』がモデレートかなと思った。
和田:もうちょっと前向きがいいなーと
神子:そうですか,それは正解でしたね,批評よりかは討論が本来ですね。
布野:僕は実はしめしめと思って乗っかった。ディベートですからね。それはそれとして。僕は学会として,いつまでも紙媒体を維持できるかどうかは疑問だったんです。黄表紙の電子ジャーナル化は見えていましたから。論文集は来年から電子ジャーナルになりますね。そうなると,会費をとったりするのは大変ですよね。僕も編集長一回やりました,編集委員も2回ですから,結構関わってきたんです。3万部の編集長って気分よかったです。何も言われずに自由に編集できるんで。ただ,いろんな声は聞こえてきましたけどね。学会のメディアはメディアとして,ここの場ではもう少し,一般に開かれたメディのことを考えたいと思うんですね。神子さんはこの間,いろんなメディアに関われてきたわけですが,編集者としては随分いい本を作ってこられた。いい本をつくっていくというそういう方針はあると思うんですが,もうちょっと議論する場としての紙媒体雑誌はもう無理ですか,どうお考えですか。
神子:少しずれるかも分らないんですが,今はどうか分りませんが,建築学会の理事会が終わったあとに,記者会見します。で,学会の先生方が並び,こちら側に記者がずーっと並ぶ。昔で言うと,大江さんとか・・・いろんな役者を呼びました。その頃は建築関係じゃなくって,一般の記者も一杯来ましたね。でもあっという間に一般の記者は来なくなった。
布野:それは何故ですか
神子:あんまり専門の事を話しているからだろうと思うんです
布野:和田先生はそれをやっておられますよね。NHKとはつながりがあって,地震とか台風で被害があると呼ばれますよね。何でそういう場がもうずーっと無いんでしょう。
神子:だぶんね,建築家とか研究者が,社会的に期待されていることに応えてないんですね。人気だけでものごとが終わっている。一般の人にはなかなか響かない。普遍性があるとか,一番大きな問題で,将来につながる,大きな問題について。まず枠を取っ払うのは,ぜひここでもやって欲しい。今でも,一般紙の文化欄には書く人がいますよ。今は朝日ですね。大西若人さんがいます
布野:朝日は大西さんが一人で書きまくってますよね
神子:前に亡くなった,松葉一清さんがいたから。唯一朝日は建築欄を今も持ってますね。
布野:大西さんに後継者いますかと言ったら,いるような,いないような返事でした。建築出身じゃないけど,興味をもっている女性がいると言ってましたけど。
神子:他の一般紙はたぶん建築に特化した人は居ませんね,美術の中の担当ですね。
布野:むかしですが,産経新聞で,50回ぐらい連載したことあるんですよ[20]。建築という欄というか頁が,一週間に一度ですが,そういう時代があった。なんでそれがなくなったのか。
神子:昔は毎日もありました。布野さんはよくやってた,共同通信でもよく書かれてた。だけど,それ昔ですよね。建築だけじゃなくって,何か変わった・・・
布野:共同通信とは,柏木博,藤森照信,布野修司,松山巌でやった「戦後と建築五〇景」という連載がきっかけですね。『建築作家の時代』(Libro,1987)にまとめられるんですが,柏木さん,松山さんは『朝日ジャーナル』で書いていたし,声がかかったんだと思います。共同通信の文化部の編集者井手和子さんと,小山鉄郎[21]さん,そして写真家の吉田敬子さんの共同作業でした。小山さんは文芸評論家として有名になりますよね。井手さんは顧問(嘱託)ですね,最近,井手さんを通じて声が掛かったのは,新国立競技場をどう思いますかといってインタビュー受けて,記事になったんですが,コロナ直前で,東京オリンピックのレガシーを問う,というシリーズでした。木造,木造と言ってますが,あれ本当に木造なんですかというのが,若い編集者の素朴な疑問でした。記者発表に行って見学もしたんだけど,あれ疑問だと。大手新聞社は,みんな木造だって書いているけども,どこが木造ですかと言うんで,いろいろ解説したんです。
神子:最近ですか,
布野:去年(2020年)2月ですね。ただしオリンピック自体があやうくなったから,どうなるかと思ってたんですが,シリーズはやったようです。共同通信はレガシーをどう考えるかをテーマニシリーズをやったみたいです。それは僕にも声が掛かったのは,井手さんが,そういう問題なら布野さんに聞きなさいと言ってくれたらしいんです。それがきっかけで井手さんとも久々会いましたが,担当した女性記者も芸能が専門で,建築はあんまりわからないということでした。やはり編集者とのつながりでしょうか。
神子:5,6年前に定年になった,共同の建築担当の人いましたね。その方と今会っていて,
布野:女性?
神子:男です。安藤忠雄さんの批判をしたりよくやってるんです。そういうような問題が現実はありますよね。窓口が無いと。
布野:僕は斎藤先生にちらっと言うんですけど,A-Forumに一般ジャーナリズムの人に来てもらったらどうか,こっちがプレゼンして,聞いてもらったらいい。
神子:そうです 是非
布野:もう一つは現役のね,新建築の編集長とか,日経アーキテクチャーの編集長とか,ここに来てもらって。一体何を考えて編集しているかっていうことを聞いたらどうか,そういう議論はぜひやってみたいなーと思うんです。そうしているうちに動きが出てくればと・・・
神子:構造の問題があったときは一般のレベルで扱われました。ああいう悪い例でしか扱われない。
布野:そうなんです。文化欄ではアーティストとして扱われる。それ以外の欄では全部業者です。個人名出ません。それをよく書くんですけど,その構造は全然変わらない。一体何なんだろうと思う。もっと一般的な建築についても,身近な居住環境だとか,建築をつくる楽しみとか凄く考えて教育もしているし,一生懸命やってる建築家は一杯いるんだけど,建築業者というとだいたい悪い奴というイメージがある。
神子:ましてや,今非常に盛んになっている町づくりとか,町おこしなんか,みんな建築家が関わっていないと出来ないですね。だけどもこれは誰がやったなんて出て来ないですから。話題ばっかりで,肝心の方々に取材出来てない思うんです。そういう問題,不思議ですねー。
布野:和田先生どうお考えですか,孤軍奮闘の感がありますが。和田先生はだいたいどこにいっても本音で怒るじゃないですか。なんでこんなでこんな高層つくるんだとかね。だけど,一般の理解はなかなかついてこない。みんなタワーマンションに住みたがったりする。
神子:和田先生はテレビでもよく拝見しますが,あれはこちらから出たいというんですか。向こうからですか
和田:放送局局や新聞社も事件が起きると電話かかってくる。これだけマンションが壊れましたよと,何故ですか?と聞かれる。
布野:最近のフロリダのマンション崩壊も,あれは一体なんですかね。アメリカで潰れるってこともあるんですね。
和田:京大の構造の先生に話したら「海岸だからクラックから塩分が入ってたから」というんですが,全然理由になってない。塩害で建ってるマンションは一杯在るのに・・・。
神子:いまは何か事件が起こんないと呼ばれないですね。もっとこちら側から発信できるようにならないと。
布野:建築の性能,エンジニア的なことは,誰もが関心を持つわけですよね。国交省住宅局の対応だと,建築基準法を守ってないから駄目,不十分だから駄目だということになる。基準法を強化しますということで閉じる。建築のデザインという話になると,うちは要りません,安全であればいい,金が掛かるのは要りませんということで,先に進まない,国も自治体も,住民もそういう二元的な扱いしかしない。神田先生が建築基本法制定の運動に関わっておられるのもそのことに関わるんですよね。建築に関わっているわれわれは,相当いろんな事を学んでいるし,役に立つはずなんだけど。何が悪いんですかね。
神子:川添登さんたちが仕掛けた伝統論争の時代は,日本の文化に係わることを発信ずいぶんしているわけですね。それがなくなってきた・・『建築文化』が随分頑張ってたんですけども・・結局きちっとし評価を指針も含めて提起する人,場がなくなった。場がなくなったという前に,そういう提起をする人がいない。今や,固有名詞を出して,これがいいとか悪いとかいうことが言えなくなってきている。株主ですとか,周辺の制約は凄まじいと思います。最近は特に強いですね。
布野:こないだ僕は,隈研吾の「角川武蔵野ミュージアム」の批判を書いたんです。あれは,フェイクだって書いたんです[22]。もちろん見にいった。「新国立競技場」が隈の木造建築の到達点で,「角川武蔵野ミュージアム」が石造建築の到達点だなんてマス・メディアがいうんで,かつての虚偽構造論争をひっぱりだしてフェイクですよ,ということなんです。一般の人にとっては,一般の編集者も建築がフェイクだとかオウセンティックであるかはわからないし,建築とはそういうものだと思ってるわけですね。
神子:そのまま載りましたか。
布野:もちろん載りましたが,それがスポンサーというか,企業のウエブ・マガジンなので,前の号なんかで隈インタビューなんかやってる。真壁智治さんが仕掛けてあるスペースを乗っ取るかたちなんですが,誰が読むんだかわからない。しかし,市町村の公共建築は,今や隈,隈,隈なんですよ。特命でお願いしたい,という。なんでそうなるのか。
神子:そういう事は書けない
布野:まず書く場所がない。昔も,いろんな話があったけど,設計者選定の公正,公平なやり方を訴えるわけですが,建築家の側で,それを裏切っていくことが相変わらず少なくないんですね。
神子:ぜひここの場で,その発信をされたらいいと思うんです。それを是非・・・
布野:この研究会がきちんとものを言う場に育っていけばいいと思います。
金田:南に行っても北に行ってもこれあの人だと分かるような建築がありますね。隈さんの建築もそんな感じになりつつありますね。沖縄でやったのはこうで,四国はこうで・・そんなこと書きにくいですか。
布野:事実だから書けばいいと思いますけが,安藤さんもそんな時代がありましたね。打ち放しコンクリートの安藤もどきが日本中に出来たじゃないですか。それは安藤さんそのものかと言うと,必ずしもそうでもない。みんなが真似した。真似する方の問題も書くべきですね。今も隈さんの木をぺたぺた貼ればいいんだ,みたいなのをみんながやるかもしれない。そういうレベルでしか,一般的には扱われないのが日本の建築文化の水準なんですね。
金田:うちの町にも美空ひばり来ました,という感じですね。
布野:今の隈現象にはそういうところがある。隈現象に限らず,議論すべきことはいろいろありますので,そうした議論を記録に残していきたいですね。
神子:そうですね。『新建築』の月評で宮脇壇さんなかが猛烈な批評をしてましたね。
布野:言いたいことを書いた。
神子:すごいですよ,こういうことが言えるのか,今読んでもびっくりしますね。
布野:月評についてはね,誰も知らないと思いますが,僕もやったことがあるんです。こんどその頃のことを振り返ってみようと思ってるんですが,中谷正人の仕掛けなんですけど,ペンネームで1年やったことがあるんです。調べたら79年だったんですけど,谺炎造,矢田洋,流主水という3人です。谺炎造というのが向井正也先生,矢田洋さんは有名な山口昌伴さん,そして,流主水,ル・モンドというのは,僕と,中谷正人(『新建築』),野崎正之(『建築文化』),川床優(『ジャパン・インテリア』)の4人なんです。要するに,自分の雑誌を超えて議論したんですね。今はどうか知りませんが,月評は紙面だけで批評するんですね。刷り上がったほやほやの『新建築』を中谷がもってきて,飲みながら,何だこりゃとか,これいいね,などと言いながら,今月はお前が書けといった調子でした。
神子:そうですか。
布野:とにかく制約なく議論が出来ないかなーと思うんですけど。
今村:『新建築』の月評ですと,ザハの新国立競技場問題で凄く議論が盛り上がりました。槇先生が出て来て大きな声を上げられたわけですが,ある意味ではそれは凄く正しかったと思います。新建築の月評では浅古さんという若手の方が,ぜんぶキチンと批判していました。論理的に。槇先生ってここは正しいけど,ここはどうかと。例えば,ザハは世界中で作って,形をばらまいているというけれど,そんな根拠はどこにある。ザハだって一生懸命つくっていてて,槇先生・・・そんなこと単純な言いがかりにすぎないと・・・。
布野:そういうのをやるべきだ。
今村:新建築に書いて,新建築はそれを載せてますから。書く人間の意識が問題ですね。昔は出来たとかって言ってしまうと,もったいないなーと思います。
神子:なるほど。
今村:若い,そういう人もいるということなんです。私もこの研究会に誘っていただいて有難いんですが,年長の人が多くって,もっと若い方がいればね,どうしようかなーと思うんです。
布野:若い人は忙しいんですね。ここにきている種田元晴くんなんかと何か新しいメディアをつくろうと集まり出したんだけど,話を聞くと,ものすごく忙しい。今,大学は大変なんですよね。僕もまだ大学にいるから,とにかくやることが多い。今村さんは閑とは言わないけど,現役だけど,JIAの編集もやられてたでしょう。そういう意味でメディアについても,意識がある。,
今村:うれしいです。私は89年に大学を出たので,その頃は『SD』も『都市住宅』もみんな読んでいたのが,90年代にばーっと無くなった。建築雑誌がなくなると,学生の時はたくさん夢中になって読んだことを,懐かしく思います。分るんですけど。一方で私もそうですけど,学生と話していると,何で60年代,70年代にあんなに議論があったかを理解するのが難しい。凄く入り難いのが政治です。今日,神子さんの原点として,吉本隆明,鶴見俊輔という話になってましたけど,私は知っている方かもしれない。鶴見俊輔、良行の兄弟,『思想の科学』,その頃すごかったと言われても,われわれは単純には入っていけない。逆に僕が若い世代と議論しようとすると,学生はなんで革命だとか,なんで批判しないといけないのか,と言われると,ずれがある。彼らも問題意識も持っていますし,議論がきらいということでもない。このずれをどうすればいいのというか問題意識があります。
外国でも同じような歴史があります。外国の建築ジャーナリズムもすごく豊かで活発でした。60年代,70年代に沢山出ていました。建築界でも同人誌,リトルマガジンなど若者が主体に発信しました。そして、レイナー・バンハムにしても,セドリック・プライスも一般紙にも書いていました。左翼系のニュースサイトにアーキグラムなどがガンガン書いています。しかし,1968まで盛り上がってリトルマガジーンなどはザーッと消えていった。似てると思います。
布野:グローバルな視点も必要ということですね。建築家のポジション,建築の社会における位置づけが相当違うといのは感じますよね。要するにヨーロッパ社会における建築あるいは建築家というのはなんとなく尊敬されている雰囲気がある。実態はどうか,,建築メディア,編集者はどう機能しているか,興味深い。建築家界の問題,建設業界の問題については,安藤(正雄)先生中心にAB研究会で何回かテーマにしてきたんですが,かなり似た同じような問題があるような気がしないでもない。設計と生産,デザインビルドの問題といったレベルで比較して議論してますけど。逆に日本の問題を発信していくような事も考えもいけないのかも知れませんね。今村先生もコア・メンバーとして,もっと若手をインバイトしてもらえればと思います。
布野:ZOOM参加ですが,A-Forumのコア・メンバーである神田先生お願いできますか。
神田:はい,今日お話を聞いてて,どんなことを話ができるかなーと思ったんですけど,僕が建築学会で,布野さんなんかも一緒に,『建築雑誌』の編集をやっていたときに,「構造パースペクティブ」というシリーズ企画をつくったんですね。僕はそこで,本当は構造設計についても,お前の方がちょっと間違っている,というような設計の議論ができるといいかなーと思ってたんです。そういう欄を24回連載したんです。その時思ったのはいわゆる建築の意匠の分野では,あんなのおかしい俺の方がいいみたいな議論がそれなりにできるのに,構造っていうのはそういうのがないんですね。なんとなく,構造設計って正解が一つあって終わり,みたいな,そんな感じがあるんですね。結局,なかなか上手く出来なかったんですけど,人のやっている事に対して,注文する,これはおかしいって言うと,あとで何となくシコリが残ることを心良しとしないんですね。今は,その傾向がもっともっと凄く強くなっているような気がするんですよね
今チャットに書いたのは。姉歯(耐震偽装問題)の時もそうなんですけど,構造としてどこに問題があるのかという議論にはなかなかならない。法律を守っていないからこれは駄目だと。だから,責任とらせろ,賠償しろ,というお金の問題になって最後は議論が終ってしまう。構造技術者が必ずそこには絡んでいるはずなんだけど,その人がどういう考え方でそういう設計をしたのか,そういう議論にまったくならない。なるべくそういう議論もやらないようにしようみたいな。雰囲気が凄く感じられるんですね。
建築学会の中もどちらかと言うとそういう状況があるんじゃないかなー。要するに,個人と個人が批判し合うというような事になると,あとあとなんとなく顔を合わせにくいとかね,そういうような状況になってしまう。討論が下手というか,本来討論をしてそこから何か生み出されることに討論の価値がある,学術なんて本来そうだろうと思うし。技術だってそういうようなことが凄くあると思うんです。何か社会がそういうものを良しとしない。学会は本来そういう事を一番やらなきゃいけないところなのにやっていない,そんなところがあると思うんです。広い意味ではメディアということだと思うんです。この研究会が突破口になるといいなーと思いました。
布野:もうひとつ大きな問題は,建築が建築家というか設計者だけのものではないという,ところが本質的にありますね。建築は集団の作品であって,基本的にはクライアントのものですよね。建築家の古典的理念として,クライアントと社会の間に立って,第三者として,公共のための建築を設計するというのがあるんですが,「公共建築」の場合はともかく,民間の場合は,実態は業者ですよね。クライアントの要求には逆らえない。要するにクライアントがいて,設計がある。文学や美術,個人の作品を自由に批評するのとは違う。
神田:そうですね
布野:クライアントが順法精神をもたないと違反建築を強いられたりする。さすがにそれはやらないにしても,建築基準法とかその他法令の隙間というか,ギリギリの線で容積を最大化するとか,通常の業務としてやりますよね。
神田:そういう意味で,建築基準法というのは,基本的に建築を私有財産として位置づけている。それがもの凄く強い。我々が建築基本法の基本とするのは,建築は本来社会資産だということですね。それを前提として,その空間を占有するということは社会にとってどういう意味があるのか,という観点からルールをつくるということですね。もちろん,個人に財産権はある,しかし,社会的空間の構成要素として,その人の全て自由という訳ではないという認識が必要なんですね。それには教育の問題もある。
布野:それはその通りです。景観の問題に随分かかわってきて『景観の作法 殺風景の日本』(2015)という本を描いたんですが,私権の制限は実際には相当難しい。景観法はうまくできていて,いろんな仕組みが活用できるんです。しかし,景観形成地区とか景観保存地区とかを決めて私権を法的根拠をもって制限するとなると,線が引けなくなる。線を引かなければいいんですけど,要するにすべて地区が美しくあるべきということですが,じゃー委員会つくってある地域のこういう景観は推奨ですよ。これは×ですよ,みたいな議論をしていると,×の事例は出せません,となる。僕は,当面,景観条例と景観法を併用していけばいいと思っているんですけどね。
神田:そういう意味では,公共建築とか,それから再開発なんか特にそうだと思うけど,もっと議論できる場をつくる必要がありますね。
布野:もうひとつチャットに書き込みがあります。湯本先生ですが,4時に退出しますということで既に退出されてますので,読みますと,「建築の在り方を主に設計の動向を中心に批評しながら何かしらの方向付け,影響を与えてきた建築ジャーナルというのがほぼ全く見えなくなって久しくなることを,私も正しい姿勢の保ち方を支えてくる伴奏者として消えてしまうことを・・・」。これ長いなー,丸がない。「この研究会には期待します。まだなかなか本題に入らないのは残念ですが。建築の本質を鍛えてくれる,なくてはならない一要素として建築ジャーナリズムが今後どのように,存在するか。具体的な補足も合わせて議論され教えていただければと思います。申し訳ありません・・」ということです。
布野:種田君が若手としてきているから,一言喋ってくれる。
種田:種田といいます。布野先生とはいつも,いつもと言うか,この会の立ち上げの前にも,これから建築ジャーナリズムがどうなっていくのか考えないといけないね,という話をいただいてるんですが。なかなか動きが鈍くって,お手伝いが出来なくて申し訳ないんですけども・・・。さっきからお話聞いていて思ったのは。僕自身,文化学院大学で教師をやっているんですが,学生に対して,厳しく指導するとハラスメントになっちゃう,という事があります。そういう事と批評するという事が出来ないのがどうも親和性があるような気がします。誰かが嫌な思いをすることはあんまり美しくないということが,そういう風潮がどうもあるんですね。
布野:我がままやったのは駄目というのは当然じゃない。
種田:どうやって怒るかというのにとまどいがあるんですね。簡単に批評できなくって,批評する前に,そのための技術を相当積み重ねないと人のことは喋れない。
布野:だけど教師ってそれを教えるんじゃないの。批評がないといい建築も生まれないんじゃないの?
種田:教師は批評精神を備えてなければならない。だから教師たちがむしろ批評されることを恐れてはいけないと思いつつ,どうやって学生たちを押えるかと言うのは常に悩ましいなと思う。学生の言っていることは間違っていても,おまえもっとこうしなきゃおかしいだろうと思っても,おかしいだろうとは言えない。おかしいだろうという言い方はできない,どういうふうな言い方をするか,選ばなきゃいけない・・・
布野:おかしいのはおかしいと言うべき,僕なんか罵倒したり,ほとんどハラスメントし続けたことになるね。でも30人ぐらい教師が育ったよ。怒鳴ってただけだけどね。確かに,最近の若い先生は,講評なんかでも褒め上手だよね。みんな滔滔とよく褒める。
種田:そういうやり方しないと,他の人と比較しながら,どこがいいかという議論はできるけど,何が間違っているかとは議論しにくい。そういう場で。どうやったらいいのかちょっと悩ましい。
布野:褒め殺しというのもある。植田実さんなんか褒め上手でしたよ。僕なんかがこんなのよく褒めるなあ,と思った作品でも,どこかいいところがないかと探して褒める。褒め方の差異で,それはそれで伝わることはある。植田実さんも,採点という場面になると,結構ばっさばっさと厳しかったですよ。種田君は建築の基礎教育に興味があるわけでしょう。基礎が間違っていたら,まずいよね。
種田:はっきり教えるものが決まっていれば,教えられるかもしれない。だけど建築がどうあるべきかというと答えが一つで決まらないものにはなかなか難しい。主義主張のぶつかり合い
布野:コンペの審査なんか考えてみればわかると思うけど,批評言語を鍛えておかないと勝てないよね。40年ぐらい教師やっているけどね,ポストモダンが出てきて,教師が自信なくなったということがある。これもあり,これもありみたいな,状況になった。僕らは,芦原義信先生に習った。最初の課題は美術館だったんですけど,まず,6m置きに柱を建てろ,梁背はスパンの10分の1,柱梁をグリッドに建てておいて,床のレヴェル,光の入れ方,つまり開口部それを考えて,動線を考える・・・という調子でした。まあ,芦原流の近代建築手法の手ほどき受けてきたんですが。これ面白くないってポストモダンが出てきた,我々の世代からザハみたいなのが出るわけです。これ悪いといえない。構造の先生に聞いても,それはなんでも出来るよと言う。
種田:今は,各自で自由にブログで言いたいことを書けるわけじゃないですか。そうすると各自で,みんなが批評家になって,それぞれで言いたいことを言っていると思うんですよ。
布野: 140字で批評ならないんじゃない。
種田:140字じゃなくって,ノートNoteとかいろんな頁を持っていて,人気の記事はお金を払ってくれる時代なんです。それが権威ある媒体が無くっても人気の書き手はそれだけで,個人でやれる。そうすると,何か権威があって場を作ってそこで議論しようというような場になると,その集団のスタンスが問われるとか問題になってきて。色々足枷手枷になるだけだと思っている人もいるんじゃないか。だから,批評がまったく無いわけじゃなくって,分散して一杯あって,総じて建築界全体でこうありますって,動きをまとめてないだけなのかもしれない。僕らがやることかもしれない。
神子:批評は分散して一杯あるんですか?
今村:ある程度あると思います。ただ一方で不便なのは,それが一定のコミュニティ内に閉じていることですね。例えば,アウレル・シュナベルという凄い優れた世界でも何本指に入る優れた書き手がいるんですが,彼の本『パンデミック後の建築における意味の構築』がちょっと前に刊行されたんです。その本について,すごい理論書なんですが,全部きちんと読んで,大学院生がノートNoteに書いている。本当に力がある。僕は知らなかったんですが,学生たちはアウレル・シュナベルに興味あってみな知っているんです。彼のノートNoteは凄いんですが,依頼されて書いているんではなくって,書きたい事を書くということで自由に書いている。私もアウレルに興味あると公言している割にはそのことを知らなかった。結構,ちっちゃなバブルみたいな集まりがいくつかある。そこにうまく入ると分るんだけど,そうじゃないと全然知らない。
今の若い人たちは,自分の知りたいことはよく知っている,反面,それ以外には興味をむけない。SNS自体が知りたいこと以外に入りにくいシステムになっている。自分の興味あるものを検索すると,それと関連ありそうなサイトにのみ誘導される。幅広くいろんなものを探しにくいという問題があります。
要するに共通の情報基盤がない。僕が建築をやりたいと思った頃は,みんな『新建築』とか読んでいる,最新号はだいたい見てるから,話が通じるんですけど,今なんか全然通じない。最新の情報に興味ないし,最新号読んでない。そもそもそういう建築雑誌が無くなったんですけどね。
講評会とかで,例えばキンベル美術館といっても知らない人がいるから,先生方ばかりで話をしても通じない。そういう言い方だとまずいかな。僕なんか古いなーと思うんですが,日本ではジャーナルたくさんあって,それを,みんながむさぼるように読んでいる,一つのコミュニティと称するんですね。そういうことは外国にはない。そんな熱い知識でつながっている。それがあるがために,逆に,そうじゃない人は批判ができない。社会とつながってないということがあります。
建築界の人間はすごいたくさん知識もって議論しているつもりなんだけど伝わっていない。自分たちのコミュニティではすごい議論をしているんだけど社会に伝わらない。30ぐらいたくさんメディアがあった時代というのが,ユートピア的に,何かあれすごいなーという反面,あれは一回解体されたことがけっこう幸せというか。解体されないと次出て来ないんじゃないか。もしあれが全部続いていたら,お宅世代とかに継がれていったかもしれない。それこそ社会と関係ない,閉じた議論ばっかりが行われている。
布野:誰でも勝手に自由に書いているんだからいいじゃないか,というけれど,誰も読んでないかもしれない。批評しているというけれど,誰も受け止めていないかもしれない。ものすごい議論をしているんだけど,オタク的コミュニティの中でのみ閉じているかもしれない。建築界そのものがそういう閉じたコミュニティになっているということですね。
布野:若い建築家は経験してないからわからないと思うんですが,建築界の閉鎖性を否応なく意識させられるのは,コンペの審査員をやるときですね。建築界のボキャブラリーが通じない。それは,建築界で用いられている,建築教育のなかで使われてきているボキャブラリーですよ。設計製図や卒業設計の講評会で飛び交っている用語です。建築設計にとって言語はものすごく大事です。ロジカルに建築を組み立てるために言語は不可欠です。ただ,言語が非常に感覚的に使われることが多い。最新の哲学用語を使ったりするんだけど意味がわからない,理解していない。あるいは,実にイージーに使われる場合が多い。こういう広場をつくればコミュニティが生まれます,などという。建築言語を研ぎ澄ますのはいいんだけど,その言語が一般の人には伝わんない。批評言語の問題でもありますよね。
本来,建築のトレーニングを受けた人間は複雑な問題をひとつにまとめあげるのが得意な筈です。だから,自治体に建築を学んだひとがもっと沢山いればいい。実際,多くが公務員になっています。巽和夫[23]先生は,「行政建築家」という概念を主張されてきました。首長さんが建築の世界を理解してくれていればラッキーですね。安藤先生や僕の同級生なんですが,長岡市長をやった森民夫は,隈研吾と組んで「アオーレ長岡」はじめいろいろな施策を展開するんですが,自分は建築計画を学んだ,企画力が大事なんだ,とここのA-Forumで言ってました。しかし,営繕にもあんまり建築出身の人が居なくなっている。
そこで,編集者がそのギャップを埋めるような仕事をするケースがありますよね。神子さんもたぶんそういう仕事されている。例えば,中谷正人は,何やったかと言うと,地方の建築家に視点をおいて「土佐派の家」をプロデュースしたんですね,さらにまちづくりのコーディネーターのようなことを続けてますね。馬場章造さんも「建築情報研究所」をつくって,コンペを組織して,審査委員長を務めてきていますね。
今村:学生たちは,彼らはいろんな授業を聞いて,設計の講評会に参加するんですが,あまり最新の建築に興味がないといったんですが,環境問題というと凄い敏感ですね。僕たちが学生の頃より,関心が高い。
布野:グローバルには,グレタ・トゥンベル・インパクトかな?
今村:彼らの感覚はものすごく健全ですよね。彼らはボランティアもすごく自然にやる。阪神淡路大震災以降と言われてますけど。自然災害の問題にもみんな関心があるし,反応が返ってきますよね。
安藤:今村さんの方からお話をうかがっていて,エコシステムという言葉が思い浮かんだんですね。生態系。クリエーティブな人たち,それはグローバルに国境超えてエコシステムでつながっている処がありますね。建築もたぶん似たようなものです。IPCC(気候変動に関する政府間パネル)が特にそうなっているんですね。日本は,日本語の限界もあってエコシステムとして閉じている。昔で言うとね,『都市住宅』はそれなりの一つのエコシステムでした。集まってる人たちが。『新建築』もエコシステムだったと思います。いろんなエコシステム,今村さんの言葉でいうとコミュニティですが,それぞれ閉じてあるんだけど,どう社会につながるかということでしたね。自分が生息してエコシステムと言うのが自分の思い通りあるとすればね,それが社会じゃないかという,言い方もできると思うんですね。布野先生が社会というときの言い方が「ザ社会」みたいな響きがあって,それに対してメディアの機能や役割があるというふうに聞こえるので少し通じにくいことはあるけれども,居心地のいいエコシステムをつくるという意味からすると,さっき言ったように,例えば『建築文化』には一つのエコシステムがあった,『都市住宅』にはそれを指示する学生たちのエコシステムがあったとすれば,編集者というのはその生態系を作り出すひとではないか。それを用意するというか,そういう役割がここにあるんではないか,必ずしも社会全体がどうこうということではないんじゃないか・・・,
布野:安藤先生の今の言い方はしっくりしますね。ひとりで思うところを呟くことは日々やっていますし,『建築討論』を立ち上げる時に情報を集める目的で今でもFacebookの友達とは3000人近くつながっています。それとは別に,閉じた形で,布野スクール周辺の友達が200人ぐらい,家族のネットワークと繋がっています。それはそれで幸せなんですが,それでも居心地の悪いシチュエーションに遭遇するんですね。分かりやすくいうと,建築業界の悪口を言われる場面ですね。建築業界ってのは談合システムがあるんですよねえと言われると,そうなんですよね一部そういう人たちがいるんですよねえ,とやり過ごすか,談合システムは,建築業界に限らない,組織,地域社会,・・・社会全体に関わるひとつの仕組の問題があると説明するか,どうしますか?ということなんですよね。コンペにしてもいろんな不愉快な問題がある。安藤先生のいうように,居心地のいいエコシステムを自分の周りにはつくりたい。A-Forumは随分居心地のいい場所なんです。運動体であれば,機関紙とかSNSとかはメディアとして,武器として使うんでしょうが,ベースは,建築をつくることは,楽しいということなんですよね。
神子:吉本隆明が,建築家になりたいという学生がどうしらいいかというのに対して,丹下健三さんみたいに建築家が政治に口を出していくことはもうない,もし反体制のまま建築家になるんだったら住宅の専門家になれといっていたことを思い出しました
神子:それは原さんが住宅を最後の砦にするんだといっていた頃ですか。都市から撤退して住宅設計へ。その指摘は,当時ピタッと来てましたよね。今は,若い人たちの身近な仕事はリノベーションですね。最近の若い人はそういう気分はあるのかな,リノベーションとか環境問題を梃にしてやりたい。それは応援したい。
今村:そういう若手は多いですね。例えばJIAの賞で,新人賞が一番激戦だった。優秀賞は,失礼ながら,本当にこれ今年一番かなーという感じがあったんだけど,新人賞はとってしかるべき作品がゴロゴロ出て来ていて。例えば,去年は新人賞を逃したのが,大賞をとっちゃった,住宅で。それぐらい住宅について,今若い人たちは熱いですね。それはたぶん70年代ぐらいの熱気がありますね。長谷川逸子[24]さんとか,ああいう人たちが出て来た頃の,住宅がすごく花開いたとことに近いような
布野:それはちょっと分る。JIAの場合は審査員が3人ぐらいで決めるでしょう。思い切って選べる。斎藤先生がおっしゃらないかも知れないけど,学会賞は,この20年みると,平均・凡庸になってます。審査員の問題が大きいと思います。委員の選び方,前任者指名制というか,制度にはなっていないんですが,そういうコミュニティが形成されてきた。それは作品賞委員会だけじゃないけどね。それとは別というか,裏腹なんだけど,昔は『新建築』の編集長が豪語していたけど,学会賞は『新建築』が決めてるんだ,これ本当ですよ。
斎藤先生,この流れで一応のまとめをお願いできますか
斎藤:学会賞については何度か「該当者なし」ということがあって。3度ぐらいあったと思います,つい2,3年前にもあって。その時にはA-Forumで学会賞を再考するというフォーラムをやりました。それは,まさに今日のテーマなんですね。学会では言えないけども,この場では何でも言おうじゃないか,ということなんです。その時には,私は候補作はほとんどの作品を見ていたんですけど,これ絶対いいなーと思った作品もあったんだけれど,「該当なし」になった。候補作になった3,4人の方に来てもらって。ここでプレゼンしてもらって。大勢の方に見てもらったんです。そしたら,翌年,学会賞になった作品がある。1年置くのか,置かないか,審査委員が半数入れ替わる。一年置いたら満票で入った。
そういうことがいろんな場面で起こる。学会賞では作品賞だけなくって,ね。色々問題ありますが,評価というのは難しい。それから評論というのも難しい。評価は基本的に個人的なものであるし,絶対のものではない。そもそもジャーナリズムは日本語で言うとなんなのかなーと思ったりして,・・・評論という言葉が今まではあったんですけども,ちょっと違うのかなーと。
斎藤:さっきから出ている,ザハの作品の評価もそうなんですけども,私は新国立競技場には長く関わったんですが,誰がどう評価したかということが問題だと思うんです。ザハの提案は結局ゼロになったわけですよね。だけど風化させてはいけない。一番インパクトがあったのは,槇さんの主張があって,ああいうふうに論考が立ち上がっていったわけですけども。最初に言われたのは,私はザハのデザインには何も言いません,触れませんと言ってる,そこからスタートしているんですね。結果としてザハの案でないものをやるということになった。僕は,ちょっと遅かったですけども関わって,国際的にあれだけの事をやって,国際コンペをやってイメージをもらったわけですよね,オリンピック招致にも力になったと言われてますよね,あとは時間もたっぷり有ったわけですし,歳費と工期と全てを考えて,実現することが僕らのエンジニアの役割だと考えていたんです。エンジニアの立場からはそうなんです。しかし,実現させない,実現できなかった。何を言いたいかと言うと,単にデザインがいいとか悪いという評論ではなくって,与条件をどういうふうに読み解くかという問題だった。もっと具体的にいろんなオルタネーティブがあった。それを議論すべきだったんですね。内部の人たちは,和田さんは,よく知っているんです。闘わざるを得なかった,白兵戦を。もうちょっと違う,与条件を読み解いて,実現していく方法があったんじゃなかと思って,和田さんと時々呑みながら反省しているんです。
そういう話がまだ生きていることもあるけど,いい悪いという評論よりも,むしろ,これはこういう見方になるという分析だとか,仕組みを解いてあげる,神田さんがさっき言われたように,和田さんも率先してやられているんですけど,ある事件が起きた時に。その読み解き方を専門家がやる。いい悪いは,そういう材料を揃えて,こういう見方があるだということをやる。それでまたそれについて議論する,意見を交換する。まずはものの見方を他に任せないで,一般のジャーナリズムは分らないことが多い。専門家同士で建築ができていく仕組みを議論しているのを一般ジャーナリズムに取材してもらう,そんなことができればいい。そういう場にA-Forumがなっていけばいいと思います。僕はジャーナルの一番の役割は,物が実現していく過程を明らかにしていくことだと思います。教育だって同じことだし,学生とも一緒に,これはどういうふうにやったらいいかと,力学の話から材料の話,施工の話を一緒に議論していくんです。それは普遍なんです。そういう事は共有できる。そういうことをやるような場になればいい。曖昧なんですけども,評論とかジャーナルとかちょっと違う言葉を見つけられればいいかなというのが今日の感想です。
布野:建築のつくられていく仕組みを解明するという,AJ研(建築とジャーナリズム研究会)の明快な方向性をおっしゃっていただいたように思います。ジャーナルは,文章によるメディア(媒体)のことで,新聞・雑誌などの定期刊行物,日報,日記(ブログ)などいろんな形態があるわけですが,語源はジャーニーjourney旅なんだそうです。その日暮らしのジャーニーがジャーナリズムなんですが,大事なことを記録していく大きな意義があります。神子さんの仕事については,今日,初めて聞くことも一杯あったし,歴史として検証すべきこともあります。現在の問題につながる経験も一杯されているので,神子さんもコア・メンバーになっていただいてます,次の企画につなげていきたいと思います。
布野:残ってらっしゃる皆さんで,何かコメント頂ける方いますか?眼の前に田所先生の名前が見えているんですけど。今日,小林文次さんとか近江栄先生,田所先生はその研究室を継承されているわけですが,何かコメントいただけますか
田所:突然の御指名です。今日は神子さんどうもいろいろとありがとうございました。今まで断片的に伺っていた事がすごくつながったような感じで,非常に面白かったです。刺激的なお話を伺えてありがとうございます。この建築とジャーナリズム研究会もお話を伺ってて,色々な論点が出て来てました。斎藤先生がおっしゃられた,批評というかクリティークというか,成立していないような状況があると思うので,いろいろと議論を挙げていただけるといいなーと思います。
神子さんにちょっと伺いたいなーと思ったのは,「新建築問題」なんですけれど。『新建築』で丹下健三が「美しきもののみ機能的である,伝統の創造のために」という文章を書いています,授業で扱ったりもしているんですが,あれと同じ号にですね,川添さんが岩田知夫というペンネームで「丹下健三の日本的性格」というような,そういう批評を書いているんです。もう丹下の時代ではないだみたいな事を書いているんですよね。で,日本の悲劇っていうような,それで我々からすると,要するに丹下健三に伝統の創造のために,ということを書かせながら,編集長として,もう丹下の時代じゃないみたいなことを同じ号の中で書いている。今の雑誌とかジャーナリズムではあり得ないですが,背景にいろんなネットワークがちゃんと作られてて,そういうような事を書いても,支障がないような状況が当時あったと思うんですよね。批評というのが,今の批評と当時の建築家とジャーナリストたちが合わさってちゃんと議論の場がつくられたうえでの批評と,批評ということの意味合いが当時と違うんだろうなーと思うんです。当時の感覚というのが我々は分らないもんですから。当時『新建築』ではどうい状況が作られていたのか。新建築問題というのはボタンが掛け違って,村野は批評しちゃダメだみたいな事になったんじゃいか,そんな感じがするですけどいかがですか
布野:それは,神子さんへの質問ですか。
神子:僕はそこに居ないんです。問題は,四人が首になっちゃったんですよね。それと,部数の問題が一つ。もう一つ,大事なところは,丹下さんの旧都庁舎とそれから村野さんの有楽町のそごうの比較ですね。日本のモダニズムをどう評価するかという,根本がそこにあったんだと思うんですね。建築史的には丹下と村野のどちらを評価するかがやはり大きくて,そういう意味では歴然とするんですけども。あの号には丹下さんの旧都庁舎の鉄骨のきれいな建物があって,それから村野さんのこれは張りぼてだというモダニズムをどう評価するかっていう根本がそこにあったんだと思います。
布野:川添さんは,丹下さんを焚きつけながら,白井さんを評価してたんですよね。伝統論としては。
神子:川添さんたちの伝統論,丹下さんが引っ張っている伝統論を持ちながら,それをどう評価していいのか,ひょっとすると川添さんもその辺まで踏み込んでいくかどうか,分ってなかったんじゃないかという感じがあります,今にしてそう思います。これはモダニズムの境界の話で,今も引き摺っているという感じがありますね。その引きとり方をぐーっと普遍化して拡大したのは長谷川堯さんですけども,それが未だなお残っている。その問題も是非この場で,さっきポストモダンの話も布野さんから出ましたけども,みなんさんも話された方がいい,そんな感じでどうでしょうか
田所:はい。ありがとうございました。
布野:僕が平良さんとか嘉久さんの話を聞いたのは,当時,担当分けていたんですよね。宮内さんではなくて,平良さんは前川番と言ったかな。川添さんが構図を仕掛けてた。川添さんは一方で白井を推しているわけですね。丹下vs白井というのをつくりながら編集してた。しかし,批評自体をオーナーは否定した。そこで,ペンネームで,紙面のわずかなスペースを使いながら,批評のスペースを確保したという面もあるんじゃないかと理解してます。そごう問題については某京大のプロフェッサーからクレームが来たという話も聞いています。
神子:そうですか
布野:それは京都に行ってから聞きましたけど,村田治郎先生です。僕は半分孫弟子のような形になるんで,新建築に興味があったんだとちょっと新鮮でした。オーナーが親しかったし,村野さんとも関係があったのでは。関西ですよね,もともと新建築社は。そういう歴史の根みたいなものも含めてここで,振り返ればいいのではないか,と思います。田所先生は物凄く興味があると思うので,是非,参加ください。日大なら田所だろうなーと斎藤先生もおっしゃっています。
田所:いえいえ,とんでもない。若手で川島さんなんかもいらっしゃるので,ぜひ。
布野:日埜(直彦)さんの名前があるけど何か一言?
日埜:どういったらいいでしょうね。
布野:かなり積極的にこの会を盛り立ててください。
日埜:建築メディアが消失しているんじゃないかという事を大きな問題として考えようとしていると思うんですが,問題は建築を議論するベースについての認識が揃ってないということ,かなり分裂的な状況にあることが一番大きな問題だと思うんです。例えば,今の学会の話とか学会賞の話が出てたんですけど。たぶんこのメンバーの構成を反映していて,建築業,建築メディアを支える全体の話とちょっと違うところに居るんじゃないかと思うんですよ。世代によって違う動きもあるでしょうし,それから,デベロッパーみたいな仕事をしている人と,フリーランスでやっている人で全然ベースが違ってしまっている。そうは言っても建築だから,これはベースにあるだろうと問わなくちゃいけないんだけど,そこにメディアが無いというのが,現在の本当の問題じゃないかと思うんですよね。まずは,分断みたいなもの,分断というものが実際あるとおもいますけど。それをちゃんと見てみることが必要だろうし,その分断を繋ぐものはなんだろう,僕は問わなくちゃいけないだろうと思います。かつては建築業界がちっちゃかったと思います。今,そういう包摂できるような状態じゃないんじゃないでしょうかね。それともう一つ言うと,私,本書いてみて分ったんですけど,リアクション見てて思うのは,建築業界って何かあまり意見言わないんだなーということですね。一般紙,こないだ私の本に対する書評は読売新聞の書評欄に出ていて,とてもちゃんと読んでくれているんですよね。建築の言葉が通じないということはないんだと思うんですよ。通じているんだけど,我々の方がもじもじしてて,ちゃんと言ってないんじゃないか,ということす。そんなところで
布野:徳島の新居さんの顔が今見えているんですが,一言いただけますか。新居さんはアジアのアルカディアARCADIAにも日本を代表して参加されていますよね。
新居:私は徳島の四国で実務をやっています。正直に言いますと,最初は少し遠い世界だなーというふうに思って聞いていました。もちろん,興味はあるんです。布野先生の隈さんの批評を最近読ませていただいたんですが,ああいうような議論が出て来ない時代というのはとても寂しいと思います。もう少し地域社会のこと,それから地球環境のこと,いろんな事に対して,少し建築論が肉薄するような,論が出て来て欲しいなーと思います。
市民の方々の中にも建築やまちづくりについて意識をもっている方はけっこういらっしゃるんです。そういう意味で言えば,日本の建築論はあまりにも小さな世界の中に入ってしまっている処があって。もう少し市民に広げていただきたいと思います。建築空間とか生活空間にいろんな意味で関心持っている層,そういう層に届くような論が何か起こって欲しいと思います。それともう一つは,アジアの建築人たちと付き合っておりますと,インフラをこれから造らなければいけないというところがあって,建築家の人たちは元気だなーと感じます。日本の場合,設計者というと何か悪いことをするんじゃないかとか,建築のかたちだけが問題にされる寂しさがありますね。バングラデシュに行きましたら,建築家協会の大会だったんですが,我々各国から来た人たちはレッドカーペットの上を歩けるんですね。いろんな外国人の人たちが沢山来て,これからしっかり国造りをたのみますよ,というふうなことを言われるんですよね。日本では,せいぜい国交省の課長か,課長代理の人が挨拶する程度ですよね。アジアには結構若い元気なかたがたくさんいるんです。その人たちと共通に議論ができるんです。海外で訓練した建築家もいますし,我が国で勉強した人もいます。そういった中での議論によって共通の問題意識を感じます。環境問題含めて,同時性の問題がほとんどなんですね。ところが日本の場合,私たちは,どこかで狭い世界に入っている。ずーっと言われて来た閉塞感も,感じないわけではないですね。そういうとりとめも無い事を感じています
斎藤:女性の方にもお願いできますか?北海道の登尾さん
登尾:私は端のほうから見てようと思っていましたが,北海道,札幌を拠点に建築の話題を中心にしたフリーラスで編集をやっているものです。専門誌に記事を書かせていただいたことも最近はあるんですが,こちらの方から何か問題提起とかはありません,感想にすらなるのかなーと思います。建築メディアの流れというか,歴史的なことからして,私は勉強しなければいけない立場なんですけど,北海道の状況で考えますと皆さんが今お話されていたような問題のような,建築メディアというきちんとしたものがあるのかと言われると心もとないですね。一般ユーザー向けの雑誌類はありますけれども,アカデミックな場で議論されるような事は,北海道大学周辺ではあるでしょうけれども,みなさんも仰っていたように内輪の話になっているのかなーという印象はあります。北海道は,気候風土的に寒冷地ですから,技術的な面で本州の状況と違う,独自の展開もしてきているようにも思います。建築の理論とか意匠設計も,テクニカルな部分の意識をもちながら理論を構築していくとう側面が強いかもしれません。北海道支部,建築学会では古くから建築作品発表会というものが,開かれていて,その場では建築家の方,設計する方,建築家の方とはかぎらす,ゼネコンの設計部の方とかも織り交ざって割と幅広く,作品を発表して,フォーラムのようかたちで議論をするとか,その後,懇親会でさらに議論を深めるとか,そういう場はあるんですよね。なんとなく北海道の状況を言いながらも,私もかなり勉強をしなきゃいけないと思って今日は勉強させていただきました。 布野:ありがとうございました。よろしいでしょうか? 今日はとにかくいろんな声を聞きたいということで,だらだらと続けましたが,かなり重要な問題を確認することができました。以上を持ちまして,建築とジャーナリズム研究会,AFのAJ研究会ということになりますけど,キックオフ・
[1] 桑沢洋子によって1954年によって東京都港区青山北町(現在の北青山)に設立され,1958年に渋谷区神南に移った。バウハウスのデザイン理論を継承し,時代をリードするデザイナーを育成することをうたう日本で最初のデザイン教育機関である。東京造形大学(1966年設置)は姉妹校(学校法人桑沢学園)。
[2] 1921~2004。建築史,デザイン史。元桑沢デザイン研究所・デザイン理論講師武蔵野美術大学,筑波大学名誉教授,元東京造形大学学長。沖縄県立芸術大学学長。「中心の喪失 -危機に立つ近代芸術-」(ハンス・ゼードルマイヤー著 / 訳者:石川公一・阿部公正,1965年:美術出版社)「生きのびるためのデザイン」(ヴィクター・J. パパネック / 阿部公正,1974年:晶文社)「生ける建築のために 」(ユルゲン・イェ−ディケ / 阿部公正,1975年:美術出版社)「デザイン思考 阿部公正評論集」(阿部公正,1978年:美術出版社)「人間のためのデザイン」(ヴィクター・J. パパネック / 阿部公正,1985年:晶文社)「色の形視覚的要素の相互作用」(カール・ゲルストナー / 阿部公正,1989年:朝倉書店)
[3] 家具デザイナー。1947年吉村順三設計事務所で,新宿「風月堂」の内装を担当する(1954年)。1956年に渡辺力,渡辺優とともにQデザイナーズを設立するも,1958年に松村勝男デザイン室を設立・独立。
[4] 1920~1975。文芸評論家,歌人,小説家。『村上一郎著作集』全12巻,国文社,1977-82。吉本隆明・金子兜太・桶谷秀昭監修。
[5] 1923~1995年。詩人,評論家。
[6] 1924~2012年。米沢高等工業学校(現在の山形大学工学部)卒業,東京工業大学電気化学科卒業。漫画家ハルノ宵子は長女。作家吉本ばななは長女。
[7]「試行」創刊号の吉本による編集後記には「試行はここに,いかなる既成の秩序,文化運動からも自立したところで創刊される。・・・同人はもちろん,寄稿者も,自己にとってもっとも本質的な,もっとも力をこめた作品を続けるという作業をつづけながら,叙々に結晶するという方策のほかに出発点をもとめないしもとめることにあまり意味を認めない。」とその理念が述べられている。発行部数500部。『試行』は,最初谷川雁,村上一郎,吉本隆明三同人により編集,11号以降吉本の単独編集で1997年12月19日付発行の74号終刊まで,36年間継続された。70年後半のピーク時には8000部を超えるまで部数を伸ばした。吉本は,既成のメディア・ジャーナリズムによらず,「自立の思想」を標榜,ライフワークと目される『言語にとって美とは何か』,『心的現象論』を執筆・連載した。
[8] 1962年参加。他に,松田政男,山口健二,川仁宏らが参加。
[9] 東京出身。1954年学習院大学法学部政治学科卒業,1965年スタンフォード大学大学院コミュニケーション専攻修士課程修了,1972年カルフォルニアスタンフォード大学大学院社会学専攻博士課程修了,社会学博士。カリフォルニア州立大学助教授を経て,上智大学教授。『日本の政治エリート 近代化の数量分析』(1976)『創造の方法学』(1979)『知的競争社会のすすめ』(1980)など。
[10] 1957年に,石井恭二が創業。現在は現代思潮新社として存続。「良俗や進歩派と逆行する『悪い』本を出す」をモットーに,東大文学部でマルキ・ド・サド論を卒業論文として書いてアカデミズムから疎外されていた渋沢龍彦を起用し,サドの『悲惨物語 ユージェニー・ド・フランヴァル』を最初の一冊目として刊行した。その後も「既存左翼」にとってタブーとされてきたレフ・トロツキー全集やニコライ・ブハーリンやローザ・ルクセンブルグらの著書,反スターリン主義の古典などを刊行した。また,澁澤の他,埴谷,吉本,武井昭夫ら著作を刊行した。1961年には,清水幾太郎の責任編集で,現代思想研究会の機関誌『現代思想』を刊行した。
[11] 1917大連生れ~1991。二葉積算を創設。元日本積算協会会長。昭和30年代から積算業を日本に根付かせ,また英国の積算士(QS:Quantity Surveyorの業務を日本に広く紹介した人物。
[12] 1925~2005年。1950年日本大学旧工学部(現理工学部)建築学科卒業。1951年,助手,1970年工学博士。同年理工学部教授。1996年から日本大学名誉教授。『建築設計競技』『近代建築史概説』 (共著)『建築を教える者と学ぶ者』 (共著) 『建築通論』 『建築への誘い』(共著)『近代日本の異色建築家』『建築画像大系 建築設計競技』 『日本建築学会100年史 』(共著)『建築業界は今 』(編著)『光と影-蘇る近代建築史の先駆者たち』
[13] 1918福島県桑折町生れ~1983年。1941年,東京帝国大学卒業,同大学院。フルブライト制度でアメリカ合衆国に留学。アメリカ合衆国近代建築史を研究。京王技術大学予科教授を経て,1949年日本大学旧工学部(現理工学部)教授。1961年日本建築学会賞論文賞受賞。『アメリカ建築』『建築の誕生 メソポタミヤにおける古拙建築の成立と展開』ニコラス・ペヴスナー『ヨーロッパ建築序説』(共訳)ウィッチャーリー『ギリシャ都市はどうつくられたか』『古代ギリシャの都市構成』
[14] 1913福島県桑折町生れ~2008。仙台第一中学から1934年成城高等学校卒業。 1937年京都帝国大学史学科考古学専攻卒業。副手。1949年,大阪市立大学助教授,1953年,教授,1967年古代学協会・平安博物館館長。1990年,古代学協会理事長。『古代史通論 第1分冊』『ポンペイの遺跡』『古代学序説』『古代北方文化の研究』『原始社会』『西洋文化の誕生』『ヨーロッパ古代史論考』『角田文衞著作集』全7巻『角田文衞の古代学』全4巻,
[15] 1938年秋田県生れ。東京大学工学部建築学科卒,建築史専攻。東京大学助手,大阪市立大学工学部講師,助教授,九州大学大学院教授,西日本工業大学教授などを経て,九州大学名誉教授
[16] 横山正1939年岐阜生れ。1963年東京大学工学部建築学科卒業,67年同大学院博士課程中退。1984年東京大学工学博士。1976年東京大学教養学部助教授,78年より工学系研究科建築学専攻担当。87年教授[1],94年より総合文化研究科に所属。2000年定年退官,名誉教授,情報科学芸術大学院大学教授,2003年学長。09年退職,名誉教授。
[17] 東京大学工学部建築学科,同大学院卒業。建築・地域計画専攻。東京大学助手,(財)余暇開発センター客員研究員等を経て,1991年より,(株)生活構造研究所代表取締役。現在,同研究所取締役特別顧問。一級建築士。コミュニティのあり方の視点から,全国各地域の生活調査,構想,計画づくりなどに携わる。1995年阪神淡路大震災以来,トルコ,台湾,中国四川,中越,東日本など,国内外の自然災害被災地支援,防災・減災活動に継続的に取り組んでいる。国際女性建築家会議日本支部会長を経て,現在相談役。2003年よりIAWA(国際女性建築家アーカイブ)オフ・キャンパス・アドバイザー。
[18] 相模書房は,2015(平成27)年9月廃業。79年の幕を閉じた。入舟町の再開発に伴い,銀座・松屋百貨店裏に移転,1階と地下(地下は倉庫)。いまはホテルとなっている。
[19] 1904~1989。青森県出身。戦前よりキリスト教社会主義運動,農民運動の指導に携わる。1950年,参議院選挙に全国区から立候補し初当選。日本社会党に属し,4期務めた。この間,参議院建設委員長,参議院決算委員長,参議院逓信委員長を歴任。また,電気労連の顧問を長く務めた。1966年から1978年まで日刊建設通信新社代表取締役会長を務める。
[20] 周縁から1~66,産経新聞文化欄,1989年6月5日から1991年1月28日まで連載。
[21] 1949年群馬県生まれ。一橋大学経済学部卒業。1973年共同通信社入社。川崎支局,横浜支局,社会部などを経て,1984年から文化部。共同通信社編集委員兼論説委員。この間,2009年まで文字文化研究所理事,村上春樹に対しての単独インタビューを含む一連の著作活動により日本記者クラブ賞受賞(2013年)。『文学者追跡 1990年1月~1992年3月』『白川静さんに学ぶ漢字は楽しい』『村上春樹を読みつくす』『白川静 文字学入門 なるほど漢字物語』『空想読解 なるほど,村上春樹』『あのとき,文学があった-「文学者追跡」完全版』『大変を生きる 日本の災害と文学』『白川静入門 真・狂・遊』『白川静さんに学ぶこれが日本語』
[22] 「フェイクとオーセンティシティ:建築の虚偽構造」驟雨異論❶,雨のみちデザインウェブマガジン「驟雨異論(しゅうういろん)」http://amenomichi.com/shuuiron/funo1.html,2021 05 20
[1] AF-Forum 建築とジャーナリズム研究会
建築の評価をめぐっては,一般ジャーナリズムと建築ジャーナリズムの間に大きなギャップがある。そして,それぞれが大きな分裂をそのうちに含んでいる。
一般ジャーナリズムにおける建築の評価は大きく二分されている。一方で,建築・建築家は,芸術・芸術家として扱われ,美術,文学,映画,演劇,などと同様「文化」として「文化欄」で扱われるが,他方,「政治」「経済」「社会」「家庭」「教育」欄では,建築家は建築業者であって,その個人名が記されることは(悪いことをしない限り)ない。建築家・建築作品と業者・建造物が暗黙のうちに区別されている。
建築ジャーナリズムのあり方の違いは,建築の評価の基準,軸,指標などに関わり,それ故,建築アカデミズム(建築学会)における建築の評価とも密接にかかわる。建築アカデミズムにおける評価の違いは,建築学の専門分化に根をもっている。日本の建築学会が学術・技術・芸術の統合をうたい,斎藤公男先生がArchi-neeringという概念と領域の設定を主唱するのは,その有様を深く認識するからである。
建築ジャーナリズムについては,1950年代から1960年代にかけて,さらに電子媒体が全面化する以前,1990年代までは,建築の評価をめぐる媒体として機能してきた。「新建築問題」以降,建築批評はしないということを方針とした『新建築』と「この先の建築」をめぐって議論を仕掛けてきた『建築文化』が対照的であったが,そうした建築ジャーナリズムが失われて久しい。そして,建築ジャーナリズム上の建築の評価をめぐる議論と一般ジャーナリズムの間の分裂も解消されたわけではない。『Casa BLUTAS』のようなメディアがその間を埋めてきたかのようであるが,その関心は,建築家それも「スター建築家」の「新たなデザイン」に集中しているように思える。
本研究会では,「建築の評価」は如何にあるべきか?という問いを根底に,建築技術を含めた建築とジャーナリズムのあり方を中心に議論したい。建築のメディアに関わる編集者を招いて,建築の評価をめぐって議論したい。また,戦後建築ジャーナリズムに関わってきた編集者を招いて,オーラルヒストリーを作成しながら,歴史を振り返りたい。さらに,建築のメディアに関心をもつ若手建築家,研究者を招いて議論したい。そして,一般のジャーナリストを招いて,建築の評価をめぐる議論を展開したい。
幹事:斎藤公男,和田章,神子久忠,布野修司,磯達雄,今村創平,青井哲人
「戦後建築ジャーナリズムの来し方・行く末」
田尻裕彦インタビュー
インタビュアー:布野修司+浅古陽介 記録:佐藤敏宏
第1回2021年4月19日 第2回2021年5月24日
https://drive.google.com/file/d/1pdupRmTQCzULIqQPSQFA4ruVZf4QmWGc/view?usp=drive_link
目次
田尻裕彦(たじりひろよし)略歴
1931年 神戸市灘区生まれ
1937年 神戸市長田小学校に入学
1年3学期より台湾基隆(キールン)市双葉小学校に転校
1940年 横浜市栗田谷小学校に転校
1942年 横浜市斎藤分国民学校を卒業
1943年 旧制浅野綜合中学校(現浅野中学校・高等学校)入学
1945年 横浜市から佐賀市へ疎開し母の実家に寄宿。
1946年 旧制龍谷中学校に転校即動員。戸上電機で機関砲の薬莢再生。
陸軍で陣地構築・敵陣切込み演習。
1948年 旧制龍谷中学校5年最後の卒業
1949年 新制龍谷高等学校3年最初の卒業
1949年 新制早稲田大学文学部ロシア文学科入学(中退)
1960年 東雲堂出版,自動車新聞社を経て彰国社入社 月刊『建築文化』編集部に配属:月刊『建築の技術 施工』(1966~2001)創刊編集長(1966~70)月刊『建築文化』(1946~2004)編集長(1971~77,1983~88)
2006年 彰国社退社
2023年6月30日 死去
布野:今回,田尻さんにお話をお伺いしたいと思ったのは,ひとつには『私家版 新 田尻家譜』現代編ノート1という冊子(A)を送っていただいたということがあります。
田尻:『田尻家譜』そのものは,親類のほかには差し上げておりません。布野さんには今度差し上げます。
布野:もうひとつは,今日図録をもってきたんですけど,『編集者 宮内嘉久―建築ジャーナリズムの戦後と,廃墟からの想像力』という展覧会(2021年3月22日~5月1日)が京都工業繊維大学の「美術工芸資料館」で開かれたということがあります。この展覧会には,宮内嘉久さんが2009年に亡くなったあと,奥様の貴美子さんが資料一式を,宮内さんと親しかった編集者の藤原千晴さんを通じて松隈洋さんが館長を務めている「美術工芸資料館」に預けられていたという経緯があります。そして,この資料を素地として,福井駿さんという若い大学院生が三宅拓也助教と共に『編集者宮内嘉久の思想と実践について』(B)という修士論文を書いたという経緯があります。実は,この修論のために,僕は福井さんのインタビューを昨年(2020年)暮れに受けたんです(C)。

田尻さんは知らなかったかもしれませんね,宮内嘉久さんの構想で,結局は僕が潰してしまったということになってしまった『地平線』という幻の雑誌があったんです。福井さんはそのことも知っていてびっくりしたんですが,彼は,宮内さんが残された資料を細かいところまで非常によく目を通してるんです。その宮内VS布野の対立に関しては,僕は当時『建築文化』1978年10月号に掲載した「自立メディア幻想の彼方に」という表題の文章に書いています。
さらに,平良敬一さんは昨年(2020年4月)亡くなりましたが,コロナのせいもあってお別れの会は行われていないということがあります。しかし,編集者宮内嘉久の仕事が振り返られるのに先立って,楠田博子さんという若い編集者(青幻社)が,やはり修士論文(東北大学)で『戦後建築雑誌における編集者・平良敬一の研究— 機能主義を超えるもの” の変遷と実践―』(D)という平良敬一論を書いています。
田尻:宮内さんの展覧会は京都大学でやっていたんですか?
布野:京都工芸繊維大学です。あそこに美術資料館があるんです。配属の教員もいて資料を収集して展覧会もやっている。貴重ですね。
田尻:これが宮内さんの展覧会のパンフレットですね。
布野:送ってきましたか?
田尻:これは見てはいましたが。読んではいませんでした。亡くなった宮内さんのご家族のことも僕はほとんど知らない。
布野:田尻さんはもちろん出席しておられたけど,宮内嘉久さんのお別れの会があった,2010年でしたね。あんまり大勢じゃなかったけど,大谷幸夫先生は車椅子で来ておられましたね。

田尻 そう,あのとき僕は,車椅子の前に跪くような姿勢で大谷さんと話をしました。そして,以前に建築家協会の会館での数人の会合の席で,大谷さんが「宮内は建築界のブラックホールだ。ひたすらエネルギーを吸い取っている」と発言されたことがありましたよね,と言ったらニコッと笑われました。旧制高校時代からの先輩・後輩という遠慮会釈ない間柄での率直なご意見として記憶しておりました。この宮内さんの会から幾ばくも経ずして残念ながら大谷さんも亡くなりましたよね。
布野 あの宮内さんの会の参会者では内藤廣さんと僕が一番若かった。僕は最後にスピーチをさせられて。「最後のメディアをやります」とか言わされちゃった。内藤さんがそのことをブログか何かに書いていたけど,平良さんもいらっしゃった。
田尻:布野さんは,平良さんに言われたんだよね。最後の雑誌をひとりでもやれって。
布野:そうなんです。それは平良敬一建築論集『機能主義を超えるもの』(D)の出版記念会の時ですね。どうすればいいですかね。あの時は,一人ずつ呼ばれたんですよ。皆がガヤガヤやってるときに。それで「お前はとにかく一人でもやれ」って言われたんです。
田尻:平良さんはね,僕は時々お会いするぐらいだったけど・・・会う度にね,一足先に行く身体の故障の話をされるわけですよ。平良さんが今度はこれが悪いと言われるとね,しばらくすると,僕もそうなる (笑)。最初は前立腺ガンでしたが,これは注射と放射線の投与で何年かかかりましたが,今はほぼ消えています。血液検査の数値が0.0002といった低位になってそれが続くと,後は様子見です。完治の判断はありませんが,僕の場合,何年かに一度ついでに血液検査をする程度に収まっています。お次が膀胱ガンでした。これも平良さんの後追いですが,前立腺からの転移ではなくてよかったねというのが医師の言葉でした。先の宮内さんのお別れ会では,平良さんが補聴器を付けたり外したりして難聴にいらついておられましたが,今はそれも当方のいらつきの一つです。2017年でしたね,あの会は・・・・・・。
布野:このインタビューを新しいメディアを考える出発点にしようというつもりがあって,どうすればいいのかを含めて,田尻さんにまず聞きたいと思ったんです。そしたら,絶妙のタイミングで手紙が来た。今日は,田尻さんの仕事をはじめから振り返りたい。
なんといっても,田尻さんは僕に最初に建築評論を書かせた編集者です。白井晟一の「サンタキアラ館」(茨木キリスト教短大)。一緒に見学に行って,和木通さんが写真を撮ってた。「盗み得ぬ敬虔な祈りに捧げられた量塊,サンタキアラ館をみて」(『建築文化』,197501)というのを悠木一也名で書いた。そしたら,白井晟一さんに気に入られて,5万円もする『白井晟一作品集』(中央公論社)を頂いた。田尻さんと一緒に白井邸の「虚白庵」に伺ったの覚えてますか。
田尻:覚えてますよ。
布野:当時,僕は25,6歳ですよ。海のものとも山のものともわからない大学院生によく書かせたなあ,と思うんですが,当時の建築雑誌は,若い人に書かせる,そういう機能ももってたんですよね。
平良さんと宮内さんを比べると,宮内さんは『廃墟から』という個人誌に行き着くんですよね。編集者じゃなかったのかもしれない。自分で本も書くし。自分が気に入らないと喧嘩する人だった。その一方で,「前川國男大明神」というようなところもあった。前川は自分しか理解できない,前川のことはすべて自分を通せっというようなところがあった。「同時代建築研究」で前川さんに会う時には宮内嘉久さんにセットしてもらったんです。松隈洋さんが,前川さんの最後の展覧会やるときに関係者から嘉久さんを外したら文句を言われて困ったそうです。平良さんはどういう編集者だったと思いますか?
布野:筋が通っていて,それでずーっとやってきた,という意味ですか。
田尻:そうね。
布野:宮内嘉久さんはどうでしょう。
田尻:嘉久さんは,僕はあんまり認めないなー。いろんな建前を言いながら,必ずしもそうじゃないんじゃないか,という感じかな。
布野:『地平線』の時に決裂したのは,僕も違和感があったからなんですね。メディアに関する考え方も,スポンサーのお金が前提でした。恰好付けマンでした。飲み屋でお新香頼んだらイナカモンと言われたことがあります。それと,前川さんを囲い込んでた。
田尻:編集者の仕事として認めがたいところがなくはなかったかな。
布野:何冊か本を書いてきたし,建築評論家だったんだと思います。編集者というより。書き続け,発信し続ける意味を重視し続けた。福井君の修士論文は,宮内さんの生き方に好意的なんです。逆に,楠本博子さんの修士論文は,平良さんは一貫性がない,編集長だった雑誌の『SD』や『住宅建築』にしても扱うテーマは様々だというトーンですね。まあ,歴史的評価というのは後の世代に属すわけですけどね。
田尻 平良さんの場合は, 2誌だけじゃなく,いろんな雑誌を手掛けられましたから「扱うテーマは様々」と感じるところもあったかもしれませんが,根底に揺るぎはなかったことは,最後に平良敬一建築論集として風土社から出版された著書『機能主義を超えるもの』を読めば,その底辺での揺るぎなさがわかるのではと思います。
布野 立松(久昌)[1]さんはどうですか?宮内さんと「建築ジャーナリズム研究所」を立ち上げるし,平良さんの建築思潮研究所の『住宅建築』創刊にも参加するわけですよね。101号から200号まで『住宅建築』を100号編集したんですよね。
田尻:下手するとこっちまで巻き込まれそうなこともあったよ。

布野:立松さんの後,植久哲男さんが100号やるんですよね。津端宏さんがいて(建築思潮研究所代表),田中(須美子)さん,今の編集長の小泉淳子さんはいつからかなあ。小泉さんには,『裸の建築家―タウンアーキテクト論序説』(建築史料研究所,2000年)の編集をしてもらったんです。若い編集者は怒鳴られてたけれど,僕は,立松さんには随分かわいがってもらった記憶だけなんですけどね。本を一冊(『家づくりの極意 居心地のいい住まいの設計術』建築資料研究社,2000年)残してますね。
田尻:立松には,初め胡麻化されるような処がみなさんあったかも知れないね。派手に,いろいろやったりしたからなあ。
布野:小沢昭一的だった。江戸弁で。麻布高校なんですよね。
布野:田尻家の大元は,九州の佐賀ですね?
田尻:以前に纏めた『私家版 新田尻家譜』では,チラリと神話時代にまで遡らせてもらいましたけど・・・(笑)。
もちろん,系譜がかなりはっきりしてくるのは,平安時代中期からです。その頃,東日本で起きた「平将門の乱」に並行して西日本で起きた「藤原純友の乱」を平定した後に太宰府の高官を務めた何代かを経て筑後地方を中心に分散・土着して活躍した国衆(くにしゅう)「大蔵一族」の5人兄弟の長男が本家の原田家を継いだほか,二男か秋月氏,三男が田尻氏,四男が江上氏,五男が高橋氏をそれぞれに起こすと同時に一族を形成して戦国時代に活躍しますが,その三男が筑後地方の柳川の南西に位置する土地名「田尻」の地に最初の山城を築いて姓も「田尻」を名乗ったことから,その系譜を継ぐ一族を「筑後田尻氏」とし,当家の源流と位置づけました。
この「筑後田尻氏」は,その後柳川の南に新たに4支城をも備えた鷹尾城を築いて活躍を続けますが,その後時を経て織田信長が配下の明智光秀に襲われて自害したとされる「本能寺の変」も起きた天正時代に,当時佐賀を足場にして各方面に侵略していた龍造寺・鍋島軍の激しい圧力を受けて1年3ヵ月に及ぶ籠城戦を構えましたが遂に敗北し,話し合いの末。当主の田尻鑑種(あきたね)を含む主力60ないし70名(中心人物2・3人のほかは姓名・性別など不明)の佐賀への移住を命じられました。
日本全国で田尻姓が最も多いとさされる九州にありながら,最も固定電話が普及した時代の佐賀県の電話帳に記録された田尻姓の家の総数は45軒にすぎません。しかも,それらの所在地はほとんど佐賀に移住させられた筑後田尻氏の残党が辿った足跡と重なる巨勢(古瀬),伊万里,小城(おぎ)などと重なっており,かつ彼らの佐賀での最初の居住地の巨勢(古瀬)は当方の父の生家や母の実家もある地域と隣接することなどから,佐賀に移住させられた筑後田尻氏は当家の源流と少なくとも何らかの縁を結ぶ存在であろうかと思っています。佐賀が当家の大元になるのはこのあたりからです。
布野:『私家版 新 田尻家譜』はリタイアされてからの仕事ですね。僕も布野のルーツには興味があるんです。叔父が亡くなる前に一生懸命調べて書いたものをもらったんですが,布野家のルーツは,広島県に布野村(ふのそん)という村があって,今は市町村合併で三次市布野町になってるけれど,どうもそこがルーツらしい。役場に聞いてみると,今,布野村には布野姓は一人もいない。『布野村史』も手に入れてあるんだけど,だいたいわかっているのは,毛利に追われて,出雲に下りて行った連中の末裔らしい。布野姓って,出雲市には多いんです。どうも布野姓は尼子方だったらしいというところまではわかっている。僕も,もう少し仕事が片付いたら,もっと調べてみたいと思っています。田尻さんも,自分で自分のルーツを知りたいと思ったんでしょう。
田尻:うん,それも当然あったけれど,親戚に頼まれたということもある。ちょうど,彰国社を引退して定期的な仕事が無くなった,そういうタイミングでもあったわけです。
布野:『私家版 新 田尻家譜』は,さすがプロの作りで,洒落た奇麗なしかもきちんとした本ですね。緻密な考察を積み重ねる学術書の趣がある。しかし,単なる学術書ではなく,田尻家を追いかける手さばきは鮮やかで,文章も読ませます。戦国時代を生きた田尻鑑種が主役とみましたが,個人的にも彼に興味を持ちました。たまたま,アジア海域世界の港市(港町)についての本を書くため,博多そして長崎(那覇,寧波,泉州,マカオ)について調べていたところで,同時代に田尻鑑種が生きていたことになるんです。田尻鑑種の時代とポルトガルの出現,キリシタンの歴史は,ほぼ重なっているんですね。
田尻:大友宗麟と共に彼もまた合法・非合法に東南アジア方面との貿易でひと儲けしていたようです。田尻家が属した大蔵一族は,藤原純友の乱の平定に際し,その鎮圧軍の陸路は小野好古(おののよしふる,小野妹子の子孫)が担当,海路は大蔵春実が指揮を担当したとされているように,海戦の戦力をも備えた一族でした。後々まで,その海軍部門は健在だったように見受けられます。
布野:先に送ってもらっていた小冊子は『私家版 新 田尻家譜』の「現代編ノート 1」で,その題名は「大叔父名尾良辰夫妻と“八重の桜”の会津藩家老山川家,そして東京駅を設計した建築家辰野金吾へと繋がっておりました」という長いものでした。
大叔父というのは母方の祖母の弟で秋田県知事や台湾総督府の台南州知事なども務めた名尾良辰で,その夫人「きくゐ」さんと会津藩国家老の山川家三男で東京帝国大学の初代総長も務めた山川健次郎の子供達とのいとこ関係が確認された。そこでさらに健次郎の妻である鉚(りゅう)の周辺を捜索したら,鉚のいとこ秀子が東京駅を設計した建築家辰野金吾の妻だったという・・・・・・。ややこしいんですが,大叔父を追っかけていくと,いろんなつながりが見えてくる,面白いですよね。
田尻 地理的にも九州から東北という広範囲で,かつ佐賀の乱や戊辰戦争などという摩擦の歴史も絡んだ物語です。山川家の長男は佐賀の乱や西南戦争にも出陣していて片腕が使えなくなる戦傷を負っていますし,戊辰戦争では会津若松城の籠城戦で19歳の若妻を失ってもいます。
布野 田尻さんが生まれた1931年には満州事変が勃発し,小学校に入学した1937年には盧溝橋事件を端緒にして日中戦争が始リます。そして,入学時には小学校だった名称が変更させられた国民学校を卒業して旧制中学に入学しようとする1941年12月8日には太平洋戦争に突入し1945年の終戦まで戦時下ですね。いわゆる「15年戦争期」ですが,生まれて15歳までが戦争だった。
田尻 建築関係では磯崎新さんが同い年ですが,大学で1学年下の仲間だった山中恒君が勁草書房から刊行した『ボクラ少国民』(講談社文庫収録) には激しく動揺した時代の様々な様相が収録されていて興味深いと思います。
布野:お父さんは,どういうお仕事だったんですか。
田尻:父は1899(明治32)年8月に佐賀で生まれます。1924 年に早稲田の商学部を卒業しましたが,関東大震災の翌年で,世界的にも経済不況で大変な就職難だったようです。父が就職を希望していた日本郵船もその年は新入社員の募集を見送っていましたが,日本郵船の子会社で近海郵船という会社があって。そっちのほうは景気がよかったようで,就職するんです。遠洋航路を運営していた日本郵船は,第一次世界大戦後の世界的不況に巻き込まれて不振に悩んでいたのに対し,近海郵船は,台湾航路,上海航路,天津航路などが時局柄も活況を呈し,新入社員募集をしていて,試験を受けたら合格したということのようです。
布野:上海,天津,台湾というと,日本での基地は横浜ですか?長崎ですか?
田尻:ほどんと神戸が母港だったように思います。神戸から瀬戸内海を九州方面に向かい,門司港を経由して台湾や上海・天津などを目指す,復路も同じ経路を逆に戻るというのが基本だったと思います。
父は商学部卒でしたから事務職でしたが,就職して数年間は乗船勤務させられたようです。国鉄なんかでも,大学卒で入社しても必ず切符切りや車掌などからやらされていたようですが。それと同じように,いずれ各支店に配属されて陸上勤務になるんですが,まずはお客さんと同じ船に乗って,船中で直接勉強するわけですね。長い年月ではないように思いますが,事務長役まではやらされたようです。当時の海外航路の上級の船客ともなれば上層階級のインテリが多かったでしょうが,大食堂でのテーブルマスターを務めさせられて味も分からなかったという話や,アメリカ人と中国人の女性の切符が同じ番号で,同等の空き部屋の切符を用意して「どちらかはこちらに」と交渉したけれど二人とも元の番号の部屋じゃないと厭だと主張して譲らないので弱ったといった話を聞きました。
布野:親父さんは佐賀から早稲田に入ったんですか?
田尻:それが傑作なんです。北九州に三菱商事の若松支店があったんですが,父たち3名がここに採用されるまでは,佐賀商業からはただ一人の採用もなかった。ところが,その初めて採用された3人の一人は上司と喧嘩して手を出したとかで退社,もう一人も理由は忘れましたが同じく退社し,残った一人の父も商業学校卒の限界を感じたりしたんでしょうか,大学受験を決心して退社してしまうんです。
布野:三菱商事に商業を出てから1年いて,それで早稲田に入るんですね。それで1924年に早稲田を卒業して,前年設立された近海郵船に入る。それで上海に行ったり天津に行ったりした。
田尻:皆に羨ましがられたみたいね。
田尻:神戸から台湾の基隆(キールン)支店に移るんです。
布野:田尻さんも台湾にも行かれたんですか
田尻:小学校の1年の終わりか2年ぐらいに移りました。基隆の双葉小学校っていうんですよ。隣は台湾の公立学校で,台湾の中国系の子供たちはそっちに入った。双葉小学校は,日本人向け。2年ぐらいいたのかな。学友会の名簿見てたらね,坂倉事務所の太田隆信[2]さんが同窓なんですよ。
布野:太田隆信さんとは最近奈良で会いましたよ[3]。タイ国王立建築家協会名誉会員ということは知りませんでした。小学校で同級生だったということですか。
田尻:彼は僕よりちょっと下ですね。それとちょっと上に東京工大出で,清水建設にいた吉見吉昭[4]さんもいた。双葉小学校を卒業して,台北の旧制の高等学校のコースに行って,終戦になって東京工大に入るわけ。
布野:田尻さんは何年までいたんですか?
田尻:3年の途中で横浜に転勤になるんです。栗田谷小学校かな。
布野:1940年ですね。
田尻:中学校は横浜で,そういう時代だったんでしょうね,小学校から受ける学校を指定されるんですよ。
布野:飛び級があった?
田尻:ありません。横浜には,神奈川県立第一中学校,神中[5]と言ったんですが,それから二中[6]があった。結局,僕は二中を受けさせられたわけ,それで落ちた。試験は無かった。
布野:なんで落ちるの?
田尻:口頭試問だけ。4人ぐらい受けたのかな。2人落ちて,2人だけ二中に入って。僕ともう一人は私立の浅野綜合中学校に入った,今も在ります。
布野:浅野中学校ですね[7]。
田尻:おかしな学校でね,「君が代」それから「海ゆかば」。式があると歌わされるの。そういう時代でね。
布野:一般的にみんなそうだったんじゃないですか。
田尻:だけどそれを二部合唱で。僕は今でも下歌える。ははははは。
布野:「海ゆかば」をハモルんですか?聞いたことがない。
田尻:音楽はコールユーブンゲン。
布野:それは僕も知ってますよ。「君が代」もハモったんですか。
田尻:そうそう。下級生は声が高いから下をわざとやらせる。今の東京芸大を出た先生だった。変な学校だったよね。珍しく,軍の学校に行くのが少なくってね。僕が1年に入学するときに,丁度5年を卒業した先輩に金ボタンとかもらったんだけど。
布野:先輩の金ボタンもらう習慣があったんですか。
田尻:旧制の高等工業,横浜高等工業学校[8],どっちだったっけな,高橋靗一[9]さんと僕にボタンをくれた人は同級生だった。
布野:それで,浅野中学校から,高校は? 早稲田へ入るまでは,どうなるんですか?
田尻:2年まで浅野にいて,2年の終わった敗戦の年の3月に,横浜から疎開するんです,佐賀に。疎開する列車もね,切符なんか普通じゃとれなかった,オヤジがよろしくとかなんか言って,・・・
布野:工面してきた?
田尻:当時の大会社ですから,いろいろ手があった。しかし,横浜駅からは乗れない。東京駅まで一度出ないと乗れなかった。東京駅に出たら直ぐに警戒警報で。佐賀までに7回ぐらい乗り換えた。
布野:つなぎつなぎだったんですね。それは敗戦の年のいつ頃ですか?
田尻:敗戦の年の3月。
布野:東京大空襲(3月10日)[10]の後ですね。かなりやばいぞとなった?
田尻:警戒警報がでるとね,座席を挙げてくださいって,座席を立ててね。窓際に置くわけ。機銃掃射やられるから。はははは。
布野:疎開して敗戦になって,また東京に出て来たんですね。
田尻:佐賀に着いたら,敗戦の大混乱でしょう。疎開してきた人と,満州とかから引き揚げてきた人が両方来るもんだから,もう,うんもすんも,無い。当時商業学校とか工業学校を除いたら,公立は佐賀中学しかない。で,佐賀中学を「御卒業」になったのはずいぶんいて,原(広司)さんなんかと一緒にやってた・・・。
布野:三井所清典[11]さん,内田(祥哉)研究室ですよね。原さん,香山(寿夫)さん,慎(貞吉)さん,宮内康さんなんかがやっていたRAS建築研究同人の事務局を仕切ったんですよね。息子(次男)さんの三井所隆史くんは京都大学の僕の研究室出身なんですよ。当時の京大はひどくて,ドクターに行きたかったんだけど,北海道大学に行かざるを得なかった,苦い思い出ですが。内田祥哉先生の奥さんも佐賀出身でしょう。原さんの初期の作品に佐賀の高校がありましたよね。辰野金吾も佐賀,唐津藩ですね。系譜をいろいろ調べたら,辰野金吾とも繋がっていた・・・。
田尻:三井所さんはね,最近分かったんだけど。彼の奥さんと僕の従妹が同級生だったらしい。その妹が三井所さんの従弟と結婚したらしい。
布野:複雑ですね。
田尻:転校したのは龍谷中学,それで龍谷高校[12]に入った。私立の龍谷。僕ら,旧制中学の最後の卒業生で,新制高校の初めての卒業生になるわけね。そして,新制大学の第一期生になった。すごい変転の時代ですよ。
布野:大学入学は何年ですか。
田尻:昭和24年。
布野:僕が生まれた年だ。
田尻:はははは。新制大学の第一回入学生。
布野:磯崎さんもそうだ。
田尻:その当時,教養学部の明寮があったでしょう。東大。
布野:駒場寮[13]ですよね。
田尻:明寮だったと思うな,しばらく住んでいました。はははは。
布野:え!どういうことですか? 磯崎さんも駒場寮にいて,映画監督の山田洋次も一緒だったといいますよ。同じ頃駒場寮にいたことになりますよ?
田尻:どうして露文かというと・・・。
布野:それも関係ありますよね。
田尻:龍谷ではね,いろいろあったんですけど。龍谷大学の系統ですよ。当時はまだ京都の平安高校と九州の佐賀の龍谷かな,
布野:浄土真宗,西本願寺系ですね。
田尻:北九州では,龍谷高校は,喧嘩が強いので有名でね。お袋がびっくりしてね。昔のようなことはありませんよということだったんだけれど・・地方のよそ者と喧嘩すると,ちょっと負けそうになるとみんなしてやり返すようなね,そんな高校だった。
布野:旧制高校を舞台にしたそんな映画観たことあるなあ,高橋英樹主演の。なんだっけ?
田尻:校旗を先頭にしてね,なんとかの式典とかいうと行進していくわけね。その前を他の学校のやつが通った,けしからんと言って,槍の付いたやつで殺しちゃったこともある。
布野:えー,それに田尻さんも巻き込まれていたの?
田尻:うん,巻き込まれたいうか。若干そうかな。その時の同級生だったんだけど。その息子が今俳優になっているな。はははは。息子は俳優で名字は,それの娘,孫になるかな。大隈重信の生家の隣の家だった。
布野:よく出て来る俳優ですか?テレビに。
田尻:NHKのファミリーヒストリーでやった!(NHK総合,2016年10月27日放送) 哀川翔[14]。
布野:一世風靡セピアですね。
バンカラな高校時代はわかるんですが,なんでロシア文学だったんですか? 当時ロシア文学って言ったら,共産主義ですよね,田尻さんは大学に入って共産党に入党したんですか?
田尻:その当時はもう入ってましたね。その前に,青年共産同盟っていうのがありました。そっちには高校の時代から入ってましたね。戦争中にずーっと名校長と言われた人がね,僕らの時代まだやってていたわけ。
布野:それは龍谷時代ですね。
田尻:龍谷ですね。
布野:その影響を受けた?
田尻:逆ですね。その人は朝礼とかでいろいろ喋ってた。何を言ったか忘れちゃったけど。ともかく一つ一つ言うことがおかしかった。それをネタにしてね。弁論大会があったんですよ。僕も喋った。そしたら,校長が居なくなった。
布野:追放したんですか?
田尻:うん。後で聞いたんだけど,あいつ退学だということになった。だけど,一方で守ってくれた先生が何人かいたんだ。若山牧水(1885~1928年)だとか,前田夕暮(1883~1951年)だとか,そういう歌人たちと一緒にやっていた中島哀浪(1883~1966年)[15]という,文学全集の短歌編の中にも載ってくる人がいた。その人とか,それから旧制の五校(第五高等学校(熊本))を出て,どういうことがあったのか知らないけれども,早稲田のドイツ文学を出て,僕らが英語を教えてもらっていた先生がいた。その人はエスペランティスト[16]だったけど,下級生の部屋では,赤旗の歌が流れている。英語でね,歌詞が英語なわけ。その先生が,4,5人泊めてくれたりしていた。寮外子が呼ばれたんだなあ。
布野:戦後でしょう,どういう本を読んでいたんですか? 大学に入る前でしょう。
田尻:他の学校の先生だったけど,その人が自分の家で社会主義研究会みたいな研究会やっていて,僕も友達から誘われてそれを聞きに行ったりしてた。卒業してから他の先生から聞いたんだけど,実はおまえ,首になるところだった,と
。
布野:退学になるところだった?
田尻:僕のオヤジがそこで穴(けつ)を捲(まく)ったんだ。オヤジはね商学部だったけど,そこには左翼の人が何人かいて就職のとき苦労したというような話は聞いてたらしい,ともかく首にするんだったら,そんな学校には置いておけない,けっこうだって。穴を捲った。
布野:結果的には卒業はしたんでしょう。
田尻:もちろん。
田尻:それでね,エルペランティストの先生,「長崎の鐘」[17]をエスペラントに訳した人でしたよ。
布野:「長崎の鐘」を書いた永井隆[18]は,松江の出身なんです。
田尻:そのエスペラントの先生が「お前文学部に行くんだったら,ロシア文学やれ,ロシア語を教えてる学校は外語大とかその他あるけど,ロシア文学というのは日本で唯一早稲田にしかない,オンリーだ,どうせ選ぶんだったらそうしろ」って,その影響があったね。
布野:入学して,東大の明寮にしばらくいたというのはどういうことですか?
田尻:それがねえ,よく覚えてないんだけど,転がり込んでたんだ。武藤くんという海軍兵学校出身の人の部屋だった。他に澤地久枝(1930~)[19]の最初の旦那の畑中といったのがいた。
布野:磯崎さんも駒場寮ですから,上京して同じ空間にいたんですね。僕らの時代には駒場寮はそのままでした。
田尻:駒場寮は三棟あって,裏の方にプールがあったりして,夜泳いだんだよ。それと,井の頭線を跨いで駒場の町に降りていくでしょう,それで最初の角を左に曲がると中華料理屋というか飯屋があって・・・
布野:僕らの時代には,降りて行って最初の角に芥正彦[20]の劇団駒場がありました。
田尻:その店で,具も何も入っていない緬というか,山盛りに置いてあって,それを食べた。
布野:焼きそばですか?米粉かなあ?
田尻:東大生は学費安いんだから,オゴレ!なんて言ってた。明寮にいたのはひと夏ぐらいですよ。
布野:堤清二[21]と一緒に活動してたと聞いたことがあるんですけど,堤さんはロシア文学だったんですか。同級生ですか?先輩ですか?
田尻:堤さんと会うのは少し後になる。要するに,彼は東大の経済ですよね。今でも覚えているのは日本共産党の新聞の『赤旗』が一面半分ぐらい潰してね,東大細胞を批判した。堤清二も名指しでやられたんですね。それから横須賀の昔の海軍の海軍中将かな,大将かな。その息子もいましたよ。何て言ったかな。
布野:それは早稲田グループの中に?
田尻:全学連。宮本顕治一派の影響が非常に強かったんですね,全学連は。だから,代々木(主流派)からは批判された,堤清二は名指しだった。
布野:宮本顕治は国際派[22]ですね。堤清二もそうだった。読売新聞の渡辺恒雄[23]も共産党だったんですよね。
布野:田尻さんは,皇居前広場(人民広場事件)の時は,その場におられたんですか?
田尻:いました。一人で神田の方へ歩いていったことを覚えてる。そしたら,武井昭夫[24]も歩いていた。
布野:全学連の初代委員長ですね。
田尻:そう,お互い顔は知ってる関係でした。人民広場事件については,これがありますよ。古賀珠子[25]『魔笛』(1961)。
布野:奥さまですね。群像新人文学賞を受賞されたんですよね[26]。芥川賞は候補作にはなった。
田尻:何年か経って調べようと思ったことがあるんですが,出隆[27]さんが,東京都知事選に立候補したときがあるんですよ。出さんは阿佐ヶ谷の,高山英華さんの家の近くにに在ったんですね。その選挙の時に,もう一人自民党が推したのは安井誠一郎(都知事3期1947年~1959),今度調べたら安井と僕の家が繋がっていたんだけど・・・?出さんの選挙運動を手伝った。堤清二は,代々木の一派の応援団で,聞くと,後ろからくっついて,みっともないことをやってんだっていっていた。
布野:田尻さんは,4年で卒業したんですか?
田尻:いやいや,卒業してません。
布野:いろいろ潜ってやっていた?
田尻:結局ね,いろいろあって,とてもまともに学校に出てるっていう感じじゃなくなっちゃったんだよね。それで,アメリカから帰ってきた,有名な・・・アメリカに亡命してた帰ってきて,戦争中アメリカにいた・・・。
布野:大山郁夫(1880~1955)[28]ですね。1932年にアメリカに亡命して,戦後,1947年に帰国してますね。


田尻:参議院選挙だったっけなー。
布野:1950年の参議院選挙に日本社会党・日本共産党などで構成される全京都民主戦線統一会議の支援を得て当選してますね。選挙運動したんですね。
田尻:要するに,大山郁夫の秘書やっていた人が僕らより少し上の人で,その人は政経学部だったけど,ともかく忙しくなってくるもんだから,田尻,お前行け。そういう,秘書になれ,と言われたりする状況だった。
布野:国会議員の秘書になる可能性があった?
田尻:その時行っていればどうなったかなあ,結果としては,僕は行かなかった。
布野:それから1960年に彰国社に勤めるまでにはどういう経緯があったんですか,寄り道したとしか聞いていない。
田尻:いろいろあるんだなー。はははは,まあいろいろあるんだなー。
布野:彰国社に入った時。それは誰かのコネで入ったんですか。下出源七さんとか。
田尻:東雲堂という学習参考書を出している出版社に入るんです。カミさんの紹介で・・・
布野:ああ,なるほど,結婚はまだですよね?・・・もう編集の仕事をされてたんですか?
田尻:東雲堂にはそんなにいませんよ。1年いたかどうか?それから自動車新聞社っていうとこに入る。いくつかあるんですが,日刊の自動車新聞[29]これは大きい会社でした。ただ,週刊の自動車新聞社っていうのがあった。この社長というのがね,昔の中学しか出てないかもしれない,ともかくいろいろやっていて,どういう縁だったかな。新聞と自動車部品のPR雑誌みたいなものとか,そういうのを出していた。
布野:それは何年ぐらいですか?
田尻:何年だったかな~。その時分で覚えているのは,平成天皇がまだ皇太子で,日比谷公園で自動車ショーがあった(1954年)。第一回の自動車ショーだと思ったけどね。
田尻:秋吉(大三)さんっていう社長だったけどね。僕らとあんまり年が違わない。ビルマ戦線,映画の「ビルマの竪琴」で,みんなバタバタ死んだような戦場が出て来るでしょう,あの中の一人でね,
布野:生き残って帰ってきたの?
田尻:本人から何回か聞いてるけど,将校とか指揮官はね,馬か何かに乗っちゃってね,よろしくっとか言って先に逃げちゃった。それで,結局,ビルマ戦線からともかく脱走してね,中国人に会うと我日本帝国主義の犠牲者とかいって,結局重慶に集まっていった。そこに,戦後帰ってきた日本共産党の野坂参三なんかが親玉でいた。戦争反対とか,何とかって言う活動をそこでしていたわけ。
布野:それで引き揚げてきて自動車新聞を立ち上げるんですね?
田尻:それしか無かった。秋吉さんの娘が日本女子大の住居の学生で,僕のところに訪ねて来たことがある。だけど,鎌倉に,軍人たちが集まって雑誌なんか出していて,その人たちに僕は資料あげちゃってたんだ・・・。
布野:嘉久さん,平良さんは,NAUの事務局入って編集者になるわけですが,田尻さんは,全く建築とは関係なかったけども,自動車産業のメディアが出発点になるわけですね。
田尻:自動車新聞に出入りしていた人が彰国社の副社長の友達だったんだ。
布野:副社長ってなんて言う方ですか?
田尻:何ていったかなー。
布野:社長は下出源七さんでしょう。
田尻:今人を探している,それで,紹介するよって話があって,それで,会いに行ったんですよね。その人のお兄さんっていうのが彰国社の創業者,源七さん。
布野:じゃー弟ですね。副社長が弟。
田尻:それで,立松(久昌)がいた!
布野:立松さんは。同い年ですよね。1931年生まれ。早稲田を出て,1955年に彰国社に入ってる。
田尻:立松は首になってね。僕が入る少し前に組合が出来るという話があったんだけど,瓦解した。僕はそこに参加していない,まだ途中段階で,編集部一通り全部参加したんでしょうね。だけど,立松一人首になった。
布野:首になっても毎日通った,机がないので立って仕事したって立松さんはよく言ってました。
田尻:入ったときは,立松は戻ってました。宮内さんは僕が入る前に1年間か2年間か彰国社にいた。僕が彰国社に入ったときは,宮内さんは社員としてはいなかった。
布野:今度の展覧会の図録の年表によると,1954年に彰国社に入社して,1956年に川添登の誘いで『新建築』に移っているんですね。だけど,翌年には,いわゆる「新建築問題」でやめるんですね。それで1958年に「宮内嘉久編集事務所」を設立する。川添さんも最後には辞める。首切られた。皆辞めちゃった。「新建築問題」については,神子さんが言っていたけど,内藤廣研究室で修論を書いた院生がいて『日経アーキテクチャー』に勤めているらしい。
布野:「新建築問題」は,村野(藤吾)さんの有楽町駅前の「そごう」をめぐる問題ですね。すぐ隣接して丹下さんの「東京都庁舎」が建っていた。今の東京フォーラムですね。関西の大御所が『新建築』社長にクレームをつけた。その大御所は,京都大学の村田治郎先生と聞いたことがあるんですが?平良さん,宮内さん,立松さん,そして川添さん,メディアとしては『国際建築』『新建築』『建築知識』・・・突き合わせる必要がありますね。

布野:ギャラリー間の展覧会の100回記念の企画で行われた連続シンポジウムの記録ですが(ギャラリー間編・田尻裕彦・石堂威・小牧徹・寺田真理子・馬場正尊監修(2003)『建築の向こう側』TOTO出版(F)),最後の編集者の座談会は,1960年代以降の建築雑誌の歴史がまとめられています。『建築文化』は,この出版の直後に終刊(2004)となるわけですね。
『建築文化』の歴史を振り返りたいんですが,『建築文化』の創刊は1946年4月で,もともとは,建築の歴史に重点を置いた雑誌でした。創立50周年の記念誌(G)をみると,そもそも,彰国社が日本の国宝やその修理報告書の出版によって出版していることがよくわかります。
田尻さんは,1971~77年,1983~88年の2期,『建築文化』の編集長をやられるわけですが,田尻さんが彰国社に入った時の編集長は誰だったんですか。
田尻:『日本の都市空間』の時の編集長ははっきりしてます。金春国雄。金春さんは当時常務かな,兼務して編集長やっていた感じですね。編集部にいたのは,清水英雄,早稲田の建築で宮本忠長さんの同級生,そして山本泰四郎かな。清水英雄が役職はないけど,編集長みたいなかたちだったかな?金春さんの家というのは
布野:能楽でしょう。
田尻:兄貴が継いでいるわけですよね。
布野:金春流。
田尻:東京芸大ですね
布野:建築出身?
田尻:うん。芸大の建築。だからよく当時の友達連中が来ましたよ。遊びに。
布野:彰国社に入って,まず,金春編集長の下で『建築文化』の編集に関わった。ギャラ間の座談会では,『日本の都市空間』(1963年12月号)と『日本の広場』(1971年8月号)に触れてますね。
田尻:そうそう。『日本の都市空間』の口火を切ったんです。
布野:『日本の広場』もですね。
田尻:伊藤ていじさんが東大と後楽園との間ぐらいの都営のアパートに住んでおられて,家で会った。帰って来て。金春さんに話をした。金春さんが面白いと思ってくれたんで,進めることになった。その後は,金春さんと伊藤ていじさんが話をして,金春さんが下出源七さんに話を通した。おそらく,日本の古建築の話が割り方入ってくるような話だっていうんで,OKとなった。下出さんと伊藤さんは,故郷が同じ,
布野:岐阜。そもそも『建築文化』は建築史の雑誌ですよね。建築史系の色が強かった。『創立50周年記念誌』は,太田博太郎,伊藤ていじ,伊藤延男,稲垣栄三,神代雄一郎,関野克・・・書いているのは,建築史の先生がほとんどですね。
田尻:『日本の都市空間』のお金の問題はね,1年間の建築文化の他の号を削りますと,それをここにつぎ込みますということになった。
布野:通常号で?
田尻:各号削って,取材費も全部だしたんですからね。それであれが作れたということだと思いますね。
布野:『日本の都市空間』は凄い密度ですね。僕らも買って勉強しました。伊藤ていじ先生が書いてるんだけど(「日光のオジヤ」G),『日本の都市空間』の前に,特集『都市デザイン』(1961)を川上秀光,磯崎新と3人で請負って請負料は30万円だった,これがエール大学とハーバード大学で評判が良かったので,『日本の都市空間』は,請負料を100万円にあげてもらった,その一部で最新式のテープレコーダーを記念として買ったけれど,重すぎてほとんど役にたたなかった,と書いていますね。「日光のオジヤ」というタイトルですが,日光の合宿でオジヤをつくったのは磯崎さんで,磯崎さんはオジヤ作りの名人だった,と書いている。若い学生には土田旭さんとか曽根幸一さんも入っていた。
田尻:林泰義。彼女は
布野:富田玲子さん
田尻:富田さん。あんとき慶応の彼氏がいたんだよな。はははは。
布野:『建築の向こう側』の座談会で田尻さんが喋ってますね。特集号に多くの院生や学生が参加していて,『日本の都市空間』では土田旭,林泰義,富田玲子。福沢健次・・・。福沢さんは槇事務所ですね。伊藤ていじさん,磯崎さん,川上秀光さんは,八田利也(『現代建築愚策論』)ですね。
田尻:3人を頭に集まっていろいろ議論し,班を分けて取材もし,それを持ち帰って来たところでまた議論をしたうえで,手分けして原稿を書く,そういう雰囲気でした。『日本の広場』も同じようなことでしたが,宮脇檀,山岡義典,高瀬忠義,長尾重武,北原理雄などという人たちも参加していました。
布野:山岡さんはトヨタ財団に行かれましたね。
布野:1960年の『建築文化』の目次を見ますと迫力がありますね。川添登,神代雄一郎,植田一豊,清水一,渡辺保忠,長倉康彦,大高正人,そして川上秀光,磯崎新が「都市再開発論ⅠⅡ」を書いてて,丹下健三が「流動と安定」,山本学治が「機能主義と造形主義」ですよ,錚々たるメンバーが,その1年書いているんですね。八田利也(伊藤ていじ,磯崎新,川上秀光)の「近代愚作論」(『現代建築愚策論』彰国社,1961年)が7月号,神代さんの「建築家は地方で何をしたか」が12月号ですよ。時代を射抜く論考が載っています。
田尻:巻頭文じゃない?
布野:巻頭ですか,総目録だと不明ですが。
田尻:これが後になって,それこそ,伊藤ていじの『日本の都市空間』に繋がるんですね。
布野:1961年には,川添登の「大東京最後の日」(1月号)に続いて,村松貞次郎の「明日を担う建築家」(2月号)が書かれてます。これが物議をかもすわけですよね。これからの建築を担うのは,ゼネコン設計部だというわけですね。時代の流れを突いていたわけですけれど,建築家協会からは相当反発があった。村松貞次郎先生は「五期会」出身ですよね。
田尻:僕が思い出すのは,山本学治さんとか,評論家や研究者のグループが順番で巻頭論文を書いてたことですね。
布野:61年には,「6つの評論・うず・さむらい」伊藤,川添,神代,浜口,村松,山本というのがありますね。第二工学部のグループですね。井上允夫の「宗教建築と都市像」というのもあります。
田尻:1年に一辺,暮だか正月だか集まってね。
布野:忘年会・新年会?
田尻:酒呑んだ。僕の隣に山本さんが座って,それが面白いんだ。穴が開いてるんだ。
布野:靴下に?
田尻:山本さんの靴下の穴が,そういう時代でした。
布野:そういう話,聞きたいですね。
田尻:撲が入って最初の仕事がね,高田秀三さん,東京芸大のね。『建築文化』の顧問だったんですよ。高田さんがね,国際的な何かの会議に出て,その報告だった。酷いことやったもんだなーと思うんだけど,高田さんの文章全部頭から書き直した。
布野:田尻さんが?
田尻:そう。それでね,見てもらいに行った。
布野:田尻さんはまだ30歳そこそこですよね。
田尻:そしたら,ウイスキーが出て来た。ちょっとともかく俺読むからといって,高田さんが読んでて,僕はウイスキーけっこう呑んで,高田さんがこれで結構ですって言ったから,それで社に平気な顔して戻った・・・。
布野:一人で呑んでいたんですか。
田尻:一人で呑んでた。まだ,彰国社が平河町に在ったとき。
布野:入ったばっかりで,そういう事があったんですか。
田尻:それが最初の仕事だった。
布野:僕から見ると,執筆者はみんな有名人ですね。浜口隆一「建築ジャーナリズム論」,巽和夫,渡辺定夫,内田祥哉,藤井正一郎,剣持勇といった名前もありますね。1962年には,宮内嘉久「コンペ問題再検討の契機」伊藤ていじ「華麗なるつごもり伝統論」,後に住宅産業論を展開する内田元享の「未来の庶民住宅」があります。図面合理化の問題とかコストの問題とか,みんな真摯ですよね。63年1月号は,黒川さんが書いている。「“道”の建築」,これ巻頭論文ですね。2月号は前川さんですよ。「現代文明と日本の建築家」,格調高い。毎号すごいですね。「方法おぼえ書」ですよ,丹下健三,63年4月号。みんな,原稿は,編集部員が取りに行ったんですか?
田尻:そういう時代ですね。
布野:僕も手書きの原稿手渡したり,郵送したりしてますからね。
田尻:あの当時ね,アメリカの出版社の雑誌について書いた本がありましてね,雑誌の編集長というのは,大学の建築学科の今で言えば准教授なみの能力が要求されるという,アメリカの状況を書いてましたね。
布野:なるほど,その位のレベルが必要ということですね。
田尻:なるほと,とその時は思いましたよね。
布野:それで思い出したんですが,僕,『建築文化』の編集長やらないか?彰国社に来ないか?と言われたことがありますよ。田尻さんからじゃなかったと思う。後藤さんかなあ?本気にしなかったけど,東洋大の助教授だったかな?『新建築』にしても,『建築文化』にしても大学の先生が関わってきた。
田尻:それからしばらくして,アメリカの出版界に視察に行く機会があったんですが,桁が違うんだよ。
布野:へえ,初めて聞きました。
田尻:メンバーは,文芸春秋とか,漫画本の出版社とか,ジャンルはいろいろでした。
布野:一般の出版界として行ったんですね。当時は,外国に行くのは結構大変だった時代ですよね。
田尻:大変でしたね。桁が違う。例の,お色気雑誌,
布野:『プレーボーイPlay Boy』ですか
田尻:そう,『プレーボーイ』,あそこの社屋に行ったら,カメラマンがね,でっかい部屋一部屋持っているんですよ。
布野:そりゃー『プレーボーイ』だから写真家は多いでしょうね。
田尻:その時ね,二世か三世の田尻っていうカメラマンがいた。
布野:佐賀出身ですか?
田尻:羨ましかったなー
布野:当時は専属のカメラマンっていうのはいたんですか,彰国社に入った頃。
田尻:村沢さんという,自然にそういうふうな感じになっていた写真家は居ました。
布野:思い出したんで聞きますけど,ジャジャJAJA「日本建築ジャーナリスト協会」(1965年設立)というのがありましたよね。後藤武(元彰国社会長)さんがよく言ってましたけど。宮内嘉久さんなんかも参加した・・・
田尻:それはどちらかと言うと,経営者でなくて,編集長クラスが参加した。建築家では磯崎さんだとか,そういう人たちがサイドで応援してた。その会で,シドニーの設計者を呼んだりした。
布野:シドニーオペラハウスのヨーン・ウッツォンですね。
田尻:来たとき,磯崎さんがその会合に彼を連れて来て,それで,まだ磯崎さんも英語は流暢じゃなかった。
布野:田尻さんは,『施工』の創刊編集長をやるんですよね。1966年創刊。
田尻:『施工』ね,企画そのものもね,それから『ディテール』。清水英雄が編集長になった。
布野:『ディテール』は1964年ですね。
田尻:『ディテール』の話っていうのは,『建築文化』で,当時オフィスビルのブームで,2冊あるんです。
布野:特集ですか?
田尻:『建築文化』の特集。今でも覚えている。日比谷の電々のビルがね出来てからそんなに経たない時分ですよ。あそこら辺で昼飯食べようっていうんで,昼飯を食べていてね,ドイツに『ディテール』という雑誌があるという話が出てきて,それも金春さんに話をしたら,内田祥哉さんに話が回っていって。それから内田さんがほとんど面倒をみた。
布野:最初から内田先生がからんでるんだ。まだ続いていますね。
田尻:そう,初めは僕に『施工』やれっていう話じゃなかった。当時の業界紙の・・・何て言ったかな。準備段階では僕ではなくって,その人が人事部だったんだ。金春さんが,だめだと思ったのかなあ,もうギリギリになって,田尻やってくれってなった。『施工』をね。『建築文化』では,設計図面が担当だったから,そういうのは全部,施工の企画にしていったんですよ。施工図の描き方だっていうのは単行本になった。当時,社内で今月のベストテンとかいうのは,ほとんど全部が僕の企画したやつだった。ははは。
布野:社内売上ベストテンですね。
田尻:そういうやつがあった
布野:平良さんが『建築知識』,そのあと『SD』『都市住宅』『住宅建築』『店舗と建築』を編集していくんだけど,田尻さんは『建築文化』だけじゃなくて,『施工』や『ディテール』をやってきてるんですよね。
田尻:『ディテール』は,ほとんど直接には関係しなかったけれど,金春さんに報告して,金春さんが受け入れてくれなかったらしょうがなかったんでしょうけどね。ともかく橋わたしをした。
田尻:『施工』と言えば,野崎(正之)[31]っていうのもね,またそれなりにいいとこあったんだけど,『施工』だけど施工のことやらないんだ。もめちゃってね。『建築文化』と違うんだよ,こういうことなんだから,設計の話っていうのは一応捨てろと言ってもね。ともかく京都大学のさ,彼,
布野:古阪先生?。
田尻:そういう大学の先生ばっかし出て来るんだよねー。『施工』らしい話が出てこない。
布野:「京都駅ビル」ですね。
田尻:そう,建研にいた,いきましたよね京都大学に。
布野:それは古川先生だ。古川修先生,僕は親しかったです。米子の出身で,京大でもちょっと重なってた。その系列で言うと,『建築技術』,橋本(幹彦)君が今やっていますね。
田尻:あ技術。『建築技術』は高度な技術の学術的な側面扱う,建築研究所のバックアップがあったですよね。存在価値はあったと思う。
布野:今でもけっこうよくやっていると思っているんですけど,高木(秀之)君もいましたよよ。『建築文化』にいたんだけど,『新建築』にもいましたね。
布野:『施工』を立ち上げられて,編集長を5年ぐらいやられますね。その後,金春,山本泰四郎(1968年4月〜1970年8月(257〜286号)編集長の後,『建築文化』の編集長になられますね。EXPO‘70の年から第一期です(1970年9月月~77年3月(287〜365号))。田尻さんは,「建築家はずいぶん楽天的だと思った」と発言してますね(F)。1960年代の総括が「近代の呪縛に放て」のシリーズに繋がるんですね。
田尻:ほんとう,あの時,布野さんたちに会えたからよかった。
布野:僕が最初に建築批評らしき文章を書いたのが「サンタキアラ館」についてですすよ。白井晟一の。田尻さんと写真家の和木通さんと見に行った。
田尻:それで,『白井晟一作品集』をもらった。一緒に「虚白庵」に行きましたね。
布野:僕はびっくりしました。どこの馬の骨だかわからない大学院生が書いたたった20枚くらいの評論を気に入られて5万円もする作品集を下さった。虚白庵が見られたのも感激でした。
田尻:そこにありますよ。
布野:僕は,京大建築の図書館に置いてきちゃった,しまったことしたなー,持ってればよかった。
布野:白井論を書いたのは1975年1月号ですので,「近代の呪縛に放て」のシリーズの会合は1974年に始まっていますね。僕は,当時商店建築社が創刊した『TAU』に呼ばれて,雛芥子の連中と3本ぐらい原稿[32]書いています。それと『同時代演劇』とか『芸術倶楽部』に書いています[33]。黒テントのプロデュースをしたり,シンポジウムしたりしていたのが注目されたんですね。コンペイトウの松山巌さんや井出健さん,遺留品研究所の大竹誠さんや真壁智治さんに出会ってます。
田尻:68年世代ですね。
布野:『建築文化』は,当然「大阪万博」は特集するわけですが,7月号に石井和紘の茶室が発表されています。後からですが,研究室の先輩だったから見ました。「あすのアメリカをひらく人びと」という連載ルポルタージュは,田尻さんのアメリカ視察が背景にありますね。それと磯崎さんの「反建築論ノート」(第1回 1973年4月号)が開始されますね。これはみんな読んでました。
布野:『日本の広場』は1971年ですよね。『近代の呪縛に放て』シリーズに,僕は呼ばれたんだけど,長尾さんと北原さんは『日本の広場』のメンバーで,長尾さんと北原さんがメンバーを集めた。伊東豊雄さんが最年長で,富永譲さんは長尾さんと同級生,聞いたことはないけれど,北原さんが八束さんを呼んで,長尾さんが僕に声をかけた,と思っています。1977年10月号で『特集/建築調書1960-75』という特集を組んで,僕は「六〇年代への喪歌」という巻頭論文を書いた。「六〇年代の喪歌」をもとに,神子(久忠)さんにアジられて,僕は『戦後建築論ノート』(1981)を書くんですが,大げさにに言えば,その後の人生が狂ったかな?

1976年に助手になっていて,鈴木成文研究室などの大学院生を大動員した記憶があります。植野糾くん,田村優樹くん,江端修,宇野求,横山俊祐,勅使河原正臣など,みんな偉くなった。小玉祐一郎さんに会ったのはこの時ですね。この時,藤岡洋保さんにも書いてもらった。伊東さんは,坂本一成,安藤忠雄,石山さんを呼んで「近代以降の戦略を練る建築家たち」という座談会をやった。長尾さん,富永さん,八束さんはそれぞれ論考を書いた。「運動としての建築,昭和の建築についての覚書」という文章を1975年11月号に書いていますし,『近代の呪縛に放て』シリーズは1975年には始まっていますね。3月号には「見ることへのアヴァンチュール」(布野修司建築論集Ⅰ収録)を書いている。1974年から集まりだしたんですね。『建築調書』はまとめの特集だった。学生たちがちゃんと作業をして一冊作るっていうのは,すごくいいですね。『新建築』でも,『虚構の崩壊』とか別冊でやりだした。
田尻:『建築調書』の時は編集長は細田君に代わってたんじゃなかった。
布野:そうですね。ただ,この表紙については,高松次郎さんに頼みに一緒に行ったのを覚えてます。この格子模様はそうです。表紙頼みに行ったら,えらい簡単にぱぱぱっと出来るので,幾ら払いますかと聞いた覚えがある。
田尻: これのまとめの時には彼,僕はもう『建築文化』離れてたんですよね。「近代の呪縛に放て」も,ある程度まで話が行くとそれから先進まなくなっちゃった。
布野:当時会議は楽しかったですね。彰国社へ行くと,まずビールが出た。
田尻:そうそう。
布野:オイルショックがあって,会議に行くと,毎回まず今月何載っけますか,という話だったことを覚えています。印刷も,台湾の印刷所使っているって言ったかな?建たない時代だったから議論が出来たんですね。皆,勝手なことやったみたいな感じですね。一冊ずつ持つとか,それをやりますと,手をあげた。
田尻: そうなんだよね。
布野:僕はビールだけ呑んでいた記憶が強烈ですけどね。行くととにかくビールが出て,長ーく喋っていた。終わると,新宿の「風紋」へ連れてってもらいましたよ。新潮社の編集者が多かった記憶がありますが,・・・
布野:1970年代末には,第二次オイルショックがあります。景気は悪いし,雑誌も売れなかったんですよね。
田尻:まあ,僕の後をやった細田君も都崎君も,それから中山君もそれぞれ可哀そうだったけどね。
布野:可哀そうだったというのはどういう意味ですか。田尻さん時代もそうだったと思うけど,売れないわけですよね。作品があんまり出て来なかったこともあるけど,僕が覚えているのは,とにかく売れるためには,学校なら学校特集とか,設計者が役に立つような事例集をやれ,みたいなプレッシャーがあったんですよね。そう理解でいいですか。
田尻:まあそうですね。

布野:僕は,細田隆志編集長時代(1977年4月〜1979年2月(366〜388号))になって,「螺旋工房クロニクル」(1978年1月~1979年12月)[34]という前頁のコラムをもたされるんです。野崎正之さんの担当ですね,というか,毎回アジられました,もっと過激に!書け,というか,「・・・と思われる」じゃなくて言い切れ!ということですけどね。その後,都崎覚明編集長時代(1979年3月〜1980年4月(389〜402号)),中山重捷編集長時代(1980年5月〜1983年2月(403〜436号))に,「KB Freeway」(1980~81)[35]というのを続けています。だから,田尻さんが『建築文化』の編集長を離れられた時の『建築文化』は全冊見ていたと思います。

布野:80年代に入っても不況は続きますよね。振り返って,バブルに突入していたとされるのは,1985年9月ですね。田尻さんの第二期編集長時代(1983年3月〜1988年12月(437〜506号))から上向くんですよね。僕は,1982年12月以降,『群居』を拠点にします。それと,1979年1月に東南アジアを歩き出して,臨地調査を開始します。1987年に学位論文を書くので,1980年代は,建築ジャーナリズムからは離れた感じがしています。
田尻:400号記念は?布野さんがやったんじゃない。
布野:あれは,1980年2月号ですね。いや恐れ多い。「建築・そのプロブレマティーク」と題する鼎談を磯崎新・原広司・布野修司でやるんですが,布野でいいの?という感じでしたね。歴史を振り返った写真集で誤魔化したような気がします。その後,田尻さんが復帰されるんですが,何か,記憶に残っていることがありますか?大リーガーがやってきた!っていってたんですけど,外国人建築家が日本で仕事しますよね。
田尻:僕は,田尻さんの第二期編集長時代に『日本の住居1985‐戦後40年の視座とこれからの視座』(1985年12月号)を特集させてもらっています。それと最後は『500号記念』ですね。
布野:63年6月が200号でした。僕が関わった『廃墟からポストモダンまでの40余年』持って来たんですけど,これが1988年6月号ですね。
田尻さんが編集長最後の年ですね。2回目の最後。
田尻:「創刊500号記念」ってやつ
布野:これは結構すごかったですね。強烈だったという記憶が残っています。コアスタッフが,鈴木博之,中川武,藤森照信,布野修司,松山巖,三宅理一なんですが,箱根に泊まり込んで,それぞれ報告して議論したんです。喧嘩腰になって,相当激しかった。
田尻:鈴木さんと誰だっけ。

布野:三宅理一がぶつかった。お酒も入ってたし。『建築文化』「創刊500号記念特集」は密度高いですよ。僕は,「「底流」の記録 戦後建築史に浮沈したグループ活動メモ」というのをまとめたんだけど,全冊眼を通したんです。特に,早稲田の中谷礼仁以下,学生たちが図書室に入り浸って大変な作業をしたんです。今村創平さんもその中にいたらしい。
布野:僕は1991年9月に京都に行くんですが,「失われた10年」の最後の方を聞きましょうか。最後の編集長ってだれですか?
田尻:最後の方は亀谷も入るよね,
布野:僕は,1994年1月号で『建都1200年の京都』というのをやるんですが,亀谷編集長でした。

田尻:それから富重だね,東大のドイツ文学(富重隆昭編集長(1994年4月〜2000年3月(570〜641号)))。ほんとの最後は,名目だけれど,後藤かな。
布野:目録を見てると,96年ぐらいから,おかしいと言えばおかしいんですね。特集主義はいいんですが,前年あたりから特集1,2というかたちがでてきますね。例えば,1995年4月号は,特集1が「映画100年の誘惑 建築はいかにして映画と遭遇するか」,特集2が「堀口捨巳生誕100年 堀口捨巳から受け継ぐもの」です。堀口捨巳は田尻さんが随分かかわったんじゃないですか?映画100年は,リュミエール兄弟が「工場の出口」の試写会を行った映画誕生100年ということでしょうけれど,富重さんの趣向でしょうか?1996年以降には,「ヴァルター・ベンヤミンと建築・都市」(1996年5月号)とか「ドゥールズの思想と建築・都市」(1996年12月号)とかが組まれます。建築をインタージャンルの開きたいという意図はわかりますけど,まあ,売れなかったでしょうね。建築家の特集として,妹島和世特集(1996年1月号),内藤廣特集(1996年4月号)というのは,磯崎特集とか,原特集とか,山本理顕とかの系列としてあるんですけど。NTT新宿本社ビルとかいうのが出て来る。また,ジャンヌーベルとか,スティーブン・ホールとか外国人特集が増えてくる。創刊600号記念増大号は「ル・コルビュジェ」(1996年10月号)ですし,なんでコルビュジェだったんですかね? 1998年以降になると,ミースやテラーニ,アールト,近代建築史再考というより,教養,啓蒙主義的になっていく。これは売れないだろうなーというのは僕でも分る。
田尻:見事にね。
布野:かなり趣味的になっているというか,ちょっとびっくりした。ジャンヌーベルだけで3冊やっている。アルバーアルトも2冊,テラーニにしても,ミースファンデローエも,『ブルータス』が,コルビュジェを知らない人が多いから一般向けに特集するみたいなセンスですね。これなんか凄いですよ,「20世紀の都市パリ再び」ですよ。
21世紀に入って,隔月刊になるのが2001年,同時にCD-ROM版がついた。作品は全部CDロムに収録される。それでもル・コルビジェ百科をやる。ほとんど現代性が無くなっている。そして,2004年12月号で終刊する。終刊号は「アトリエ派のデザイン・メソッド」。
僕は,2001年~2003年,日本建築学会の『建築雑誌』の編集長やるんですよね。それなりに時代は記録したつもりなんだけど,紙媒体のメディアがなくなるんですね。潰すとときには赤字でしょうがなかった,というでしょうね。
田尻:僕は75才一杯まで彰国社に居るんですよね。
布野:2006年までですね。『建築文化』が終刊になったのが2004年12月ですから,田尻さんが辞めて『建築文化』が無くなったみたいな感じですね。,田尻さんと共になくなったわけだ。紙媒体の建築雑誌が今ほとんど無くなってしまった。だけど,『建築文化』の歴史を振り返った時にその果たした役割はすごく大きかったと思うんです。いま,そうした雑誌とか新しいメディアをつくろうと思ったときに,どうすればいいのかということなんです。
建築雑誌あるいは建築ジャーナリズムの役割をめぐっては,繰り返し議論してきているんですが,一貫して言われてきたことは,建築の世界が閉じているということですね。これについてちょっと意外だったんだけど,専門誌は専門誌できちっとしてないといけないといけないと中谷正人は言っているんですよ(「建築専門誌と編集者 一般メディアと違う」『建築 21世紀はこれからだ』(H))。一方で『Casa BRUTUSカーサ・ブルータス』みたいな,一般に開かれた雑誌も要るけれども,それは専門誌がしっかりしてないといけない,という。
一方,馬場正尊さんが『A』という雑誌つくって流通させようとしたけど,そう続かなかった。だけど,個人メディア的なものも,可能性があるかもしれない。これはスポンサー付きだったんだろうけれど,藤村龍至たちのフリーペーパー『ROUND ABOUT JOURNAL』というのも2008年頃ありましたね。「私たちは……ブログの日常性と専門誌の一般性を繋ぐ,新しい『議論の場』を設計しようとしています」といってました。専門誌はしっかりしていてくれないと,というようなこともあるかもしれない。今は『ディテール』は,残っています,これは重要ですよね。『建設技術』というのはある,『新建築』は『新建築』で相変わらずかな,情報誌としての役割を果たしている。電子媒体も併用して,学生500円とかね,課金制度を使ってる。紙媒体もほどんと売れないんだと思います。今皆通勤の時にスマホで漫画読むかゲームをするか,ですね。学会誌もみな電子ジャーナルになりつつあります。こんな神雑誌は重たいし,という時代になっているんですよ。しかし,そういう時にも,田尻さんがずーっと戦後やって来たことの意味が,僕はあるんじゃないかと思うんですけど,その辺はどう思いますか?
田尻:う~ん。中谷さんのは読んだけど,そんなに違和感はなかったですよ。ただ『建築文化』を止めた頃,いやその前から,パソコンじゃなくってワープロ,何だっけ,文字打つの?
布野:タイプライター? 僕がパソコンを使いだしたのは1980年代末ですね。東洋大にいて87年に博士論文を書いたんですけど,ディジターザーにつないでワープロのプログラム書いたんです。プリントアウトして切貼りで,図表は別頁でした。『群居』は1982年末創刊ですが,ワープロ,プリントアウト,切貼りでした。文字は16ドットで粗かった。それでも新しいミニコミのかたちだということでどっかの取材を受けましたよ。
田尻:僕らはね,そこら辺からもうついていけなくなっていた。今はほとんどいろいろレイアウトまでやる,そういうの出来ない,僕なんかは出来ない。
布野:でも,今,90歳でワープロもメールも使われている。すごいですね。
田尻:いや,もうついていけないですね。
布野:確かに,1990年代に始めるIT革命が大きいですね。原稿依頼を受けるのも,編集者の顔を知らない,メールだけというのが一般的になりつつありますね,僕らでも。僕の近刊の『スラバヤ 東南アジア都市の起源,形成,変容,転生―コスモスとしてのカンポン―』(京都大学学術出版会,2021年)ではQRコードを埋め込んであって動画が見られるんです。もう何冊か前からやってるんですが。それと2010年頃からレイアウトも活字の組みこみもIn Designという編集ソフトでしたね。出張校正も,印刷屋ではなくて編集事務所に行って,2台のモニターで,この図はこれに差し替えてとか,もっと大きくとかいうと,右のモニターで変更した図が左のモニターの頁にスッと入るんですね。印刷所も変わったでしょうね。建築も,単に設計図書の作成やグラフィックな表現手法を大きく変えただけでなく,CAD(コンピューター・エイディッド・デザイン)からCAM(コンピューター・エイディッド・マニュファクチャリング),3DCG(3次元コンピューターグラフィックス),DF(デジタル・ファブリケーション)などコンピューター技術の発達で,構造技術,施工技術など建築生産技術が大きく変わってきた。BIM(ビルディング インフォメーション モデリング)と呼ばれる,3次元のモデリングソフトウェアによって,設計から施工まで一括して構築管理するシステムが,実用化されている。
田尻:時代の流れだねえ。
布野:しかし,批評は必要じゃないですか。一番感じるのは好き勝手つくってるんじゃないの?ということですね。要するに文句つける奴がいないと,作品のレベルも上がんないじゃないかということです。要するに,批評がないといけないと思う。田尻さんがやっていた頃は,「この先の建築」を考えて編集していたんじゃないですか。そういう意識があったことでしょう。未来につながるものを取り上げるし,テーマにする。だけど最近はどうなの?ということですね。面白ければいいとか,売れればいい,というそういう風潮はかつてもあったわけですが。批評がなくなった,ポリシーをもった編集者がいなくなった,ということでしょうか。
田尻:へへへへ。,
布野:議論して,テーマを仕掛けるのは編集者の役割ですよね。僕も田尻さんや野崎さんに随分アジられて考えてきたんです。一方,『新建築』に特にそういう匂いを感じてきたんだけど,ちょっと偉そうなところがあった。「お前の載せてやる」という意識がある。僕編集長に直接聞かれたことがありますよ。「高松のこれどう思う,もうちょっと泳がしておいたほうがいいか」とか言うんです。その時は載せなかった。なんか偉ぶっているわけ。同時発表が原則でしょう。他で先に発表するんなら,載せないとかね。建築学会賞は自分たちがつくっている,ということを豪語する編集長がいましたよ。載せるか載せないかで区別する。それは批評じゃないですよね。『新建築』の編集長だった石堂威さんが言っていたけど,作品だけでは雑誌はできない。前後にコラム的なものも要るし,その時代,時代を記録する意味がある。記録ということは大事ですよね。ただ『新建築』は「新建築問題」の時に社長は「うちは批評は要らない」って言った。
田尻:あと,的確な情報を伝えるということかな。
布野:僕が覚えているのは,いい特集といって議論ばっかりやっても売れないって社長に怒られた,学校特集やれ,病院特集やれ,特集にしたら設計している建築家に役に立つからと。事実,学校特集とか,図書館特集とか特集した方が売れたんでしょう。何か変な役に立たない議論だけだと。僕は吉武泰水研究室だったから,そういう施設=制度を再生産しているだけじゃだめだ,もっと挑戦的な学校をつくるべきだと思ってた。オープンスクールの議論もあったし,学校と老人施設を組み合わせたらどうだっていう議論をしてたんです。野崎さんなんかそつちしか興味なかったから,あいつに編集長やらすとヤバイ・・ということだったんですよね。
布野:田尻さんは,リタイアされて15年ですね。2015年に僕が東京に戻ってきて,僕が司会をやらされた,太田邦夫先生の『木のヨーロッパ―建築とまち歩きの事典』(彰国社,2015年)の出版記念会(2016年3月23日)で会いましたが,その時は,展覧会とか,シンポジウムがあると出かけていると言っておられました。後藤武(当時彰国社会長)さんと3人で神楽坂で飲んで,吉祥寺まで一緒に帰った記憶があります。その後,僕が立ち上げた日本建築学会のWEBジャーナル『建築討論』に僕が書いた「伊東豊雄はどこへ行く」[36]について,メール「布野修司 「伊東豊雄はどこへいく?」を読んで」[37]をもらって,それを『建築討論』に掲載したことがありますね。伊東建築塾には度々出かけておられたわけですよね。
田尻:そうですね。
布野:伊東豊雄が,東北でやってきた東日本大震災の後に「みんなの家」をシリーズで建てていったんですが,それは見てないですよね。
田尻:見てない。岐阜のね,何て言ったつけ,
布野:岐阜市立中央図書館―愛称「みんなの森 岐阜メディアコスモス」。それは見てみないと分らないと僕にメールくれたんですよね。建築家で一番付き合ったのは磯崎さんじゃないんですか?原さんは?
田尻:僕がですか,
布野:最初から一番付き合ってきたとか,一番応援したいとか,一番気になったとか,そういう建築家はいますか?
田尻:どうだろうなー,原さんなんかは割り方付き合った方だたったとは思うけどね。
布野:原さんは田尻さんには随分世話になったと言われますよ。野崎さんなんか,原さんとはべったりだったかな? 田尻さんは,石井和紘とか買っていたんじゃないですか
田尻:付き合いましたねー,うん。死ぬ前に会いたいって言うんで。自宅のすぐ傍に,あれは何だ,和食屋さんみたいなやつがあって。
布野:赤坂ですか。
田尻:お別れだったのかなー,考えると。ご馳走してくれて。
布野:その時の話は覚えてないですか
田尻:うん。それから間もなくして死んだ。あそこの地下鉄の駅まで送ってくれた。石井さんのやつではね,鹿島出版会から出しちゃったんだけど,卒論でなくて,お寺の,
布野:大徳寺の「茶室」の分析かな。
田尻:うんとね,あれ,どうも固有名詞が出て来なくって,困っちゃう
布野:本ですか。
田尻:本も出しましたよ,あそこでね。東大の同級生居たじゃないですか鹿島出版会に。同級生だと思ったなー石井さんと。
布野:伊藤公文さんですか,少し下で,僕の2年先輩かな。
田尻:彼が出したんじゃないかなー。
布野:鹿島からだと『イェール建築通勤留学』(1975)が最初ですね。『数寄屋の思考』(1985)じゃないですか?
田尻:あれ,もっと好い本になったと思うんだけどね。
布野:すごい才能があった人だと思います。しかし,最初は一緒にグループ活動(ランディウム)をしてたんですが,鈴木博之さんと何があったのか駄目になって,あんまり,いいポジションを得られなかったということがありますね。才気走った自信家でしたから,吉武研究室でも上の世代の助手連中とは対立的でしたね。僕なんか,石井さんと難波さんの事務所と助手グループの事務所の両方でアルバイトしてたんですが,両方で悪口聞かされた記憶があります。僕でも「直島幼稚園」(1974)とか,「54の窓」(1975)の図面書いたんですよ。
田尻:必ずしもいいとは言わないんだけど,藤森さんの最初の作品ね。
布野:「神長官守矢資料館」(1991)ですか?
田尻:あれは扱ったらいいと『建築文化』の編集部に言ったことがありますよ。
布野:第二作は自邸で「タンポポハウス」(1995)ですよね。家は近くなんで行き来してたことがあるんですが,最初は親父さんに買ってもらった大野勝彦さんの「セキスイハイムM1」なんですね。その後,家は屋根がないと言って木造の書庫というか仕事部屋を増築したんです。それを建替えたのが「タンポポハウス」ですね。自然素材で建てるというのは,実に挑戦的でした。
田尻:藤森さんのやつって,ほとんど最初のだけですけど,ある程度評価できますよね。
布野:藤森さんの日本建築学会賞をとった「熊本県立農業大学校学生寮」(2000)ですが,その時撲は選考委員だったんですよ。構造家の渡辺邦夫さんと一緒だったんですが,これは20年経つと,ばらんばらん,になる,というんです。食堂があるんですが,柱が不規則に立っていて,えーこれどうなっているのという感じなんですが,空間は実に幻想的で凄くいいんですよ。最終的に僕は,地元の建築家との共同作品として評価したんですが,船越徹さんが委員長だったんですが,学会賞は個人のものだといって,独断で藤森照信個人に賞を与えることにしたんです。その顛末については,審査評に書書きましたが,象設計集団のように集団じゃないともらわないという主張もある。
田尻:作品としてはいいの。
布野:自然素材というのはいいんですよ。しかし,タンポポハウスでも,生の木を使ったら,暴れて大変だった,床板は締め直したんだと言っていました。他の作品でも,結構,いろんなクレームが出て困ったようです。「ヘタウマ」と書いたことがありますが,不思議な,可愛らしいかたちが出てくる。魅力的ですよね。いくつか見てるんですが,スケールアウトだったり,木を屋根から生木が突き出てたり,奇を衒ったところもあるけど,自然素材にこだわるのはいいですよね。隈研吾も木だ,石だ,というけれど,違いますよね。最近,隈・批判を書いたんですけど(「フェイクとオーセンティシティ:建築の虚偽構造」雨のみちデザイン「驟雨異論」2021年5月http://amenomichi.com/shuuiron/funo1.html),「新国立競技場」は木造でもなんでもないですし,「角川武蔵野ミュージアム」も石造じゃないですよね。木造というけど,木片をぺらぺら貼っているのが多い。
田尻:伊東さんはどうですか。
布野:伊東さんはね,ずーっとふらふらしているなー,時代時代にね合わせてやる人だなーと思っていて,そのことを伊東論として書いたんですよ。「かたちの永久革命」というんです(『現代建築水滸伝 建築少年たちの夢』(彰国社,2011))。ただ,直に聞いたんだけど。いやもう疲れた,新しいかたちを追求するのはしんどい,といってました,それで「みんなの家」が出てきたのかな,と思ってました。最近出した本を贈ったら,珍しく葉書くれて。2年前に脳血栓かなんかで倒れたらしいんです。今はいかに自然と調和した建築はいかにあるかを考えてます,というようなことが書いてありました。
田尻:伊東さんも器用なところあるからね。
布野:基本的に上手いんですよね。
田尻:これからもう年だから,しょうがないかっていう感じ。難しいところに来てんじゃないかなー。
布野:うわさ話になりますけど,新国立はほんとにとりたかったらしいですね。国立というのはやったことがないないからと。プリツカー賞ももらってるし,芸術選奨ももらっているし,こないだ勲章もらったし,次は文化勲章とか,芸術院会員がありますけどね[38]。
田尻:理顕さんは非常に真面目過ぎて,損しているね。
布野:どういう意味ですか?僕は,「日本の第一線で活躍する建築家の中で,最も「正統的」なのが山本理顕である」と書いたんです(「家族と地域のかたち」『建築少年たちの夢』)。理不尽な事には戦っちゃう。今も名古屋造形大学の学長でガンガンやってる。横浜国立大学YGSAに居た時も元気のいい学生を随分育てていますよ。。損したのは,「邑楽町」にしてもトラブル起こすとね,自治体が引くんですよ。隈研吾はもう新国立やっただけで,自治体が頭下げてやってくれとやってくれと,くる。ちょっと前まであんまり仕事無かったですからね,日本で。僕は,滋賀県の守山市図書館のコンペで審査委員長だったんですが,選ばれて凄い喜んで,久々ですって本を送ってくれました。
田尻:隈さん,隈さんで,かつての黒川さんみたいかな。
(文責 布野修司)
A 田尻裕彦(2017)『私家版 新 田尻家譜』現代編ノート1 修正増補版
B 福井駿(2021)『編集者宮内嘉久の思想と実践について』修士論文(京都工業繊維大学)
C 楠田博子(2016)『戦後建築雑誌における編集者・平良敬一の研究— 機能主義を超えるもの” の変遷と実践―』修士論文(東北大学)
D 平良敬一(2017)『機能主義を超えるもの』風土社
E ギャラリー間編・田尻裕彦・石堂威・小牧徹・寺田真理子・馬場正尊監修(2003)『この先の建築』TOTO出版
F ギャラリー間編・田尻裕彦・石堂威・小牧徹・寺田真理子・馬場正尊監修(2003)『建築の向こう側』TOTO出版
G 彰国社(1982)『彰国社創立五十周年』彰国社
H 馬場璋造・寺松康裕・類洲環・中谷正人・神子久忠・松岡満男・小林浩志『建築21世紀はこれからだ―編集者・写真家 三〇〇年の視点』相模書房,2013年
以下,参考
布野修司
『伊東豊雄はどこへく?』http://touron.aij.or.jp/2017/02/3548
台中国家歌劇院が10年がかりで竣工した。仙台で開催された第11回アジアの建築交流国際シンポジウムISAIA(International Symposium on Architectural Interchange in Asia)(東北大学,2016年9月20日~23日)の基調講演の中で本人自らの説明を聞いた。現場の大変さを聞いていたのであるが,よくぞ竣工にこぎつけたと思う。この見たことのない傑作は21世紀の名建築として歴史に残ることであろう。
東日本大震災後,被災地に何度も通って「みんなの家」を被災地に建てた。そして,2012年開催の第13回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展に,陸前高田の「みんなの家」を出展,金獅子賞を受けた。そして,プリツカー賞も受賞した(2013年)。さらに,新国立競技場の設計競技については結果的に3度挑戦し敗れた。この間,日本の建築界の中心にいて,その一挙手一投足が注目される建築家が伊東豊雄である。
そんな伊東豊雄が2016年に立て続けに新書を出した。本書と『「建築」で社会を変える』(集英社新書,2016年9月)である。東日本大震災直後の『あの日からの建築』(集英社新書,2012年10月)と合わせると,立て続けに3冊の新書が出版されたことになる。いずれも,インタビューをもとに,編集者,企画者がまとめるスタイルである。本書のタイトル,「日本語の建築」「空間にひらがなの流動感を生む」という方向性は必ずしも詳述されるわけではない。従って,伊東豊雄のこれまでの『風の変容体』『透層する建築』のような建築論を期待して読むと裏切られるが,この一連の新書から,伊東豊雄がこの間何をどう考えて,何をしてきたのか,建築家としてのある着地点に向かいつつあることを知ることができる。
「壁,壁,壁…。前を向いても後ろを振り返っても,右も左も壁ばかり。渡る世間は壁ばかりです。」と本書は書きだされる。壁とは,例えば,巨大な防潮堤で,「安全・安心」の壁が実は「管理」という壁と同義語で,お上が自分の管理責任を問われるときに必ず持ち出されるのが「安全・安心」の壁だという。本書は,プロジェクト毎に出会う「壁」についての物語である。
まず興味深いのは,第一章「新国立劇場三連敗」である。3連敗とは,最初のプロポーザルコンペで負けたこと,また,ザハ案への反対運動の過程で自ら提案した改修案が採用されなかったこと,さらにデザイン・ビルド方式に応募(B案)で敗れたこと,の3連敗である。
新国立競技場をめぐる問題が,建築界で深く受け止めるべき問題を孕んでいることはこの間様々な場所で議論されてきた。このWEB版『建築討論』でもまず「デザイン・ビルド方式の問題」,そして「契約方式の問題」をめぐって議論がなされている。設計施工の分離を前提とした建築家の基盤が大きく揺らぎ,設計者,施工者,そしてクライアントの関係が複雑に変化し多様化していることが確認される。ただ,建築の契約発注について,また,建築家が果たすべき役割について,必ずしも建築界が一致する方向性は必ずしも見いだせていない。
新国立競技場のコンペについては,歴史的,構造的な問題が露呈しているといっていい。別の場所でじっくり議論したいと思うが,しかしそれにしても,何故,伊東豊雄はデザイン・ビルドのコンペに応募したのか。本書を読んで初めて知ったのであるが,様々な柵(しがらみ)の中で頼み込まれたのではなく(A案一案だけではコンペが成立しないから),コンペへの応募は伊東豊雄の方からもちかけたのだという。というのも,『あの日からの建築』において,あるいは本書においても,東京(都市)から地方へ,あるいは「新しさ」から「みんなの家」へ,自らの建築家としての方向を大きく転換したと思われているからである。その伊東が,東京のど真ん中の国家的プロジェクトに自ら挑む構図がしっくりこないのである。
伊東豊雄は,自らの案がすぐれていると,公表された点数の問題に絞って疑問を提示するが,新国立競技場のコンペの問題は点数制による評価方法を問う以前にある。コンペのフレームすなわち敷かれたレールがそもそも問題であって,敷かれたルールに乗って戦って負けたということである。結果として,ルールに従って選定しましたというアリバイづくりに参加することになった。「壁」をカムフラージュし,補強する役割である。
結局,何故,3回目の戦いに参加したのかについては,「建築に携わろうと思ったら,大手の組織系事務所に入るしかない」状況の中で「個人の建築家としてどこまでできるのかチャレンジしてみたいと思った「若い人に知ってほしかった」」というだけである。
この間の伊東豊雄の「転向」をめぐっては飯島洋一『「らしい」建築批判』(青土社,2014年)の厳しい批判があり,この書評欄でもとりあげた(「21世紀の資本と未来」)。繰り返しは控えたいが,飯島は,東日本大震災以前と以後の伊東豊雄の「転向」,「自己批判」,すなわち,「個の表現」「作品」としての建築を否定し「社会性」を重視する方向をよしとしながら,その「作品主義」「ブランド建築家」の本質は変わらないと批判する。そして,コンペに参加しながら改修案を提出した伊東の態度も一貫性に欠けると批判する。飯島に言わせれば,白紙撤回後のデザイン・ビルド・コンペに参加することなどもっての他ということであろう。
「仙台メディアテーク」までの伊東豊雄の建築論の展開をめぐっては,『建築少年たちの夢 現代建築水滸伝』(彰国社,2011年)で論じたが(「第三章 かたちの永久革命 伊東豊雄」),確かに,状況に応じて状況と渡り合うその言説にはブレがある。それに付け加えることはないが,しかしそれにしても,東日本大震災後の「みんなの家」とそれ以前の作品群との間のブレ,落差は,それ以前のブレに比べて極めて大きい。ひたすら「新しいかたち」を求めてきた(「かたちの永久革命」)伊東がコミュニティ・ベースの「みんなの家」を提案するのである。
それに既存施設の改修案を提示しながらデザイン・ビルドの新築案に応募するのは明らかに首尾一貫しない。伊東に言わせれば,条件が違うのだから案が異なるのは当然ということであろうが,飯島ならずとも,戸惑わざるを得ない。
しかも,『あの日からの建築』で語った新たな建築の方向については,結局「みんなの家」しかつくれなかったと伊東豊雄はいう(第二章「管理」と「経済」の高く厚い壁 東日本大震災と「みんなの家」)。この言い方もいささか気になる。「今後,被災各地の復興は困難をきわめるだろう。安全で美しい街が五年十年で実現するとは到底思われない。しかし東京のような近代都市の向こう側に見えてくる未来の街の萌芽は確実にここにある。」と書いていたのである。釜石復興プロジェクトは挫折したという。しかし,一体何をつくりたかったのか。『「建築」で日本を変える』と言うのである。
結局,「管理」と「経済」を大きな二つの壁とする近代主義に凝り固まった思考と態度に拒まれたというけれど,何が阻まれたのか。
その昔,「近代の呪縛に放て」という『建築文化』の連載シリーズ(1975~77年)のコア・スタッフとして毎月のように集まっていた頃を思い出す。伊東豊雄をトップに,長尾重武[1],富永譲[2],北原理雄[3],八束はじめ[4],布野修司というのがメンバーであった。「近代の呪縛に放て」というのは田尻裕彦[5]編集長の命名であったが,近代建築批判の課題は広く共有されていた。「アルミの家」によってデビューはしていたけれど,その時点で「中野本町の家」はまだ実現はしていない。近代建築批判をどう建築表現として展開するのか,口角泡を飛ばして議論したものである。結局,振出しに戻ったということなのか?出発点にとどまっているだけなのか,何ができて何ができなかったのか。
伊東豊雄は,第三章「「時代」から「場所」へ」で,これまでの自らの軌跡を素直に振り返っている。「社会に背をむけた1970年代」から「消費の海に浸らずして新しい建築はない」といっていた時代へ,そして,「八代博物館・未来の森ミュージアム」以降,公共建築の展開がある。建築家として自作を語るというより,時代の流れとの対応が語られる。インタビュアーとの応答がベースになっているからであるが,もともと伊東豊雄は「状況」に敏感な建築家である。自ら振り返って,はっきりと「バブルの時代の東京が一番好きでした」ともいっている。そして「仙台メディアテーク」以降は,地域や場所に密着した建築を強く意識するようになるのである。
1970年代初頭,近代建築批判の流れはいくつかの方向に向かう。わかりやすいのは,近代建築の理念や規範が排除してきたもの,否定してきたものを復権することである。装飾や様式,自然やエコロジー,ヴァナキュラーなものやポップなもの,廃棄物やキッチュ,地域や伝統などが次々と対置された。そして,それぞれがデザインの問題と競われることにおいてポストモダンの建築として一括されることになる。様々な記号やイコンや装飾が浮遊するポストモダンの建築状況は,あらゆる差異が無差異化され同一平面上に並べられることによって消費される消費社会の神話の構造と照応していた。そうした中で,常に何か新しさを求めてきたのが伊東豊雄である。だから,装飾や様式,自然やエコロジー,ヴァナキュラーなものやポップなもの,廃棄物やキッチュ,地域や伝統を対置する構えはなかった。その伊東が「地域」や「場所」へ向かうというのである。
鍵となりそうなのが「日本語の建築」であり,「ひらがなの流動感」だという。もちろん,「日本の伝統的な建築様式に戻ればいいと考えているわけではない」。「歴史や風土を踏まえたうえで,現代のテクノロジーを駆使して未来を見据えた建築のあり様をみつけ出したい」「アジアの建築家として,日本人の建築家として,一つ見えてくる道筋の先に,「日本語の空間」「日本語の建築」というあり方が存在するのではないかと考えるようになった」(序章)というのである。
「日本語の建築」というのは本書で突き詰められているわけではない。枕としてひかれているのは水村美苗『日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で』(筑摩書房,2008年)である。これについては,「建築討論」02号「日本建築の滅びる時」宇野求・布野修司対談 で話題にしている)が,世界語,国際語としての英語と日本語,近代建築と日本建築という単純なディコトミーに基づいて日本を対置するというのだとすれば,よくある日本回帰のパターンである。辛うじて理解するのは,「壁」によって空間を区切ってしまうのではなく,空間の連続性を保ちながら,空間に場所の違いを生み出す,壁を建てない,区切られた部屋を極力つくらない,自然の中にいるような建築,具体的には「せんだいメディアテーク」の「チューブ」や「みんなの森ぎふメディアコスモス」の「グルーブ」,振り返れば「中野本町の家」のような空間がその方向だという。
建築の壁と「渡る世間は壁ばかり」という「壁」はもちろん違う。壁を取っ払えばいい,というわけではないだろう。近代建築批判が単にデザインの問題ではないことは最初からわかりきったことである。この「日本語の建築」は社会的な「壁」の問題にどう重なるのか。
『「建築」で日本を変える』のあとがきに書かれているけれど,伊東豊雄は,2014年の秋から4カ月間病院生活を送っている[6]。この4カ月の膨大な時間にこれまでにつくってきた建築のこと,そしてこれからの自分の人生の過ごし方について考えたのだという。
結局は,自らの生き方として示すしかない,ということではないか。「作品」とか「個」の表現とかを突き抜けた地平で,依拠する場所を決めたということである。そうだとすれば,伊東豊雄は変わった,あるいは着地点を見出したのである。
最終的に行きつきつつあるのは大三島である。残された建築人生を大三島での活動に懸けたいという。伊東建築塾も大三島で行われる。大三島には土地も買った。ル・コルビュジェが晩年,モナコ近くの海辺に小屋を建て,のんびり裸で絵をかきながら過ごしたというエピソードにわが身も重ねるともいう。
そうした中で,熊本大地震が起こった(2016年4月)。熊本アートポリスのコミッショナーとしては動かざるを得ない。大三島を拠点としながらもまだまだ世界中を股にかけざるを得ないかもしれない。
しかしそれにしても,伊東豊雄のように「壁」と格闘する建築家が群雄割拠しないといけないのではないか。
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田尻裕彦
布野修司 「伊東豊雄はどこへいく?」を読んで|
2017/04/14 | Featured, 012号:2017年夏(4月-6月),
http://touron.aij.or.jp/?p=3824&preview=1&_ppp=8358a0415f
当方,70代まではまあまあ元気でしたが,80代も半ばを過ぎようとするこの頃は,講演会場などでは補聴器の助けを借りても不十分にしか聞き取れず,通常の遠近両用眼鏡に拡大鏡を重ねての読書もまた疲れやすく,若い頃なら一晩で済ませたろう書物の読了に休み休みで1週間はおろか10日以上も掛かる始末に苛立ったりしている有様。また,この便りを打ち込みつつあるパソコン利用にも専用眼鏡の必要を迫られ,先日購入の手配を済ませたところです。
昨秋に偲ぶ会が催された「活発なお喋りおじさんでもあった高橋靗一先生」がその晩年には暗い表情の無口なお人になってしまわれ,「田尻さん,僕はもう80を超えちゃったよ」などと私の耳元で弱々しくつぶやかれたりしていたお姿を自らのこととして想い起こしたりしております。一方,90歳を越えてなお,かつての友人たちの偲ぶ会の発起人代表などを連続して矍鑠とお務めの内田祥哉先生からそれらの会場で握手を頂戴したりすると,ドンと背中を叩かれたように感じて真似事ぐらいはと思ったりもするのですが,次の瞬間には,とてもとてもとへたり込んでおります。
なにしろ,昨秋は体調優れずと自覚しているところに,先の高橋先生をはじめ阪田誠造先生や石井和紘さんの偲ぶ会,はたまた写真家の村井修先生や若い小嶋一浩・藤江秀一さんなどの葬儀をも含むお悔みの席が立て続けに重なり,すっかり参ってしまい,出席の返亊をしていた他の催しなどもお詫びしてキャンセルさせていただいたという始末でした。そんなことで,布野さんにもご無沙汰の限りの失礼でしたが,年中お休みという身の上ながら,改めて正月休みを挟んで立春も越え,ようやく陽も長くなったこともあって少しは元気を取り戻しつつある感じで,松村秀一さんの新著『ひらかれる建築』(ちくま新書)もその宣伝文にそそのかされて購入し,近く読む予定で座右に置いております(笑)。
さて,前置きのご挨拶はこれぐらいにして本題の伊東豊雄さん関連へと話を進めますが,同氏の新刊書3冊はまだ読んでおりませんものの,伊東建築塾には時々顔を出させてもらい,ご本人の話なども聞かせてもらっておりますから,おおよその内容は見当が付くようにも思います。また,僕は未だ訪れておらず,掲載誌もちらりと眺めた程度ですから,それらについてあれこれ語るのはおこがましく失礼なのですが,岐阜の図書館や台中国家歌劇院など伊東さんの近作は時代を画す建築として,もっと評価されてもよいのではと思っています。これらの建築は,まさに「近代の呪縛」に放って本質的な風穴を開けてくれたのではと,私は考えております。
岐阜市立中央図書館――愛称「みんなの森 岐阜メディアコスモス」のほうが似つかわしいと思いますがーーは,その立地を取り囲む山々の姿と同調して相互の交歓をいざなうように,その屋根・天井になだらかな曲面の凹凸を作り成すべく,木の部材を不規則な格子状に編み上げて形づくられておりますが,そこに設けられた9ヵ所ほどの天窓から地表レベルの大半を占める読書スペースに射し込む陽光を和らげ,またその天窓に付属する換気装置が開かれた際には心地よい風の流れが双方向に生み出されるように,地元の伝統工芸のひとつ「岐阜提灯」を巨大にデフォルメしたような優雅な膨らみを見せるその曲面に見え隠れする程度の白色の切り絵のような図柄をも配した大小の天蓋が,まるで宙に浮かぶかのように群れを成して吊り下げられた読書スペース全体を見通す景色は,どこからか密かに祭り囃子でも聞こえてきそうな楽しい雰囲気を醸し出し,「日本語の建築」という堅苦しい表現よりも「ひらがなの建築」としたほうが適切であろう風情を呈しております。
また,これら天蓋それぞれが覆う空間に緩やかに生成された固有のゾーンは,その床に施された曲面を多用する「座」のデザインとも相俟って,堅い仕切りから解放された柔らかい固有の「場」を形成しながら,かつそれらは全体の部分として読書スペース全体を形づくっています。また,これら屋根・天井・天蓋・座・床などを総括する建築デザインの構想には,森やその中を流れる渓流沿いの散歩道なども備えた外構をも含めて,自然に寄り添いながらその自然が内包する力を援用することで化石燃料によるエネルギー消費を極力抑えながら四季それぞれに応じた心地よい室温をもたらそうとするなど,「設備」や「技術」といったアクティブな思考に著しく偏重して依存してきた近代建築のデザイン思想を止揚しようとするパッシブデザインの構想がその基底に据えられているものと,私は認識しております。結果として,その達成度がどうしたレベルであったのかは,現段階の私の知見では不確かですが,現況の一般的な建築デザインの状況下にあっては,そうした構想の試みの存在自体が高く評価されるべきだろうと考えております。
さて,ここまで書いて,実体験していない建築を語ることの難しさをいやというほど思い知らされました。そこで「台中」について感想を述べるのは訪れてからにしようと考えました。しかし,ここで全く触れないのも片手落ちですから,ごく簡単にはしょった感想でお許を乞うことにしたいと思います。
台中の建築は,オペラ劇場を中核とする大規模な建物ゆえにコンクリート造ですが,ここでも木造の岐阜の場合と同様に堅い壁といったもので仕切られることの少ない自由な空間や場を生成しようとする建築デザインの追求が通底しております。そして,ここでのそのためのデザイン手法の特徴のひとつは,許容範囲内でのバーチャルリアリティーの援用であろうかと考えます。
外観にあっては,四角形の巨大なコンクリートの塊に,水滴が球になったり萎んだりしながら流れ落ちるような表情を呈するレース編みにも似たコートを着せ掛けることで躯体を半透明の柔らかい表情に化けさせ,かつ建物の大きささえも消してしまっているように思います。また,その羽織らせたコートは,建物内部からの景色や眺めにもひと味を加えてもいるようです。建物内部は,床・壁・天井の領域さえはっきりとしない廊下のような空間を歩いていて,たまたま流れてきた音曲に誘われて覗いてみたらそこには大ホールの客席が広がっていたりするのではないかなどと想像されます。もちろん,何階などという野暮な区切りもないのでしょう。四角四面に空間を区切る壁からの解放が,たぶんここでは達成されているのだろうと推測し,そこでの新しい空間体験に期待するところ大なるものがあります。
ここまで,岐阜と台中についてくだくだと感想を述べましたが,たぶん布野さんは既にこれら建築を訪ねてもおられるだろうし,このたびの論評の冒頭でも「台中国家歌劇院が10年がかりで竣工した。(中略)よくぞ竣工にこぎつけたと思う。この見たこともない傑作は21世紀の名建築として歴史に残ることであろう」と評価しておられる布野さんにとって,これら長話は迷惑きわまりない蛇足だったに違いないと反省していますが,私としては未だ実体験していない建築の感想を述べることを通して己の考えを確かめると同時に,もし誤解などがあればご指摘いただくことを期待してのことでもありますから,ご容赦ください。
ところで,「建物の壁」の撤去は,以上のように伊東さんの執念深い研鑽の積み重ねを経てようやくその突破口が見いだされたのではないかと思っていますが,布野さんがその先の問題とされている「社会的な壁」はいよいよ健在ですね。数年前,年度初めの伊東建築塾の塾長自身による講義の演題が「渡る世間は壁ばかり」とありましたので期待しておりましたが,残念ながらそのときも「社会的な壁」は圏外のままで話は終わりました。また,その少し前の講義のひとつに,伊東さんがそこに宛がわれたのだと思う若い建築家による東日本大震災復興プロジェクトのひとつが紹介され,現在では構造的に最もコミュニティーを濃厚に残すだろう漁業中心の町を対象にしたそれは,「実現したらよかったのになあ」との慚愧の念を誘う力作でした。その実現を阻んだ「壁」の正体は,それこそ見えにくい妖怪だったのでしょう。残念極まることですが,一筋縄では参りません。「激情の人」でもある伊東さんがこの場面で黙っておられたのには,たとえその裏に隠れた何らかの壁の存在が働いていたにせよ,直接的には災害を被った町の当事者レベルでの不採用だったゆえではないでしょうか。また,その陰には震災後の建設費の高騰に拍車を掛けた東京オリンピック関係の多くの建設計画があっただろうことも,容易に推察されます。
そして当然,「社会の壁」には「建築界の中の壁」も含まれております。それに関連する諸課題の究明とそれへの挑戦には,布野さんや安藤正雄さんがコーディネーターを務めておられるA-Forumのアーキテクト/ビルダー研究会での議題や議論は地味ながらきわめて有用・有効な作業であろうと評価しております。その先には,さらに建築界内外での政治的活動などという世話の焼ける困難な諸課題も控えてはいるのでしょうが・・・・・・。
布野さんがこのたびの論評で伊東豊雄さんに投げかけられている問いには,その時々に私も疑問に感じたりしてきた点と重なるところがあり,同感するところも多くあります。しかし,かつて首を傾げさせられたバーチャルリアリティーにドップリだった伊東さんの展覧会プロジェクトやそれに付されていた論考なども,それから20年(?)ほども経過した今日,氏はそれを執念深く止揚して台中国家歌劇院での見事な成果に結実させてくれました。そのほかの疑念も,このように思いもよらぬ逆転の着地点に繋がってくれることを期待したいと思います。また,これら問題の多くは,建築界全体が担うべき諸問題とも重なってもいるだろうと考えます。
そこで,この私の感想文の結びにも,
「しかしそれにしても,伊東豊雄のように「壁」と格闘する建築家が群雄割拠しないといけないのではないか」
との,布野さんの論評の結びである呼びかけの言葉を拝借させてください。
2017年3月25日
[1] 立松久昌1931年東京生れ。1955年早稲田大学文学部卒業。彰国社勤務を経て,1964年立松編集事務所設立,『国際建築』『建築年鑑』の編集に携わる。1975年『住宅建築』(建築史料研究社)創刊に参加。1983~1991年編集長。以後同誌顧問。1986年『すまいろん』(住宅総合研究財団)編集委員。立松久昌(2000)『家づくりの極意』建築史料研究社。2003年9月14日逝去。
[2] 1934年台湾台北州基隆生れ~。1958年早稲田大学理工学部卒業。同年,坂倉順三建築研究所に入所。1994年,同研究所代表取締役大阪事務所長。1999年から2005年まで同研究所代表取締役。1962年大阪府青少年センターで日本建築学会賞・作品賞(西澤文隆,山西嘉雄,吉田好伸他)。国立オリンピック記念青少年センター(1996年),芦屋市民センタールナホール(1998年),大阪市中央公会堂(2004年)など。
[3] 布野修司:講演 アジアの文化遺産の継承・東南アジアの住居他:アジア文化遺産講演会~アジアの建築文化遺産の継承~,文化遺産国際協力コンソーシアム 東南アジア・南アジア分科会長 ナウィット・オンサワンチャイ チェンマイ大学建築学部准教授 タイの都市型住居としてのショップハウス 奈良・タイ国際交流フォーラム~文化遺産の活用と国際交流~ コメンテーター 布野修司 パネリスト:ナウィット・オンサワイチャイ氏太田隆信 米国建築家協会名誉フェロー会員・タイ国王立建築家協会名誉会員・JIA名誉会員神野武美 (公社)奈良まちづくりセンター理事(文化遺産活用事業担当)須藤千要子(特活)奈良国際協力サポーター副理事長(文化遺産活用事業担当)フォーラム進行 上嶋晴久JIA文化財修復塾,JICAシニア海外ボランティアOB(タイ・チェンマイ景観保存)
[4] 清水建設株式会社・技術研究所・技術顧問。1950年東京工業大学建築学科卒業。1952年ワシントン大学大学院修士課程修了。1958年ノースウェスタン大学大学院博士課程修了。山下寿郎設計事務所技師,カーネギー工科大学助教授を経て,1964年東京工業大学建築学科助教授。1968年同教授。1988~1988年清水建設(株)顧問・常任顧問。東京工業大学名誉教授。Ph.D.(ノースウェスタン大学,1958年),地盤工学会会長(1994~1995年度)。
[5] 神奈川県尋常中学校(1897年:久良岐郡戸太町)→神奈川県中学校→神奈川県第一中学校→神奈川県立第一中学校→神奈川県立第一横浜中学校→ 神奈川県立横浜第一中学校 ⇒(1946年:磯子区六浦へ移転)⇒(新制)神奈川県立横浜第一高等学校 ⇒神奈川県立希望ヶ丘高等学校(1950年)→(1951年:保土ヶ谷区二俣川町へ移転)
[6] 藩校諸稽古所→集成館(1822年→文武館→小田原学校文武館→小田原講習所→六郡共立小田原中学校→神奈川県第二中学校(1900年)→神奈川県立第二中学校→神奈川県立小田原中学校 ⇒(新制)神奈川県立小田原高等学校 ⇒(小田原城内高等学校と統合・改編)神奈川県立小田原高等学校。
[7] 浅野総合中学校(1920年)→(新制)浅野学園高等学校→浅野高等学校→浅野中学校・高等学校
[8] 第一次世界大戦後の高等教育機関拡張政策で増設された官立高等工業学校の一つ。創立時は本科(修業年限3年)に機械工学科・応用化学科・電気化学科の3科を設置した(のちに建築学科・造船工学科・航空工学科・電気通信科を増設)。初代校長鈴木達治の自由主義と三無主義(無試験・無採点・無賞罰主義)が同校の教育方針とされた。太平洋戦争中に横浜工業専門学校(横浜工専)と改称た。学制改革で新制横浜国立大学の母体となった。卒業生によって同窓会「社団法人 横浜工業会」が組織されていたが,第二次大戦後の混乱で活動は途絶え,各学科単位・地域単位の同窓会(旧制・新制合同)のみとなっていた。2001年に「横浜国立大学工学部同窓会連合」が結成された。このほか,同大学工学部の後援会組織「財団法人 横浜工業会」が存在する(旧制同窓会の名称を継承したもの)。
[9] 高橋靗一(1924~2016)。青島生まれ。1949年東京大学第二工学部建築学科卒業, 逓信省営繕部設計課勤務(1949~56年),1956年武蔵工業大学教授(1956〜66年),1960年第一工房設立,1967年大阪芸術大学教授(1967〜95年)1996年大阪芸術大学名誉教授。代表作に 佐賀県立博物館,大阪芸術大学,東京都立大学南大沢キャンパス,全労済情報センター,パークドーム,群馬県立館林美術館など。くまもとアートポリス第2代コミッショナー。
[10] 東京は,1944年11月24日から1945年8月15日まで,106回の空襲を受けたが,特に1945年3月10日,4月13日,4月15日,5月24日未明,5月25日-26日の5回は大規模だった。中でも、死者数が10万人以上に及んだ3月10日の夜間空襲(下町空襲。ミーティングハウス二号。Operation MEETINGHOUSE) を「東京大空襲」と言う。この3月10日の空襲だけで,罹災者は100万人を超えた。当時は「東京大焼殺」と呼ばれた。
[11] 1939年佐賀県生まれ~。株式会社アルセッド建築研究所代表取締役。元公益社団法人日本建築士会連合会会長。芝浦工業大学名誉教授。佐賀県立佐賀西高等学校から東京大学工学部建築学科に進学、1963年卒業。1965年同大学大学院数物系研究科建築学専攻修士課程修了。1968年同大学院工学系研究科建築学専攻博士課程修了。工学博士。1963年,RAS建築研究同人に参加。1968年から芝浦工業大学講師。1970年にアルセッド建築研究所を設立。1982年に芝浦工業大学教授就任。2007年に東京建築士会会長。2012年から日本建築士会連合会会長就任(第10代)。
[12] 龍谷中学校・高等学校(佐賀市水ケ江3丁目)は、学校法人佐賀龍谷学園が運営する。「龍谷(竜谷)」という名を冠した最初の学校で,1878年佐賀県と真宗寺院の共同により,振風教校として願生寺内に開校された。仏典・漢籍・算術・物理・地理を教授する。1900年西肥仏教中学,1902年第五仏教中学と改称,1903年現在地に移転,1908年龍谷中学校と改称,1912年私立龍谷専修学院を併設する。地名のつかない唯一の龍谷中学・高校である。
[13] 1935年建設。鉄筋コンクリート造3階建。設計者は内田祥三。北寮,中寮及び明寮のほぼ同じ建物が平行に並んでいたが,明寮だけは長手方向が短かかった。1部屋は約24畳の板張りで,各部屋にはスチームヒーターが備えられていた。廊下を挟んで向かい合わせの2部屋を1セットとし,北側を居住スペース,南側を勉強部屋として使用した。当初は6人で1セットを使っていたが,1980年代以降は1部屋3人が基本となった。1990年代後半に学生自治会が女子の入寮を認め,女子寮生部屋が設置された。
[14] 1961年,徳島市生まれ。本名福地家宏。海上自衛隊の幹部自衛官でパイロットだった父・福地家興の転勤に伴い移住を繰り返した。1967年,父,家興が徳島沖での訓練中に殉職した事故はマスコミ各社で大きく取り上げられ,当時の新聞に子供時代の哀川の写真が載った。この事故について哀川本人は『ファミリーヒストリア』に出演した際に「父親のニュースを5歳ながら覚えていた」と語った。父の死後,母の実家鹿屋市で育った。路上パフォーマンス集団「劇男―一世風靡」に所属し,『前略,道の上より』で「一世風靡セピア」メンバーとしてレコードデビュー。1986年には『青の情景』でソロデビュー。
[15] 歌人。1983年佐賀県生まれ。早大中退。前田夕暮の『詩歌』同人(1913年~)。1923年から「ひのくに」を主宰。1966年死去。83歳。歌集に「勝鳥」「背振」「雪の言葉」など。
[16]ラザロ・ルドヴィコ・ザメンホフが,すべての人の第2言語としての国際補助語を目指して草案。ザメンホフは今日では異なる言語間でのコミュニケーションのためのほか,さまざまな分野で使われている。世界中に100万人程度存在すると推定されている。
[17] 「長崎の鐘」は,長崎医科大学助教授だった永井隆が書いた随筆のタイトルで,浦上天主堂の瓦礫の中から掘り出された鐘のことである。長崎への原爆投下(1945年8月9日)によって永井は妻を亡くし,自らも頭部に重傷を負い危篤状態に陥ったが一命を取り留め,爆爆心地に近い大学で被爆した時の状況と被爆者の救護活動を記録した。作品はGHQの検閲によりすぐには出版許可が下りなかったが,日本軍によるマニラ大虐殺の記録集である『マニラの悲劇』との合本とすることを条件に出版され(1949年1月),空前のベストセラーとなる。また,歌謡曲「長崎の鐘」(サトウハチロー作詞・古関裕而作曲)が発売され(同年7月),藤山一郎が唄って大ヒット,今日も歌われる。
[18] 1908年島根県松江市生まれ。飯石郡飯石村(雲南市三刀屋町)で育つ。県立松江中学校を経て,松江高等学校理科乙類入学・卒業(1928年),長崎医科大学に入学・放射線医学を専攻,卒業(1932年)。1933年短期軍医として満州事変に従軍。1934年研究室助手に復帰。1937年講師就任,日中戦争勃発まもなく軍医中尉として出征。帰国後助教授就任。被爆,「長崎の鐘」出版後,1951年,死去。高校を卒業する頃には唯物論者になっていたとされる。浦上天主堂で洗礼を受け,洗礼名を日本26聖人の1人であるパウロ三木に因んでパウロとした。
[19] ノンフィクション作家。『妻たちの二・二六事件』(1972年)『密約―外務省機密漏洩事件』(1974年)『暗い暦 二・二六事件以後と武藤章』(1975年)『あなたに似たひと 11人の女の履歴書』(1977)『烙印の女たち』(1977年)など。
[20] 1946年東京生れ~。俳優,劇作家,演出家。劇団ホモフィクタス主宰。本名,斎藤正彦。埼玉県立浦和高校卒業,東京大学理科Ⅲ類入学。東大全共闘のオーガナイザーとして活躍する傍ら,劇団駒場でアングラ演劇を展開。寺山修司と『地下演劇』誌を発行。1969年5月13日,東京大学教養学部900番教室で催された三島由紀夫との公開討論会『討論三島由紀夫vs東大全共闘―美と共同体と東大闘争』に,木村修,小阪修平らと共に全共闘側の一人として参加。
[21] 堤清二1927~2013。実業家,小説家,詩人。日本芸術院会員。ペンネーム辻井 喬。経済学博士(中央大学,1996年)。西部流通グループ,セゾングループ代表など歴任。異母弟は元西武鉄道会長の堤義明。東京大学経済学部入学直後,日本共産党入党。国際派の東大細胞に属し,党中央から除名された。
[22] 日本の学生自治会の連合組織全学連(全日本学生自治会総連合)は,1948年に145大学の学生自治会で結成された。設立以降,初期の全学連は日本共産党の影響が大きかった。
日本共産党が,1950年1月にコミンフォルム(共産党国際情報局)の日本の共産主義運動についての評価(「日本の情勢について」)を巡って分裂する。すなわち,日本共産党(野坂参三政治局員)が,日本占領軍GHQを解放軍と規定し,占領体制下による平和革命,二段階革命を展望することをコミンフォルムが批判したのに対して,それに反論(「“日本の情勢について”に関する所感」)した「所感派」とその批判を容認する「国際派」に分裂する。
「所感派」と呼ばれるのは党内派閥の主流派であった徳田球一,野坂参三,志田重雄,伊藤律らであり,親中派であった。当初からコミンフォルによる批判を受入れることを主張したのが「国際派」で,宮本顕治,志賀義雄らであり,全学連には「国際派」の影響が大きかった。コミンフォルムの日本共産党批判は,朝鮮半島情勢に対するソ連(スターリン)の意向が大きく投影されたものであったが,中国共産党による批判を重ねて受けたことから,結局,主流派もその批判を受入れることになる。
1950年6月,朝鮮戦争が勃発する。その直前,5月3日にマッカーサーが日本共産党の非合法化を示唆すると,5月30日に皇居前広場で日本共産党指揮下の大衆と占領軍が衝突する(人民広場事件)。その結果,マッカーサーは,日本共産党中央委員24人,及び機関紙『赤旗』幹部の公職追放を決定する。そして,レッドパージ(共産党同調者の公職追放)が行われる。
そして,徳田・野坂ら「所感派」は,国内での指導を放棄し,所感派だけで中華人民共和国事実上亡命する。そして,北京に日本共産党指導部(北京機関)を設置する。翌1951年に開催された日本共産党第5回全国協議会(五全協)では,徳田らが起草した「日本共産党の当面の要求」(51年綱領)がそのまま採択され,日本共産党は戦後の米軍に対する解放軍規定・占領下日本における平和革命論を放棄して,「51年綱領」の「軍事方針」に従って,武装闘争路線を採ることになる。「山村工作隊」「中核自衛隊」などの武装組織が建設され,派出書襲撃,火炎瓶闘争など数々のテロ行為を行った。これに対し,吉田内閣は,1952年7月4日,破壊活動防止法を制定する。共産党は暴力革命路線で世論の支持を失い,10月1日の衆議院選挙で全員が落選した。
[23] 1926~。新聞記者,経営者。読売新聞グループ代表取締役など歴任。開成中学校,旧制東京高等学校卒業,1945年東京帝国大学文学部哲学科入学。日本共産党入党,1947年12月,離党。
[24] 1927年横浜生まれ~2010。文芸評論家。東京大学文学部西洋史学科中退。在学中の1948年に全日本学生自治会総連合(全学連)結成に参画,初代委員長に就任。1950年の日本共産党の分裂の際,除名。
[25] 田尻光代。1931年東京生まれ~。早稲田大学露文科中退。編集者として働くかたわら小説を発表。『魔笛』|で 第43回芥川賞(昭和35年/1960年上期)候補。『落鳥』|で 第56回芥川賞(昭和41年/1966年下期)候補。『魔笛』(1961)には,「魔笛」の他,「帰省」「むかしの仲間」が収録されている。
[26] 『魔笛』について,文芸評論家の平野謙は「今日50年問題とよばれている日本共産党の分派闘争は,大小の波紋を周囲に投げかけ,その決着はまだ十分につきつめられていない。当時の学生運動もこの大問題にゆさぶられ,傷つき斃れた青年も生じた。古賀珠子はひとりの女子学生の視点をとおして,この困難な課題に取組んだ。無論,彼女は十分に成功していない。しかし,倉橋由美子や草部和子に前駆した政治的情念は,ここに産みの苦しみを定着している。」と評した。
[27] 出 隆1892年岡山県苫田郡津山町(現津山市)生まれ~1980。哲学者。第六高等学校,東京帝国大学,大学院,副手。1920年日本大学および法政大学教授,1921年東洋大学教授。1924年東京帝国大学助教授,1937年,文学博士,1935年教授昇任。1948年に日本共産党に入党,1951年に東大を辞職して東京都知事選挙に無所属で出馬し落選。1956年から日本哲学会委員長を1期務める。1964年日本共産党を除名。門下生に東京大学名誉教授今道友信,一橋大学名誉教授岩崎充胤,読売新聞グループ本社代表取締役会長渡邊恒雄らがいる。
[28] 兵庫県相生市出身。東京専門学校(早稲田大学前身)入学。1914年,早稲田大学教授(政治学)。1917年朝日新聞入社。1921年早稲田大学教授に復帰。労働農民党委員長。1930年総選挙当選(新労農党)。2年後にアメリカに亡命。1947年帰国。1950年参議院当選。参院議員在職中の1955年に硬膜下血腫のため死去。
[29] 1929年創刊の世界最大級の自動車業界誌。 日本国内外の自動車業界動向を取り扱う。東京本社を中心に札幌から福岡まで全国7支社・12支局をネットワーク。主に朝日新聞(一部地域は中日新聞,中国新聞)から朝刊配達体制をとっている。
1929年2月 日本最初の自動車専門紙として「日刊自動車新聞」を創刊。1932年4月 日本初の自動車展を東京・日比谷公園で開催。以降,戦時中の中断を除き毎年開催。1954年に自動車工業4団体にその開催を譲り,現在も日本自動車工業会により「東京モーターショー」として継続されている。1956年10月「自動車と服装のファッションショー」を東京・宝塚劇場で開催。1957年6月 オーナードライバーを対象とした日曜版を創刊。7月 海外向け自動車専門英字紙「ジャパンオートモティブニューズ」を創刊,世界138カ国に配布。1959年5月 オーナードライバー団体「日本モータリストクラブ」(JMC)を結成し,ラリーなど各種行事を展開。1960年5月 片瀬江ノ島で第1回「外車ショー」を開催
[30]【『建築文化』歴代編集長】・1946年4月〜1946年5月(1〜2号)|田辺泰・服部勝吉・1946年6月〜1953年4月(3〜77号)|井上精二・1953年5月~1968年3or4月(78〜257or8号)|金春国雄・1968年4or5月〜1970年8or9月(257or8〜286or7号)|山本泰四郎・1970年9月or10月~77年3月(287or8〜365号)|田尻裕彦・1977年4月〜1979年2月(366〜388号)|細田隆志・1979年3月〜1980年4月(389〜402号)|都崎覚明・1980年5月〜1983年2月(403〜436号)|中山重捷・1983年3月〜1988年12月(437〜506号)|田尻裕彦・1989年1月~1993年12月(507〜566号)|亀谷信男:編集人田尻裕彦・1994年1月〜1994年3月(567〜569号)|亀谷信男:編集人後藤武・1994年4月〜2000年3月(570〜641号)|富重隆昭:編集人後藤武・2000年4月〜2001年4月(642〜652号)|後藤武 ※2000年12月(650号)まで月刊,2001年2月(651号)から隔月刊・2001年6月〜2004年2月(653〜669号)|編集・発行人後藤武・2004年4月〜2004年10月(670〜673号)|内野正樹:編集人三宅恒太郎・2004年12月(674号)|三宅恒太郎(発行人:後藤武)
[31] 野崎正之1943富山生れ~2007。1967年専修大学法学部法律学科卒業。彰国社入社。68年書籍部。1972年4月~1988年9月『建築文化』編集部,1988年10月~2001年3月『建築の技術 施工』編集長。2003年彰国社退社。
[32]〈柩欠季〉のための覚え書,TAU01,商店建築,197301/虚構・劇・都市,TAU03,商店建築,197303/ ベルリン・広場・モンタージュ,TAU04,商店建築,197304(布野修司建築論集Ⅱ収録)
[33] 祭師たちの都市戦略,劇場街〈渋谷〉批判,同時代演劇1,マルス,197306(布野修司建築論集Ⅱ収録)/実験劇場と観客への回路,イタリア式の閉ざされた箱とエンプティスペース,芸術倶楽部,フィルムアート社,197309(布野修司建築論集Ⅱ収録)/燃え上がる都市,未来派の反乱,同時代演劇2,マルス,197309. (布野修司建築論集Ⅱ収録)
[34] 螺旋工房クロニクル:建築家のいる風景,そこには依然として富士山が似合うのか197801/ミニ開発戦線,建築文化の現在197802/芸術とコンテスタシオン197804/白井晟一研究のためのノート197806/メディアとしての建築197807/地域主義の行方,中間技術と建築197808/版画ーその直接性と変革の契機197809/自立メディア幻想の彼方へ197809/劇場あるいは劇的場なるものをめぐって197810/「方法としての「戦後建築」・・・80年代の建築が語り出される前に・・・」1979 01/空間の貧困ー喫茶店文化考197902/東京ー亜細亜の大都197904/天幕・広場・アジール197906/制度と道具ーイヴァン・イリッチの仕事ー1979 07/美術の秋197910/ロスト・アイデンティティの世界:建築1979197912
[35],KB Freeway:建築における一九三〇年代198001/テクノクラシーと自主管理ーTQCとAT198005/建築:1930年代のプロブレマティーク198012/うさぎ小屋の世界,ハウジング計画論のためのフットノート198101/ How? 一原有徳198104/象徴交換とシミュレーションの時代,ボードリヤールの転換198112/ [02] セルフヘルプ・ハウジングの限界!? 第三世界の実験と現実198201/JFC. TurnerのStarter Kitsとハウジング・ネットワーク,建築文化,彰国社,198209/ある予感,実務の思想と科学技術博,建築文化,彰国社,198301/幻の「戦後建築論争」,建築文化,彰国社,198307/ポスト・モダニズム建築批判の不遜198312
[36] 布野修司 伊東豊雄はどこへ行く 『建築討論』11号 By 布野修司 | 2017/02/14 | Featured, 011号:2017年春(1月-3月)『伊東豊雄はどこへく?』http://touron.aij.or.jp/2017/02/3548
[37] 田尻裕彦 「布野修司 「伊東豊雄はどこへいく?」を読んで」『建築討論』12号| 2017/04/14 | Featured, 012号:2017年夏(4月-6月),http://touron.aij.or.jp/?p=3824&preview=1&_ppp=8358a0415f
[38] 2022年,芸術院会員となる。
川床優・中谷正人・布野修司+岸佑・香月真大 昭島 川床優邸 2021年7月15日
記録:佐藤敏宏
川床優・中谷正人・布野修司+岸佑・香月真大 昭島 川床優邸 2021年7月15日
記録:佐藤敏宏
https://drive.google.com/file/d/12tGLxZbTlmwqIDT-pYTr-DIQtbeKMu-7/view?usp=drive_link
流主水すなわちル・モンドは,川床優,中谷正人,布野修司,そして故野崎正之が用いた共同ペンネームである。
1979年の1年間,『新建築』誌の「月評」を担当した。「月評」というのは現在も続くが,『新建築』だけではなく,当時刊行されていた建築関係月刊誌を網羅して,前月号に掲載された作品や論考などの記事を論評する欄である。名だたる建築家,批評家が掲載作品を歯に衣着せずに論評する欄として人気があった。当時,『新建築』編集部にいた中谷正人が評者にこと欠いたのか,あるいは覆面への興味を掻き立てようと思ったのか,ペンネーム3人の起用を思い立った。谺炎造,矢田洋と決まったけれど,あと一人足りない。そこで流主水という3人目をつくることにした。
流石に一人じゃまずいということで,3人に声をかけた。『建築文化』編集部の野崎正之,『ジャパン・インテリア』編集部の川床優,そして東大から東洋大に移ったばかりの布野修司である。こうして明かさなければ,知られずに済んだかもしれない。谺炎造(こだまえんぞう)は神戸大学の向井正也先生,矢田洋(やだよう)は道具学の山口昌伴さんである。
布野:今日は,流主水の頃ということで,昔話をしようということなんだけど,まあ,40年振りの飲み会かな。平良敬一さんが亡くなって,いよいよ何かが終わった感じがある。平良さんに,遺言のように言われたことがあった。それと最近若い人たちが平良敬一論とか,宮内嘉久論とかを書くのに触発されて,若い連中と何かできないかと相談し始めたんだけど,なかなか動かない。それで,とにかく初めたのがインタビュー・シリーズで,田尻裕彦さんに2回,この間は神子忠久さんにA-Forumで話を聞いた。今日は第三弾ということかな。若者代表として岸佑くんを連れてきた。

岸:僕は国際基督教大学ICUで歴史を勉強したんです。美術史に関心があって,日本の美術を調べていたアメリカ人の先生についたんです。
布野:何という先生?
岸:リチャード・ウイルソン。
布野:まだ居るの。
岸:もう定年になりました。リチャード・ウイルソン先生は陶芸が専門なんです。何でも教えるんですが,建築のコマ数はそんなに無かったんです。東工大に居たデビット・スチアートが何回か話に来て,坂本一成,篠原一男について英語で教えてくれたんです。で面白いと思って,建築のことを調べようと思ったんです。歴史にそもそも関心はあったんで,建築物というよりも,建築家あるいは建築が,日本の文化とか社会にどう影響して来たのかっという関心だったんですね。なので,アイデンティティとか,そういう横文字を使いながら,日本の建築学とか建築史というものよりも,建築が社会の中でどういうふうに存在し得たのか,それで帝冠様式とか,岸田日出刀に興味をもったんです。
布野:ウイルソン先生は,日本の戦中とか戦後に興味があったわけでしょう?
岸:そうです。明治のことはそんなに興味が無かった。僕は大学に1999年に入ったんですが,2000年前半は,1930年代,40年代というのが何となく歴史になりつつある時期だったんです。なんとなくイデオロギー的な解釈からも距離が取り始められたし,かといって全部をイデオロギー解釈だと切り捨てる訳でもない,という議論がちょっと何か面白いなーと思ったんですね。それで,建物はあんまりつくって無さそうな,建築史に出て来る人で,岸田日出刀という人に興味を持ったんですね。
布野:なんで岸田日出刀だったの?
岸:コンペの審査員ずーとやっていた。
布野:確かに,東京オリンピックもそうだしね。
岸:彼が選ぶ建築家,彼がイニシアティブをとって日本の建築デザインをどの方向に持っていこうとしたのか,何でその方向に行こうとしたのか,もっと言えばそれが現在までどう影響しているのか,あるいはしてないのか,ということに最初は関心がありました。
布野:結論はどうなの? 僕は吉武泰水研究室の出身だから,言って見れば孫弟子なんだよね。岸田さんは吉武先生の先生だったわけ。研究室には岸田さん関連のいろんなものがまだ残っていたけど直接は知らない。ただ,いろいろ読んだよ。岸田日出刀の伊東忠太論とかね。ただ,吉武先生から岸田さんについて聞いたことはない。磯崎さんは同郷だったのかな,随分呼び出されたらしいよね。まあ,講座制ということじゃないから,岸田さんが吉武さんを起用したわけじゃないと思う。吉武さんは丹下さんに比べれば学者肌で,当時でいえば計画原論,丹下さんは建築経済論を書いているんだけど,国家の仕事全体に関心があった。岸田さんは,丹下さんを使っていたわけだよね。
岸:おそらくですけど,彼は,翻訳とローカライゼーションを同時に実現しようとした。つまり近代建築をそのまま輸入してくると同時にそれを日本に定着実現するということを考えていた。
布野:オットーワグナー論でしょう,彼の学位論文は。
岸:そうです。ただ自分ではそれをやろうとしなかった。周りの人を使いながら,ローカライズをしていこうとしたというのがポイントで,権力的に振舞わざるを得なかった。
布野:なるほどね。前川國男は,近代建築をそのまま輸入しようとしただけだけど,岸田は同時にローカライズ,日本化しようとしたわけだ。それは主に戦後?戦中含めて?
岸:戦中含めて,一度挫折してるんですよね,やろうとして。
布野:僕が知っているのは,1920年に分離派(日本分離派建築会)が出来て,その後,山口文象さんの創宇社など小会派がいろいろ出て来るんだけど,東大はラトー(裸闘)と言った,裸で闘う。裸闘というグループを作った張本人でしょう,岸田日出刀って。早稲田はメテオール(隕石)だった。今井兼次さんなんかですね。新興建築家連盟が設立即解体するのが1930年,教授たちからプレッシャーがあって,即手を引いた。その事を挫折っていうわけ?
岸:いや,その後ですね。
布野:その後も挫折があるの。
岸:昭和12年から15年の1940年のオリンピックの時ですね。
布野:おもしろそうだね。丁度東京オリンピック2020が始まることだし。
川床:茶々入れると,同じような事が僕らの世代にもあったんですよ。というのは,コンペの審査員長とか,審査員になると応募できないでしょう。審査員ばかり頼まれちゃうと設計できないよね。だから弟子筋を選ぶ。なぜ断らないかというと,その時代のイデオローグになるということなんだ。審査委員長になるということは。現代建築の潮流をつくっていく,それに関わる立場になる。
学生も,先生が何人か居て,仕事を初めてやるようになって,段々力をつけて,どっかの教職についたり,要するに階級移動してくわけですよ,歳とともにね。大学の教授とか,学会長とか,だんだん勲章付けて階級移動していくパターンが一つある。岸田さんはそういうのを吹っ飛ばしてしまって,まだヨチヨチの日本の現代建築を,後藤新平とかじゃないけど,しっかりと根付かせたかった。和洋折衷であれ,なんであれ,日本の建築イデオロギーをね,ちゃんと仕立てたい,というそういう意識があったんじゃないの。
布野:岸君の学位論文をちゃんと読まなきゃいけないね。
岸:学位論文はあんまり巧くいかなかったんですよ。岸田日出刀の戦争中のこと,そのポイントを知りたかったんですが。
布野:あんまり分らないかもね。
岸:いろいろ聞いても分らなかった。資料が出て来ないんです。なので,あんまり好い論文じゃなかったんです。日中戦争が始まった後から敗戦までのあの7年間に何をしようとしてたのか,そのままそっくり戦後に60年代ぐらいまでつながるんじゃないか,というのが仮説だったんです。何もできない状態になって,実質空白の期間が3,4年ぐらい続いて,占領期を含めて10年ぐらい空白がある。38年から58年ぐらいまでの20年のうちの10年です。そうすると,「東京オリンピック1964」ぐらいまでスライドして来る。
布野:我々が理解しているのは,佐野利器のあと内田祥三がボス教授となる。東京帝国大学の学長となって,学徒出陣の演説をぶつことになる。その内田祥三が全て割り振ったと言われてる。高山英華さんにじかに聞いたけど,お前は都市計画やんなさいと言われた。高山先生は帝大サッカー部で,オリンピックがあったら出てたんだよね。岸田さんは,伊東忠太についていたんだよね。
吉武さんについてはいろいろ聞く機会があったんだけど,彼は命令されて,飛行場の計画とか,毒ガスの研究とかするんですよね。さっき言った計画原論という世界で,煙草の煙を模型の箱に入れて,空気の流れを調べた。戦時研究と言ったんだけど,みんなそういうのはやらされてるわけ。たぶん,岸田さんは命令していたと思うんだけどね。
僕が岸田先生について知っているのは,書かれたもので,今のNTTファシリティーかな,逓信省営繕にいた小原英雄さんだったかな,『戦後建築論ノート』に書いたけど,敗戦後,ガラッと変わったと言うわけ,岸田日出刀は。黒板に,Democracy!と書いて,これからはデモクラシーだと言ったんだそうだ。宮内嘉久さんも,教授の変貌についてはどこかに書いている。嘉久さんは,反動教授の例みたいに思ってたというけどあんまり追求してないかな。オットーワグナーは読んだと思うけどね。学位論文は,岸君が言うように,横文字を縦にしたみたいな論文だと,言っていたかな。
岸田日出刀は,学位論文のあともたくさん本を書きますよね。『伊東忠太』っていうのを一冊だしている。伊東忠太は文化勲章もらうんですね,戦時中,昭和18年に。建築分野で初めて文化勲章です。それで,昭和天皇に御進講なんかしている。水戸藩の藩士が当時の東埔寨,アンコールワットへ行って,祇園精舎だと思って図面を描いて来た。それは違うという御進講なんですね。
伊東忠太は建築史の世界では,いい加減だということになっている,関野貞の方が実証的だということになっているけど,読むと,伊東忠太が圧倒的に面白い。日本の建築はこういう方向でいくべきだという指針を示してる。文化勲章をもらった伊東に,岸田日出刀は明らかに胡麻摺っているような感じなんですが,定年で最後の教室にやってきた伊東忠太に聞き書きして一冊書いているんです。相模書房だったかな。
岸:そうです。相模書房
布野:先日の神子さんの話では ,相模書房と岸田さんが親密な関係だったことがわかった。
岸:岸田日出刀の方がたぶんつくったみたいな。
布野:相模書房は1936(昭和11)年創業で,箱根強羅の環翠楼のオーナーの鈴木二六で,初代社長は小林美一,編集は引頭百合太郎がやったんだけど,引頭が岸田と懇意だったんだそうだよ。
岸:本が出ていることは知ってましたが,環翠楼内に本館とは別に離れ4棟をつくった。岸田に私淑した郭茂林が設計したんだそうですね。
布野:郭茂林は霞が関ビルの設計にも関わるんだけど,吉武泰水研究室で51Cの図面
も引いてるんだよね。1970年代半ばに「同時代建築研究会」というのを始めるんだけど,当時,1920年代と1960年代を重ね,1930年代と1970年代を重ねる見方があった。建築界でそれを仕掛けたのは磯崎さん(『建築における1930年代』)で,「同時代建築研究会」も『悲喜劇 1930年代の建築と文化』(1981年)を出すんだけれど,一般にも,ふたたび戦争に向かう前夜みたいな言説が出てきていた。
当時,山口文象さんとか,高山英華先生とか,戦時中の話は結構聞いたんです。坂倉さんが酷かった,「皇(すめら)の会」を組織してあっちの方へ行ってたとか,丹下さんもその時はおかしくなっていた,とかね。坂倉事務所にいた西澤文隆さんもフィリピンに文化工作に行くんです。その頃,岸田さんがどうだったかという話は聞かなかった。高山さんはNAUの初代委員長でしょう。丹下さんも池辺さんもNAUに参加している。ある種の黒幕的存在になっていったのかもね。これ磯崎さんに聞けばいいと思う。かなり知っている
川床:戦中の資料が無いということでここまで来たんだけど,例えば,終戦の時に高校を出たばっかりとかだとどうなの。皇国少年だったんだけれど,私はある日突然に・・になりましたと言わなきゃいけない。画家で言えば藤田嗣治,いろんな人が巻き込まれて,いろんな事するわけですよ。
布野:芦原義信さんのおじさんですね。彼は,戦争画を描く。従軍画家をかなり上の方で組織したんだよね。
川床:戦中の事を調べる事によって,どれだけ意味があるかなーと何時も思うんですよ。吉本みたいに簡単に言っちゃえばね,俺もしょうがなかったんだよ,馬鹿だからってさーって言っちゃえば終わり。だけど,そう簡単な問題じゃなくってね。建築だけじゃなくって,いろんな人が戦中を経験したわけでしょう。戦後なんですよね,俺たちね。
布野:オヤジさんは違ったでしょう。
川床:僕の親父はシンガポールまでいった。だけどその後,戦後という概念で言うと,反戦後。反(戦後),これは三島(由紀夫)ですよね。で,布野さんは反戦後なの。
布野:反戦後,反・戦後ね。戦後派だよ。戦後の初心に拘る。反戦の後?反省の後か?
川床:敗戦からだって70年以上経ってるから,そこで大きく分かれているわけ。俺なんかただの洟垂れ小僧だからね。結構,日本人の意識に,そういう流れが大きくあると思うんだよ。だけどそれを,戦中まで辿ろうとするとね,そう簡単には言えないって言うかなー。
中谷:微妙な問題もありそうな気がするよね。要するにさ,ときの権力にしようがなく従っちゃて生き延びて,なくなった途端に実はこうだったみたいなこと,たくさんある訳じゃない。
布野:上野千鶴子たちが集まって,東京オリンピック2020には反対だ,今表明しなければ,戦時体制下で何も言わなかったことと同じことになると言ったでしょう。説明なくオリンピックに突き進むのは,戦争に突き進んでいった戦前と構造だと。
中谷:岸田が何やったかは分らないんだけどね,丹下さんの在バンコク日本館なんかは岸田さんの力がだいぶあったんじゃないかという気がするんだよね。
布野:大東亜建設記念造営計画のコンペは岸田日出刀が審査委員長だった。丹下健三案を選んだということは,プロデュースをしたことになる。だから,戦前戦中一貫して丹下を連続的にプロデュースしたのは岸田さんということになる。
川床:布野のお嬢さんが書いた論文があるんですよ,晶子さんの。あれ読んでね,凄い面白いんですよ。

布野:谷尾(布野)晶子の『記憶と沈黙 日本のアーティストは日本の近い過去にどう応答したのか?Memory and Silence in Japan How do Japanese artists respond to Japanese recent past?』というロンドン大のゴールドスミス・カレッジの美術史修士論文。川床さんに送ったんだけど,ちゃんとよんでくれたんだ。もうじき『都市美』2号がでそうで,その下が辛うじて乗る筈。そんなに長くないんだけど,紙面の都合で上下2回に編集部が分けたんだ。
川床:ポイントだけ言うと,彼女はポストメモリーという概念を使うんだよね。
布野:僕も新鮮だった。訳す気になったのは,ポストメモリーという概念を知ったからといっていい。ホロコーストの記憶をめぐってマリアンヌ・ヒルシュMarianne Hirsch が言い出したらしい。ポストメモリーとは,実際には「●●」を体験していない人が,さまざまな媒体を通して「●●」を「追体験」することで,その記憶を自らのものとして獲得し,内面化してゆくことによって生成する記憶をいうというのが定義なんだけどね。
川床:だけど,日本の場合,ポストメモリーの行為は制限されているというわけでしょう。日本人の戦争の記憶は,われわれの眼を罪悪感から逸らす様々なやり方で沈黙化されている。フーコーを引いて,「何も言わないで沈黙を強いる無言の実例」 と言ってる。
布野:南京大虐殺や慰安婦などの残虐行為を否定する歴史教科書の問題とか,天皇の戦争責任の問題とか,そんなこと議論したそれこそ記憶はないんだけど,いつのまにこんな問題意識を持ったんだろうと思った。
川床:僕に言わせるとね,共同幻想論の問題なんですよ。美術家がどういうふうに,知識とか情報を自分の中に取り込んでいるのか,その中に本当の自分のオリジナル思考はあるの?と言うような事を彼女は切っちゃっているかな。
布野:切っちゃってるというより,ヒロシマ・ナガサキをテーマにする殿敷侃 とか,長崎で原爆に被爆した柿の木の種を苗木に育て,展覧会場などで配り,世界中の子供たちと植えていく「『時の蘇生』柿の木プロジェクト」を展開している宮島達夫 ,戦争の痕跡をフロッタージュする岡部昌生 とか,彼は,広島の原爆跡地を作品化するんだけど,パリのユダヤ人街で拉致の史実を刻む銘板を擦りとった作品を制作しているけど,評価してると思う。
原爆投下後の長崎を採った東松照明 ,有名な村上隆にも,原爆を扱う作品がある,大東亜共栄圏を問う柳幸典 ,戦争画Returnsという会田誠 などポストメモリアル・アートとして東松照明,村上隆は知っているけど,知らなかったから非常に興味をもった。戦争画の問題,藤田嗣治については問い詰めてるけどね。
川床:とにかくすごいヒントをもらったわけ。それで面白くなって,柳田國男をもう一回読み直したりしたんですよ。いろんな問題がちょっと見えてきたことがある。お上が言っているから,しょうがねーなーという,日本的構造ってさー,2000年ぐらい植えつけられて,これがいまだに続いているところあるでしょう。
いい悪いは別として,この島国の独特の構造だと思いますよ。罰が当たるとかね,昔からそうなんだからとか,お上が言っているからみたいな,それは要するに共同幻想ですよ。共同幻想のつくり方みたいな事を,晶子さんは,美術の方からばさっと切った。これは凄く面白かったですね。そうすると,さっきイデオローグとか,階級移動の話にしても,自分でその場で転向したとかじゃなくって。何割かは分らないけど,冷静な思考を始める前に入っちゃっているということがあって,もそれを動員するんだよね。
布野:あのね,2000年というのは,基本的には近代にでっち上げられるんだよね。B.アンダーソンは「想像の共同体」というんだけど,吉本の共同幻想も基本的同じだと思う。古来,連綿と続いてきたように想像するんだよね,ナショナリズムというのは。
中谷:ちょっとついて行けてないけど。
布野:僕の娘の話は突然出て来たんだけど,2018年の12月に間質性肺炎で死んだんですよ。コロナに感染して死ぬ場合,血液中酸素濃度が90をきると危ないんだけど,最後は70台に下がったかな。それで,葬式が終わって,彼女の修論を読んだ,初めて。もらっていてパラパラとは見てたけど,英文だしね,従軍慰安婦をテーマにした従軍慰安婦を扱う嶋田美子 の作品なんかコンドームを棚に吊るしたような作品で,変な作品扱ってるなあ,という程度の印象だった。でもなんか気になって,死んだ直後に本気で読みだしたんだけど面白い。直ぐ翻訳して,年末には悔やんでもらった人たちに配った。その時に,山本理顕さんにも送ったんだよね。そしたら,理顕さんが学長になった名古屋造形大で『都市美』という雑誌を出すんだけど,それに載せたいという。
2019年8月に創刊号が出て,出版記念会には僕も名古屋に行ったんだ。ただ,娘の論文は長いので,前編,後編に分けることになった。それがなかなか出ない。2号が出るはずで,2号には僕の原稿も書いたんだけど,トラブルがあって,いまだに出てない。
中谷:一号で潰れた?
布野:僕は,その創刊記念パーティで快挙だって言ったんですよ。滋賀県立大学で副学長していた時に,大学出版を考えたことがあるんだけど,難しいことがいろいろある,それを突破したのはすごいと褒めた。しかし,今は,理事長が難色を示しだしたらしい。創刊号は,左右社から出したんだけど,結構建築の本も出している。長谷川逸子の本とかね。社長は昔,太田出版で『デザインの現場』を出していた時に,僕は3回ぐらい書いたことがある編集者だったから知っている。しかし,大学がお金を出さないとなると厳しいという。でも,河出書房新社から出すことになった。2号目は近々出る予定で,彼女の修論も陽の目をみるはずなんだけども。川床さんには『漱石のデザイン論』送ってもらった時に送ったのかなあ。忘れたたんだけど,ちゃんと読んでくれてたんで,ちょっとびっくりした次第。
川床:我田引水的に共同幻想論ということで理解しようとしてきたんだけど,ポストメモリーと言われたらね,これは全然違う共同幻想にずれると分ったわけ。うまいこと言ったなーと思ってさ。それでやめた,先祖のはなしとか戦争の話とかね。
布野:ポストメモリー論,翻訳する時に少し調べたんだけど,ヨーロッパではナチの問題,ユダヤ人の問題はシビアなんだよね。日本の天皇を許せないというのは,連合国側から見たら絶対許せないって話になるんだけど,原爆の全体的不当性について沈黙させられてしまっちゃった。アメリカの占領政策が最も成功した属国が日本ということになってる。横道それたけど・・・なかなか好い出だしだね。
川床:なんでこういうことを言い出したかというと,高校2年の終わりぐらいのときに共同幻想論が出たんですよ。吉本を通じて,なんで柳田國男なんて田舎臭セー話してんだろうと思いながら読んでいたら,何回目か読んだときにね,ちょっと分って来たというかな。何が分ったかと言うと,吉本って何をやってのかなーということだけど,貴方ならどう考えるかっということを問うていると思った。人の受け売りなら幾らでも僕みたいに出来るんだけど。じゃー君はどう考えるの,ってね。それが無い,日本のDNAに育ってなかった,というか,ゼロということなんだ。近代に「日本」がつくられたって布野さんは言うけどね。
布野:今日持ってきたけど,川床はなんで『漱石のデザイン論』を書こうと思ったの?
川床:なんで漱石を書こうと思ったかというのも同じなんですよ。漱石にね,自己本位論というのがあるんですよ。これもね,共同幻想論の先取りというかね,何に言いてんだーだと思ったら,元々もちろんマルクスですけどね,そういう流れで読んだもの,ほとんど受け売りで生きて来た,という思いがあった。
布野:自立の思想かな。共同幻想というより。
川床:そんだけなの。たまたま晶子さんのね,ちょっと読んだら,美術について書いてるんだけど,ほとんど本質的な切り口だなーと思った。ポストメモリー,これ使える~みたいなね。
布野:それで僕ねー,美術評論の椹木野衣の本全部買って積んであるんだけど,読む暇がない。高島直之に聞いたら,よく知っていて彼は『美術手帳』の編集部にいたんだそうだ。高島は今武蔵野美術大学に居るんだよね。元『読書新聞』編集長。知ってるでしょう。彼女が修論書いたのは2003年ぐらいかな。その時の状況まで遡ろうと思ったけど時間とれない。そしたらね,理顕さんは,お前は別のやつ書けって言うから,ちょうど『スラバヤーコスモスとしてのカンポンー』というのをまとめていて,カンポンという都市村落(アーバン・ヴィレッジ)をめぐって書いた。
タイトルは「ポストメモリーとしての「大東亜共栄圏」―隣組と町内会」2号には,僕の原稿もあるんだけどなかなか出ない。最近,理顕さんから電話があって,出ますとは言ってました。河出書房新社から。3号以降もやると言うから,布野も編集に入ってと言われた。学長も結構大変なんですよ。
僕も,管理職(副学長)やったんだけど,文科省の,特に安倍内閣以降の保守派の締め付けつけは酷いよ。選択と集中といって,研究費もろくにない。学術会議問題とかね。学術会議も一方で問題はあるけどね。若い先生は大変なんだよね。岸君も今,専任でないから大変だよね。
岸:仕事ください。
布野:『都市美』の話は今日の集まりにも関係あって,メディアをどうにかしたいという,中谷さんだって,Facebookでずーっと連載したやつをどうやって本にするの。「建築一期一会」だっけ?
中谷:語呂合わせ。字は「一語一絵」。一枚の写真にひとくさりつける。100回続けた。
布野:Facebookもいずれ消えるじゃない。紙媒体としてだせば,何部でも,国会図書館に入る。電子媒体でもね。僕が出す本は,研究公開促進助成(出版助成)って言うんだけど,学術振興会(文科省)の助成金を獲ると,200万円とか300万円,出版社は出してくれるんです。分厚い本で,1000部,5000円から8000円の学術書。軽いというか,2~3時間もあれば読めちゃう本,それで出た瞬間に何十万部という世界はある。読んでいるのかどうかわからないけど,手短に情報が欲しいのかなあ。SNSでは足りない。なんかいるんじゃないかという気がしてるんだけど,若い人は乗らない。
岸君なんかと半年話してみたんだけど,自分たちでなんかやろうという雰囲気はないんだよね。アクティブな人はどんどん発信する,できちゃう。だけど,一緒になんかやろうという動きがない。ディジタル・ファブリケーションを展開して盛んに発信しているVUILDの秋吉浩気くんは,いろんな方面から注目されている。
全く知らなかったんだけど,『建築雑誌』で会う機会があって,年商15億円とかいうんでびっくりしたんだけど,『群居』についてしゃべった。アーキテクトビルダーということを考えていた集団があったよということなんだけど,そしたら,「いま,「建てる」とは──新しい建築の運動体をつくる 秋吉浩気×佐藤研吾×市川紘司×辻琢磨 現代の群居を考えるというトーク・イベントをやったんだけど,その後が続かない。
ひとつは,さっきも言ったけど大学の教員は全然余裕がない。メディアをもつ,つくるというのは何かを訴えたいからなんだけど,それもないのかな。みんな防御なんだよね。今はオンラインZOOMでもやらないといけない。僕なんかもGoogle Classroomなんか使うんだから大したことないんだけどね。30人ぐらいの大学院授業だけどね。
中谷:えらい。
岸:……始めますか。
布野:はいはい,始めましょう。
布野:二人は凄い人脈を持っているんだよね。これまで,編集者として,仕掛け人としていろいろやってきたから。略歴書いてと言ったら,すごい詳しいのをもらった。
中谷さん,まず自己紹介兼これまでのやってきたことを振り返ってもらえますか?
中谷:考えたらね,俺がやろうと思ってやったこと,ひとつもないような気がする。
布野:そうなの?
中谷:状況で,あれやれこれやれで,結局やることになった。
布野:そう言えば僕だってそうだ。
中谷:だからリスト作ってみて,えーこんだけやってたのーみたいなことがある。僕がやったのは,せいぜい地方を掘り起こしたことかなあ。土佐派の家とかだね。
https://drive.google.com/file/d/1IgLwuLbhtoZE0zrakTX-vDaMm7QFoR-o/view?usp=drive_link
布野:流主水の頃というのは, 1979年だから、中谷さんの仕事の最初の5行目ぐらいの時に3人出会って1年間呑んでいたということなんだ。
中谷:元々さー。流主水の仕掛けは野崎だよね。野崎がね,凄い事書く奴いるぜって言うので布野を紹介してくれた。で,たまたまあん時ね,月評の欄が,谺炎造と矢田洋が決まってた。
布野:谺炎造の向井正也は毛綱さんの先生だよね。
中谷:矢田洋は知っているよね。
布野:もちろん山口昌伴さんでしょ。僕は結構付き合ったよ。
中谷:あんときはね,月評は,普通4人なんだけど3人でやった。もう一人分は投稿で埋めようと思ってた。結構月評に対するコメントが寄せられていたから。最終的に評者を決めようという時に,布野フィーチャーしようと思ったわけ。野崎からも強烈に推薦があったからさ。野崎が布野を呼んで一緒に呑んでたら,布野が言い出したんだよな,みんなでしゃべればって。
布野:えーそうだっけ。


川床:流主水は中谷が付けたの。
中谷:そう,主水(モンド)に流れを付けたの,ル・モンド。「世界」
布野:矢田洋はヤダヨウでしょう。
中谷:谺炎造はサエンゾウと読んでいたの。冴えないぞーかなと思っていた。
布野:八田利也(はったり屋)の延長じゃない。磯崎と伊藤ていじ,川上秀光。ル・モンドは断然恰好いいね。世界を批評するっていうので,みんな乗ったんだよ。
中谷:だれも知らないよそんなこと。
布野:それを今からフレームアップする。コピーをもってきたよ。流主水のとこだけだけど。
川床:余計なお世話だ。
中谷:月に一回呑んで喋ったのを布野が原稿でまとめるという話だった。
布野:僕の記憶だとね,最初の2回ぐらいは僕が書いた記憶があるけど,あとはみんな中谷さん書いた。
中谷:俺,書いてないよ。
川床:俺,けっこう書いたけど全部忘れた。
布野:文体で誰が書いたか分る。
岸:これ矢田洋も偽名というか,全員匿名なんですね。
布野:ペンネーム。矢田洋は何冊も出してるよ。編集長は馬場さんだったよね。
中谷:馬場さんには一言も相談してないよ。考えてごらん,あのね。布野はいいとしても俺と野崎と川床でしょう。当時,川床はジャパン・インテリアに居たよ。野崎は『建築文化』の編集部でさー。俺,『新建築』でしょう。この三人がつるんでね,布野を祀り上げるなんて,どうみたっておかしいんだよ。
布野:前代未聞だね。それを話題にしたらどうかとか,そういうメディアのあり方って一体なんだったのだろう。というのが今日のテーマなんだけどね。これ全部読み返したけど,面白い時代だったね。70年代末でしょう,第二次オイルショックがあったでしょう。全然ものが上がって来ない。多分,1979年1月号の月評は僕が書いている。渡辺豊和さんの「テラスハウスロマネスク桃山台」。これは建売住宅ですよ。建売住宅を『新建築』が扱ったのは初めてだと思う。建築家が住宅メーカーやディベロッパーの住宅に手を出すのはタブーだったそんな時代ですよ。その後,宮脇壇さんあたりも住宅メーカーの団地を手掛けるようになる。僕が『群居』を始めるのも建築家がもっと住宅市場に介入しようという,そうしないと食べられないというのが背景にあった。「群馬県立図書館」というのは,誰だっけ。
中谷:大高さんじゃないかな。
布野:大高さんだ。磯崎さんの近代美術館の奥に建ったのかな。「甲南大学図書館」,彼かな。永田祐三さん。白浜の「ホテル川久」やった。79年を振り返るのは別にやるとして,なんで『新建築』に入ったの。
中谷:たまたま。というのは…。
布野:建築を勉強したんだよね,
中谷:勉強してねーよほとんど。
中谷:40年前。42年前か。
布野:してないんだよね,我らが世代は。それで次の月は。
川床:今日はみんな無理だよ
中谷:全部布野が書いてるんだよ
布野:違うちがう,川床さんが相当書いている。「しょせん,建築文化の上澄みのあぶく,その皮膚表皮にまとい,・・・垢の浮遊する領域のたわごと戯言,世迷言・・・一番最後いいね,文化主義者に乾杯って。
中谷:合作だねたぶん
布野:まとめたのは中谷さん
中谷:俺じゃーねーよ。
布野:俺こんな文章力あるかなー。
中谷:あるある。
布野:一応全部カバーしている。新建築で扱ったやつすべてにコメントしている。
中谷:月評って,始まったのは71年だよ。俺が入った年なんだけども。月評の日は,書く人をぜんぶ新建築社に集めたんだよ。
布野:刷りあがったやつを見せて書けとやっていた。中谷さんはおかしいと言っていた,見ずに書けるのかと言っていた。
川床:行けないもんな。
布野:行けないし,それはおかしいから。
中谷:見ないと書かない,それを元々言い始めたのは宮脇壇なんだよ。初めはね,とにかく読者と同じ目線で書く。読者は本しか見ていない。皆本を見て書くというのが原則。しかもさー,締め切りぎりぎりだ,次の号だから,書かないと帰さないっていう状況で編集室にカンヅメ。
布野:今どうなっているんだろう。
岸:月評あります。誰がやっているのかは興味ない。一つ聞きたいのはル・モンドの原稿に文句は言われなかったんですか
中谷:だれから。
岸:編集部から。中谷さんが。
中谷:基本的に,雑誌屋さんは署名記事に関してはクレーム付けません。
布野:雑誌屋さんてどういう事。
中谷:出版みんなそうだと思うよ。署名記事というのはその人に責任全部ある。逆に言うと勝手に原稿内容を変えちゃいけないんだよ。あるいは,全く没にするかどっちか。
岸:原稿は誰がつくったの。
布野:4人居たんだよもう一人死んだ野崎正之。
岸:でも,パソコンじゃないですよね,手書きですよね。
川床;たぶん布野ちゃんと俺で,適当にやっていた,書いてふくらませたり。
中谷:ほとんど二人だよ。
川床:二人で書いたり,俺が一人で書いたり,適当にやっていた。
布野:文体みれば分るよ。
岸:取り上げるものは,一晩掛けて。
布野:飲み屋で中谷さんが『新建築』持って来て,こうだああだ,喋った。これはいいとかなんとか。一晩ということはないよ。あとは別の話をしてたと思う。
中谷:ばれたら,おれはこれだよ。
布野:だけど結構ー,いい事書いている。こういうのをどっかでやるべきだって言うのがある。毎月,『新建築』だけじゃなくって,今年,この月,こういう作品がアーキテクトフォトで扱われている。それをコメントしておく。学生はそういうことやってると思うんだけど。
川床:役割分担は布野ちゃんがクリティークで,俺はお笑いですよ。
川床:建築家に頼まれて,お前作品見て書け,という話はけっこうあったんですよ。俺,ジャパン・インテリアの現役編集者だったので,全部ペンネームなんですよ。白井晟一の爺さんが,静岡の石水館とか,あれ出来たから観に行って書けと,電話かかってきた。
布野:そんな緊密だったのか。
川床:『近代建築』とか『ジャパン・インテリア』に書くんですよ。編集者がペンネームでね,他の媒体で書くってことはあんまり無かったけど,『建築文化』でもペンネームで何度も書いているんですよ,野崎さんに言われて。島耕助,したから読むと,すけこまし。
布野:誰も読んでなかったと思う。
川床:読まない,読まない。
中谷:それが建築専門誌の弱点でもあったと思う。
布野:そう。
中谷:読まねえーんだよ。逆に言えば一つの建物取材してね,『新建築』の場合,要するに文章なんかどうでもいいわけ。むしろ物さえちゃんと見せればいいわけ。
布野:川床さんが白井晟一に可愛がられていたっていうのを今日確認したんだけど,僕は,悠木一也というペンネームで,サンタキアラ館について書いたんだよ。僕の最初の建築評論。振り返ると白井晟一の作品の中ではたいしたことない作品かもしれないけれど,一生懸命書いたんだよ。20枚書いた。書かせたのが田尻さんで一緒に見に行って,和木通さんというカメラマンいて。田尻さんはここから撮れとか指示してた。大学院の時に書いた。もう全体が白井晟一へのオマージュなんだけど,書いたら白井晟一が5万円もする中央公論から出した『白井晟一全集』をくれたの。僕が建築ジャーナリズムと係わる最初のきっかけは白井晟一なんだ。だから田尻さんのインタビューと神子さんは僕の『戦後建築論ノート』を書かせた張本人だからまずインタビューする,そしてル・モンドと来るわけ。
岸:お二人のキャリアの最初にル・モンドがある。編集者として若手だった頃ですね,79年。このル・モンドっていう経験は,その後何かに活かされたということはあるんですか?
川床:全くないですね
岸:編集業の仕事よしてある種のチームとして回していたと言うか。
川床:ゲームみたいなもんですね。短時間のね。中谷さんの『新建築』という大店からずーっと広がってくるんだけど,貧乏出版社はとにかく金稼がないといけないんですよ。次のものを出そうと思うと,自分で金とって来て作るしかないんですね。とにかく会社を維持するというか,ピーチクパーチク子供のいる社員に喰わせるために,社長としてはね。
岸:話聞いてて,面白かったのは,ル・モンドは誰も読んでない。
布野:読んでないよ。
岸:読んでないからこそ,勝手な事が書けるっていうか。
布野:月評,読んでいたのはたぶん100人ぐらいじゃない。でもそこに取り上げられた人は気になるわけで。前号の建築家たちは全部読んでいた。ほんんど読んでないから,ある種,悪口みたいなことも書けるという,その構造はTwitter(X)っぽい。
岸:時間としては,圧倒的に月評の方が遅い。けどその分瞬間風速が強い。Twitterは早いけど,一時間前の事も忘れてしまう。
川床:建築とジャーナリズム研究会って最初に話があったときにね。
布野:A-ForumのAJ研究会。
川床:なんだ,布野ちゃんがやって来たことじゃんと思った。『群居』だけじゃなくってね,『都市美』とかね。『白井晟一研究』もかな,そういうものを編集してきてる。なんで布野さんがそうなっていったか。今でもそうだよ,こんな事やっているのは,編集が面白からですよ。それで何で面白いかったら,人を根掘り葉掘りお節介したいわけ。編集者とはお節介屋である。まったくそうなんですよ。頼まれもしねーのに,本,書かねーかとかさ。あれ取材しようかとさ,余計な事ばっかりやるのが編集者なんですよ。だけど,編集者が居なければ,新しい刷り物とか,表現とか,話題とか生まれないんですよ。それを産まないと編集者とは言わないでしょう。と言っていいのね。
布野:確かにね。お節介屋かもね。『都市美』は山本理顕さん。『白井晟一研究』は,白井昱磨さんだけどね。
川床:そうするとね,俺なんかより遥かに布野さんの方が編集者やってるわけ。さらに今ほじくり返して,またやろうとしている。そういう立場の人からの話なんで,はい分りましたという感じ。
布野:頼もしいけど,どういう形なら成立するのか確信がないんだよね。若い人は,活字は読まない。
川床:新聞って生まれてから一回もとったことない。
布野:え!そうなの。新聞は全部は読まないけど,見出しと頁の配置で何となく全体のフレームがあるよね。若い人たちはもう新聞はとらない。スマホで情報を得ている。一般に言われるけど,そうすると自分の関心のあることだけに興味をもつ。この間の神子さんの会の時に,今村創平さんが言っていたけど,あることについてはディープなコミュニティができてるんだけど,その横のつながりがない。
中谷:かつては『建築文化』『新建築』『SD』『都市住宅』というメディア自身が一つの力を持っていた時期があった。ところがね,今,メディアが無くなっちゃったじゃない。
布野:それが出発点なんだよ。この間,安藤正雄先生がうまいこといったけど,『新建築』も『建築文化』も,『SD』も『都市住宅』も,今のニッチなコミュニティだった,彼はそれをエコシステム(生態系)というんだけど,紙媒体メディアがなくなったというけど,失われたのは居心地のいいエコシステムが無くなったということじゃないの,というわけ。なるほどと思った。中谷さんが,『新建築』が同人誌じゃないか,と言ったのはある違和感があったんだよね。それで地方に眼を向けたいと思って居心地よい誌面にしようとした。馬場さんは馬場さんで,ゼネコンや大手組織事務所をトップに置いた方がいいと思ってたんだよね。『建築文化』では,野崎さんが専らアヴァンギャルドに焦点をあてたがっていたわけだ。
そういう新メディアが今どういうかたちで可能かどうか,僕は今考え中。若い人たちに期待してるんだけど,ちょっと動きが見えない。若い先生なんか,学生の作品を批評するとハラスメントになるなんていう。
ただ,絶対必要だと思うのは,建築家に何らかのインパクトあるメッセージ,要するに批評,評論,議論がいる。勝手に作って,かっこいいでしょうというのはまだいいかもしれないけど,凡庸で,何も考えない建築がつくられ続けていくのは嫌なんだよね。
東日本大震災後の復興ということで,いかに凡庸な建築が大量につくられたことか。知らないうちに,著名な建築家も仕事をこなしちゃってる。新国立競技場にしても,木一杯使ってますーっていうレヴェルでいいの。まじで議論できるメディアが何かできないかなーということ。
中谷:メディアに居た人間は今まで無名性でやってきたわけじゃない。メディアの名前で仕事してきた。自分の名前で有名性をもってやっていくというのも一つの方法かなーと思った。
布野:それいつ頃。
中谷:もう10年ぐらい前かな。
布野:それは僕もあると思う。平良さんは,布野,ひとりでもやれ!というんだよ。実際,長島昭夫さんの個人雑誌『建築と日常』という,ひとりでやっている例もある。僕の場合,ひとりでこれまで書いたものをまとめるとか,まだまだ書いておきたいことがあるから,それを続けるのは問題ない。
ただ,メディアを発想する場合は,宮内嘉久さんの『廃墟から』を批判してきた経緯があるから,商業的というか,経済的には自立したいんだよね。まあ,サロン,同人誌と言われても力を持てばいいと思うけどね。吉本隆明の『試行』は,水準の高い原稿をひたすら書くことで,それが売れたんだよね。
川床:言われるといろいろ思い出すんだけど,池袋の汚い喫茶店に連れてかれて,嘉久さんと話したことあるんだよ。それは『建築』の復刊問題。難しい人だなーと思ったね。
布野:『廃墟から』からやはり拡げたかったんだと思う。僕の場合は,『地平線』というのを立ち上げるという話だった。
川床:俺らは遅れて来たイデオロギー好き少年たちなんだけど,ゴリゴリの人たちも残っていたわけで,宮内康さんとかいろんな人も居た。デザイン雑誌の馬鹿編集者がさー,何か意見言うのは可笑しいような気もあったりして。
布野:僕は,福井駿(2021)さんの『編集者宮内嘉久の思想と実践について』修士論文(京都工業繊維大学)に収録されているんだけど,宮内さんの『地平線』の顛末についてインタビューを受けた,最近ね。
それは吉本の「自立」の思想とも関係するだけど,要するに嘉久さんはスポンサーを前提にしていた。今で言うとメセナを当てにする感覚だった。好い事をやているんだから,お金出して欲しいという無心が先だった。
自前で出すというのが基本だという僕と決裂して,日本の住宅どうするか,という事をテーマに『群居』を始めてることにしたのは,『地平線』が潰れたこともかなり関係がある。豊和さんとか,大野勝彦さんとか,石山修武と『群居』を始めたのは1980年頃で,1982年12月に創刊準備号を出した。時間の前後がわからないけど。川床に期待したんじゃないの。
川床:俺はやめた方がいいと言ったんですよ。せっかく連れて行ってくれたのに,いろんな総合的な状況から見て,君はどう思うかって言うから,いろいろごちゃごちゃ言ってけど。結論としてはやめた方がいい,と言って二度と嘉久さんから声掛からない。
布野:係わった方がよかったの。
川床:俺けっこう好きだったの。本読み込んでいたから。
布野:この修論書いた福井くんの結論は,自立メディアの可能性があるっていうことなんだけどね。嘉久さんは,当時は前川(國男)大明神で,一方で理解ある企業に無心をしているというかたちだった。要するにスポンサー,パトロネージであってのメディアっていうかたちが前提だった。
川床:要するにすべて業者だからね。建築家もメディアもデザイナーも。会社作ったときに何でもやる編集会社と言ったのはいいんけど,喰っていかなきゃいけないから,一番金になるところったらリクルートだったのよ。
布野:それは編集会社としては当然だよ。
川床:糞みたいな仕事でもやろうと。だって皆,会社で口開けてぴーぴー待っているわけね。編集者ってそういうもんだと思う。だけど一人でやる事は別だ。俺がやらなかったのは,非常勤とか,奴隷みたいな仕事。
布野:『建築ジャーナル』が頑張っているけど,設計事務所の写真広告がベースになってる。本文と写真広告頁が分かれている。隈研吾建築都市設計事務所の広告が入っていたりする。ゼネコンが出すんだよね。紙媒体は,それなりに配りがいがあるんだろうか? 新建築の建報社はどうなってるんだろう。
川床:だって金なきゃ雑誌出せないじゃないじゃん。
布野:今はネットだとバナー広告とかがある。課金のシステムもある。これからは有料ですとかね。きついこと書いたら金は入らない?
川床:いや,金集めるのと,きついこと書くのと別。
布野:きつい事書いて,誰が金を払う?
川床:読者はどうでもいいと言えばどうでもいいんで,情報としてのデザインが問題。まず,徹底的に金集めたわけ,関係者に紹介してもらって。BPから何から全部紹介してもらってさ。金,集めて,あれだけ人集めて,原稿料払った。版元だから,金を集めなきゃ作れないじゃん。
布野:原稿料は払いたいんだよね。『群居』は会員制,会費で20年もった。何とかやりたいことはほぼ一致しているような気はするけどね。だいたい基礎認識は一致してる。
川床:一致一致。それは分っている。
川床:『群居』とか一番いいなー。
布野:『群居』は純粋だったよ。
川床:純粋というか,王道だけど,どういうメディアが必要なのかという事を考える必要がある。
布野:しかし,若い人は自分のことで精一杯なんだよね。
川床:建築ジャーナルと言ったときに,電波なのか紙なのか,クリティークなのか,幾つか柱がいるわけさ。3本柱ぐらかな。紙と電波と言うと必ず金が絡む。だけど,逆に言うとそれ以外絡まない。それを表出する・・基本構造がある。テキヤみたいなもんだからさー。
布野:最後の仕事になる,布野の。
川床:だから面白いから付き合うわけ。死にかけの老学者にさー,何を付き合えばいいのかなーと最初心配だったんだけど。布野ちゃんが言うんだらしょうがねーなーっていう感じだよ。
布野:学者ではないんだけど,やることは決まっていて,これまでいろんな経験をして考えてきたことを書き残すということね。未来の一人の読者に向けてね。僕は,思いもかけず,学会とか,大学の世界で生きることになったんだけど,中谷,川床は民間で生きてきたから逞しいよな。
だけど,この間数えたら,29人かな,海外含めて大学に居るわけ,布野研究室を出た学生が,京大に教授と准教授2人,筑波大,群馬大,奈良女子大,京都工繊,京都府大,大阪工業大学,明治大,近畿大,関西学院,福山大,宮城大,滋賀県立大学・・・・いわゆる弟子がいる。国公私立5大学渡り歩いてきたのは,喧嘩早いからなんだけど,学会の副会長にまでなったのは,どこかで身体張ってないと,大学の人事でも弟子たちがイジメられるからなんだよね。孫弟子もできているから,そこから拡げていけば,何かやれる事があると思っているけどね。論文とか,学位とか,この国の文科行政は,学術会議問題でもわかると思うけど,不愉快なことが山ほどある。
川床:分るわかる,分かる。言う奴がいないといけないのよ。俺は誰に対しても,それで?としか言ってこなかった,はい分りましたと,日和ってない。編集ってね,喧嘩性分なんだよ。金もないのにさ~,何か良いメディアをつくろうと思って。喧嘩してきたわけ。
布野:お金でしょう,基本的には
川床:もうちょっと正確に言うと,『新建築』って,昔1.5kgぐらいあった。50%以上広告載せちゃいけないんですよ。雑誌は。
布野:郵送料の規定だ。(第三種郵便物です)
川床:必死になって集めるんだけどね。リクルート,電通で勉強したのは,脅迫方式で,あそこが出てます,ここが出てます,広告はそうやって集めるわけ。ところが『新建築』が1.5kgもあると広告は見ません。目次をぱーっと見て,新しい製品をバラバラバラっと見ますよ。建築なんて誰も見ない。要するに,読者が見たいのは,一番新しい『新建築』が取り上げている建築,どんな物が出来ているかを見たい,だけなの。広告は半分あるけど,広告は誰も見ませんよ。
中谷:それに関しては異論があるんですよ。極端なのはね,本文要らない,というのがいる。今ほどね,情報が流れてないから,一番新しい材料が知りたい。地方に行くとね,『新建築』がずらーっと並んでるんですよ。ありがとうございます,どうですかーと聞くとね,うん,これ役に立ってますよと言うわけね。どういうふうにと聞いたら,お客さん来るとね,見せるの,どれで行きますと。
布野:それわかる。親父が,工業高校の建築学科出て松江市役所に勤めていたんだけど,『新建築』は本棚に並んでいた。『建築文化』なんて知らなかった。松江というか出雲は,菊竹さんが県知事の田辺長右エ門と親しかったし,作品集を親父に送ってきてた。芦原さんもやってきて,お前のこと話したよ,なんてこともあった。
川床:俺もいろんな会社とつきあったけど,総合カタログって有るでしょう。設備屋さんの陶器の総合カタログって毎年3億円なんですよ,それを受た。毎年そんなに新製品が出るわけじゃないんで,一部修正をしていくだけなんだけど。それを何万部もこんなに厚いの作って,設計事務所に全部送るんですよ。ただのカタログでしょう,それが3億円,今もっと安いかも知れないけど,各社がやっているわけ。写真撮ったり,スタジオで撮ったり,めちゃくちゃ金掛けて作るんだけど,それって何の意味があるのかなーってなるよね。その時に全部ネットで分るようにしちゃえばいいじゃんという人が居たのよ。
布野:最近の話。
川床:うん。だけど駄目なのよ。やっぱりパラパラ見て,事務所に置いておくわけ,そこが大事なのね。だから印刷物の貨幣価値というか交換価値というのはある。新聞だって全部そうでしょう。だから,新聞だって広告なきゃ潰れちゃいます。
川床:お節介やきって言ったけど。布野ちゃんってねー,何かあると,呼ばれるタイプですよ。俺もそう,ちょっとこんなの考えてるんだけど,考えてくんないかーってやったのが山ほどある。一番向いているのは編集者なんだよ。間違いない。
布野:平良さんに言われた最後のメディアは荷が重い。で,お二人に声かけしてる。
川床:それがまだ甘いんだよな。優秀な人を。
中谷:いまさら俺たちの出番ねーかも知ねーよね。
布野:知恵を借りたいというか。
川床:野心があるからまだまだ偉そうにやりたいんだと思う。俺は本当にないけど,手伝ってもいい。
中谷:俺,今なー中国ででっかいプロジェクトやってるんだ。
川床:金とっていろんな建築家にやったりする。
中谷:建築家を使おうとしてんだ。
布野:中国については,そんな話一杯あったよ。僕にも。
川床:今でも一杯あるの。俺の親しい建築家,京都のTとか。Aとか,みんな,北京の郊外の何10haをどうしたとか言ってる。例えばね,ベトナムでもミャンマーでも,どこでも好いけど,布野ちゃんぐらいだったら政府レヴェルで国家プロジェクトの話つけて来れるわけよ。そうした時に今進撃にいるような,若手といっても30,40歳くらいかな。そいつらに,アートポリスみたいにバーンと仕事配れるようなね,そういう事をするのが布野ちゃんの仕事じゃん。
布野:それはない。わりと最近,エジプトに日本式学校を100校建てるというプロジェクトに巻き込まれたんだけど,一銭ももらっていない。旅費ぐらい出せよ,という感じ。仕事を配るとなると,命がけになる。よく知っているの今ベトナムに居る建築家は,ベトナムから建設労働者を建設現場に送っているよ。中谷さんが土佐派の家をプッシュするんだけど,後継者どうなっていますかと言われると大問題だ。構造的にはみんなつながってる。
川床:そんなにはずさないでいいよ。僕が言っているのは簡単に言うとODAだよ。編集者からプロデューサーやっている訳だから,若い奴をどうやって支援するかでしょう。仕事とって来なきゃ。
布野:それが今日の。
川床:最大の問題。
布野:それができれば,苦労はないな。公共建築の設計者選定を若い層に開放するということは一貫して主張し,話があれば実践したきたけどね。今度も隠岐の島町でやる(「西郷港周辺地区デザインコンペ」)。
川床:俺,こういうのやってる。こういうの作って遊んでんる。
布野:やる気あるんだ。
川床:Fasebookで出したやつ,ぱらぱらと遊んで,まとめたわけ
布野:こういうのをさー,読めるようにしておくだけでも,意味あるんじゃないかと思うわけ。それで出版社が,これは本に出せると思ったら,本にしてもらう。
川床:これが売れなかった見本です
布野:皆やっているんだよこういうこと。
中谷:これはねー,ある知り合いが俺のフェイスブックを見て勝手につくってくれた本なの。
岸:開き癖ついちゃいます,大丈夫ですか。これをスキャンしようとすると開いちゃうので。
川床:これはぜんぜん構わない。これは中谷さんのだから。
布野:素晴らしい。
布野:みんなやってるじゃない。この世代は,やっぱりハードコピーなんだ,
川床:こんなの作った
中谷:次から次となー
川床:この辺見せると,酔いが回るから
布野:岸君がこれ預かって責任もって返す。岸君が今日来てくれて,よかった。
中谷:よかったねー
川床:編集者の病み上がりのなれの果てがね,個人的なメディアをちょこっと作って遊んでいるみたいな事はやっているんですよ。だからジャーナルって話も,面白いなーと。一杯試行錯誤してやっていく事になるんだけど。仕舞いにはね,見えてくるときは来ると思うんだよ。布野ちゃんが頑張ろうとしている,だからすごい応援しようと思うわけ。
布野:うれしいね。
川床:昔ね,ぼこぼこにやられて苦労して経営やっていたんでね。だから,そうすると。
布野:凄い同志ができた。でも年寄りばかりじゃねえ,若い子が欲しんんだよね。
川床:若い子を探すのは考えればいいじゃない。
布野:ここを編集事務所にというのはありかな。
中谷:むかし,川床と俺と野崎の三人で編集事務所やるなら,事務所渡すぜと言われたことがある。
布野:誰。
中谷:竹山実だよ
布野:先生か,だから。
川床:建築の三馬鹿って言われたんですよ。
布野:確かに言っていた。僕も,真に受けなかったけど,文化の編集長に来いって言われた事あるんだよ。田尻さんじゃなかった,後藤武さんだったと思う。ばかなーって一蹴したんだけどね。僕は,何個か特集をやったからね。
川床:編集好きだからさ。
布野:ほんと,そうなの。見抜いているね。編集者的センスは自分でもあると思う。
川床:お節介なの。
布野:お節介だけど,何のためにお節介してるかという話があって,なんかうずうずするんだよね。
川床:簡単なんだよ,布野ちゃん考えた事をね,若い優秀なやつにDNA埋め込みたいわけ。で国家でも何でも国土でもね,とにかく物事はこういうふうに考えなきゃいけないんだぞーって,脅迫の方法を一杯もっているくせに,ろくな子供がいないもんだいから,いらいらしているわけよ。
布野:なるほどね。イライラはしてないけどね。
布野:『新建築』で一年間,巻頭インタビューをやったことあるんだよ。有名どころをインタビューして原稿にするという。
中谷:いつ頃。
布野:石堂さんの時だと思うけど,僕が覚えているのは千葉大のインテリアの小原二郎先生,それから岩城造園の岩城仙太郎さん。各分野の大御所に僕がインタビューして,テープ起こしもして,原稿にするの1年やった 。
川床:編集長も幾つもやっているからね,
布野:テープ起こしして原稿にするって物凄く勉強になるんだよね。そういうことを若い人たちに言いたい。知らないことは調べないといけないし,要約する力もいるし大変なんだけど,ものすごく面白い。自分の思うようにストーリー組んで,言いたいことはこうでしょう,とまとめる。もちろん,本人が原稿チェックしてくれるから,訂正されれば真意がわかる。最後に(文責 布野修司)としか出てないけどね。
川床:やってね,著者から文句は付かない。
布野:著者はチェックするわけで,公表されてからは付かない。ただ,実際はしゃべっていないことをつけ加えることはよくやった。その方が主張が通りやすいから。こんなこと喋ったことはない,なんてことはなかったよ。
中谷:俺ね,インタビューを起こした,絶対真っ赤になるぞと言われたのは,大江宏さん。大江宏と鈴木博之の対談だった。普段なら大江宏さんから赤が一杯入るんだけど,ひとつも入らなかった。あれで自信もったね。
布野:僕は大江さんとは結構親しかった。タクシーの中でいろんな話を聞いたよ。彰国社の新建築体系の第1巻『建築概論』の編集を1年ぐらい一緒にやった。博之さんもメンバーだった。。一ヶ月一度ぐらい会議があって,帰りが同じ方角だったのでタクシーに同乗させてもらったんだ。大江先生が学会賞の選考委員長で該当者無しの時があったんだけど,何で学会賞出さなかったんですかと聞いたことがあって,彼にはは絶対やりたくなかった,「人入れ家業」で,スタッフによって作品が変わるような建築家は認めない。
中谷:まさに今の話はさ,ゼネコンの談合みたいな世界じゃない。それを何とかしない限りはね,建築は一般的意味での文化レヴェルにならないと思うよ。
川床:当時,多木浩二と山口昌伴の二人は他の雑誌の生原稿をよこすんですよ。僕はあの二人は頼むのやめたんです。
布野:ゴーストライターね。
川床:汚い字でした生原稿。
中谷:文字を読めるという話ね。
川床:他の編集者は読まないんですよ。
中谷:そういうのはあった。俺が完璧に読めたのは宮脇壇だ。
布野:このテープを起こしてくれる佐藤さんはね,そのまま起こすのがいいって言っているわけ。Youtubeで流すだけだとね,同じ時間が掛る。だけど文字になっていれば斜め読みでも出来るからってって。僕は,編集というのは必須だと思ってるんだけどね。それがないと聞きっぱなし,斜め読みっぱなしで,何が共有されるのかわからない。
中谷:それは俺たちじゃなくって,むしろ若い人の話?
布野:若い人たちに期待してやろうと思ったけど,なかなか出発できないでいるから,今,試行錯誤中。コンテンツを貯めようと思ってるところ。まって,今日もその一つなんだけど。
中谷:ところで,お前いつまで働く気。
布野:そうだよね。動ける限りやるんじゃない。中谷さんだって,Facebookの連載は本にしようと思っているでしょう。どういうメディアに載せるか,どういう受け手を想定するかって言う辺りが,問題。
中谷:ピックアップする内容が違うかもしんない。それをどういう形でね,どこに伝えていくか,っていう問題があるのよ。ターゲットは,建築じゃない所なんだよね。建築を技術論だとか,建築家の勝手なコンセプトの話じゃなくって,文化としてどう取りあげられるかいう事の方が重要じゃないかと俺は思っている。それと,俺,土佐派の家みたいなのやっているけど,伝統的な構法をいかに,今のいろんな基準法だとか,法律とかね,そういう問題に対してアジャストしていくかという問題がある。そういう事を考えると,建築というジャンルの中で誰が何をやったという話じゃなくって,それがどういう歴史的な文脈のなかで,どういう意味があるか,どう見たらいいのか,というような事が無いと,いつまで経っても,社会面では建築家の名前出ない。出るのはせいぜい犯罪者ぐらい。
布野:全く異議なし。そういうことをやりたいね。その前に死ぬかもしんないし。

中谷:たまたま俺が大学の芝生に寝転がっていたら,服部岑生先生(当時は助手だったような記憶が?)が来て,こんな募集があるぞと『新建築』見せられた。編集部員募集。やってみっかと思ってよく見たら締め切りがその日なんだよ。昼ぐらいだったかなー。泡食って教務に行って,卒業見込み証明書出して,いつまで,今,って言って出してもらった。
顔写真も貼ってなきゃ判子だって押してない,それ持って新建築に行ったんだよ。そしたらさー道に迷ってさ。5時までというのを遅れて5時半ぐらいになったのかなー。着いたら事務の女性が,置いてったらーというので置いて帰った。
ダメだと思ってた。しばらくしたら連絡が来て,何月何日に六本木の文化会館に鉛筆持って来いという。そしたいきなり試験された。英文和訳,和文英訳,論文。
覚えているのは横文字なんて全くダメで,やってもしょうがないから適当にやって論文だけ書いた。論文で覚えているのは,雑誌の編集者っていうのは下請けじゃねーはず,と書いた。
布野:へえ,しっかりしてるね。
中谷:建築ジャーナリズムをどう思うかみたいなテーマだった。
布野:入った時は神子さんと被ってる。
中谷:被ってない。
布野:出て行ったから新人募集したわけだ,多分。
中谷:そうかもしれん。
布野:神子さんの話だと,組合つくって弾かれた。それで自分は『SD』に行こうと思ったけど組合作ったことがあってダメだった,それで相模書房に行ったんだ。小川格さんもほぼ一緒に辞めてるから,編集部員が空いた。
中谷:格さんはいったん,『a+u』に行っているんだよね。
布野:神子さんが『新建築』辞めたのは1971年2月だよ。
中谷:俺が入ったのはその年の4月。編集がどうのこうのとそういう夢は全くなかった。入る前,71年の1月号,今でも覚えてる。篠原一男の「未完の家」と「篠さんの家」が出てた。多木浩二の写真だった。
布野:多木さんは写真撮ったんだ。
中谷:あの人はもともとカメラマンだもん。コンポラ写真とかいうグループのメンバーの一人だ。中平卓馬とか東松照明とか。『新建築』はこんな粒子を荒らした写真も載せるんだーと思った記憶があるな。
入ってしばらくしたら,なんだよ!同人誌じゃないかい,てな感じがあった。
布野:ああそう。
中谷:有名な建築家ばかり出てるんじゃないかって。
布野:今日も持って来たんだけど,『新建築』に関係した編集者,写真家がまとめた『建築21世紀はこれからだ―編集者・写真家 三〇〇年の視点』 ,これ,神子さんが仕掛けたんでしょう。これ,中谷さんに送ってもらった。しかし,入った突端にそんな生意気なこと言ったの。同人誌だと。同人誌というのは仲間内ということでしょう。
中谷:そうそう。
布野:『建築文化』の方が同人誌的で,『新建築』は,一応,組織事務所とかゼネコン設計部も扱うから,あまり同人誌的じゃないんじゃないかと思ってたけど,入った瞬間に同人誌的だと思ったの?
中谷:入った瞬間でもないけどね。
布野:でしょう
中谷:で,後で知ったことだけども,川添さんたちの第一次新建築事件の背景には,発行部数がダウンしたということがあったわけよ。
布野:それは神子さんも言っていたよ。
中谷:それを回復していったのは馬場だった。馬場は売れるためにどうしたかと言うと,彼は天辺を押さえれば全部抑えられるんだという言い方をしてた,それが馬場の持論。『SD』や『都市住宅』は建築界という全体のピラミッドの中では,ちょっとズレてる,トップではない。
当時の新建築には,確かにゼネコンも出てたし,大手事務所出ていたけれどもね。でも,もっと地方にね,ちゃんとした連中が居るはずだって言ったら,じゃお前探せということになった。
布野:そういう議論があったの? 中谷さんだけに聞いても一晩も二晩も掛りそうなんだけど。地方の建築家を連れて来い,探してこいと言われたんだ。その前に,これじゃあ同人誌じゃないかと言った。だけど,売れないとだめだよ,みたいなことはあったの?
中谷:売れないとだめとは聞いてない。
布野:地方の建築家をつれて来いっていうのは,いつ頃の話なの。編集長になるのは1991年,入ったのが1971年,74~75年にはヨーロッパへ行ったり,いろんな所へ行って見聞を広めてるよね。Facebookの「一期一絵?」はそういうときの写真でしょう。それはちゃんと本にして欲しい。
中谷:おそらく入ってから3~4年目じゃないかな。早い話が俺はそれで,地方に眼が行ったわけよ。もう一つこの時代に有難かったのは,伊藤ていじさんの高山サマーセミナー。
布野:入社二年目から参加したんだよね。
中谷:あれで日本中から集まって来たいろんな人たちのネットワークが出来た。その内の一人が高知の上田尭世さんだつた。そのネットワークが今だに全部つながっていて,地方に足繁く通うような切っ掛けができたわけ。
布野:上田さんの息子さんは,神戸大の建築を卒業したんだよね。僕も高知とは別の脈絡で縁があって・・・
中谷:上田博史くん。
布野:高知にある若竹まちづくり研究所の大谷英人さんが東洋大出ているんだよね。僕を東洋大に呼んだ内田雄造さんというのは東大闘争の闘志なんだけど,国の同和対策審議会の会長をしていた当時の磯村英一学長と親しくて,被差別部落の居住環境改善に取り組んでいた。その弟子が大谷さんで,先鋭的な所が高知県でそのまま拠点としたんだ。俺と同じ歳だ。
だから僕は「坂本竜馬記念館」の時の裏の仕掛けとか学会でサポートしてた。それで,山本長水さんとか,上田さんとか昔から知っているの,その頃から。だから中谷さんがやっている事はよく知っていて,高知とは関わってたから,上田さんとは今でも年賀状やりとりしているし。文旦か何か送って来る。
中谷さんは『新建築』の中で,そういう層を掘り起こしていこうとしたわけだ。東京の有名建築家の同人誌じゃなくってね。
中谷:結局ね,『新建築』に載る建物は,ほとんど東京と大阪じゃない。もっとそれ以外の都市でもいろんな人がいるはずだよ。新建築の情報ネットワークに引っ掛かって来ないだけじないか。そういう感じがあった。
中谷:新建築でね,『建築20世紀』という別冊だしたんだよ。何人かの歴史家,鈴木博之も含めて集めてね。
布野:貴方の編集長時代?
中谷:いや,あの時は『住宅特集』の編集長だった。だから俺は取材だけした。編集はタッチしてない。で,あれを見てね,どれを面白いと思ったかっていうことを岸くんたちにお聞きしたいのね。というのは,我々はいろんな建築を見て来て,現代建築のストーリーが頭の中に入っているから,これはいいはずだと,これは大事なもんだと思い込んでる部分が多分にあるよな。
布野:もちろん,
中谷:ところがさー,そうでない見方がある,文化として見た時に,どうだっていうのをね,岸くんや世間に聞いてみたい。
布野:そういうことはやりたい。『建築20世紀』は,僕も何か書いたよ。鈴木博之・中川武・藤森照信・隈研吾 編だった。1991年だから編集長になる頃だよ。
中谷:取材していたころはまだ住宅特集にいた。あれは幕の内弁当なんだよ。
布野:確かに,総花的だった。だけど,そういう事をやって見せる,まとめて見せるメディアは必要なんですよ。編者として係わった時にはいい加減に選んでいるかも知れない。しかし,誰かが整理してみせるのは必要で,そこでなんでこれが入るの?と異論がでてくる。
『虚構の崩壊』は,パラダイム変換をうたったから,すごいインパクトがあったよ。それから,『日本の様式建築』ね。仕掛けたのは,たぶん石堂さんだよね。違うの,貴方もいたはずだよ。
中谷:『虚構の崩壊」は企画段階から居た。俺が入って数年後。
布野:1974年10月臨時増刊,創業50周年記念特別号『日本近代建築史再考―虚構の崩壊―』。いまでも持ってる。村野藤吾,谷口吉郎,西山夘三,浦辺鎮太郎,吉村順三,丹下健三,岡田孝雄,安田清,小場晴夫,田口正生,角田栄,尚明,吉武泰水,一文字文三郎,一文字というのは建報社の会長,そして清家清,渡辺力,三輪正弘,川添登,芦原初子,佐藤正己,最後に吉田義雄社長が巻頭に回想を書いている。それで建築作品101を選んでるんだけど,編集と論文は,村松貞次郎,近江栄,山口廣,長谷川堯で,編集後記代わりの座談は座談は馬場さんが司会して石堂さんが入ってる。
中谷:あれは面白かった。建築作品や論文の数を101と謳ってるけど,実は100なんだよ。数を勘定する読者がいて,もし数が足りないと言って来たら,101番目はあなたです,と答えることになっていた。
布野:面白いし,インパクトあった。「デザインの刻印」という磯崎新・鈴木博之による全作品の分析,分類もあるんだよね。その後,佐々木宏さんの『建築昭和史』(1975/12),村松貞次郎の『日本の様式建築』(1976/6)があって,横山正さんの『昭和住宅史』(1976/11)がある。
『建築20世紀』もだけど,僕は建築文化派と思われてたけど,ちょこちょこ原稿は頼まれてる。1年間巻頭言のインタビューもやったよ。
川床:建築は,どう情報化されるかっていう問題だよね。テレビ,新聞,雑誌,広告,俺の場合,そこから電通との付き合いが始まったんだけどね。一般紙と専門誌の関係ね,30数年前に『新建築』の事をちょっと書いているんですよ。
要するに,記録をきっちりやるのは『新建築』だけあればいいので,他のメディアは役割を持っていなけえば淘汰され無くなると。その通りになった。で,記録というのは一番強い。
布野:88年に『住宅特集』の編集長になるじゃない。住宅を専門にした雑誌は,それが契機ではないの。
中谷:『住宅特集』の創刊は1985年で俺は関係ない。あれは,石堂(威)がやった。季刊で始めたんだけど5冊目ぐらいから,月刊に切り替えた。あれは建築界ですごい反発があった。
布野:何で。
中谷:『新建築』で年に二回の住宅特集を組んでいた。『新建築』誌上に一般建築と住宅とが一緒に出ることによって,住宅も一般建築と同じレヴェルで考えていたんだね。『住宅特集』は住宅専門誌で,掲載されると住宅建築家になってしまうのではないかと。
布野:『住宅特集』には建築家の側から批判があったわけですね。
中谷:うん。一番頑強に抵抗したのは篠原一男。俺のは建築だ!住宅じゃない。
布野:それは分る。住宅は芸術である!だからね。
中谷:で,創刊してしばらくして馬場が『新建築』の編集長から外れた。大病したんです。胆石をこじらせて,全快するのに1年半ぐらい掛ったのかなー。その間,名目上編集長は変わらなかったけれど,石堂が代行していた。俺は副編だったけど,社長と石堂に呼ばれて,入院中の馬場に相談するな,われわれに相談すればいいと言われた。もちろん,バックレて病院通い。
布野:当時,『新建築』は何万部ぐらい出てたの?
中谷:4万部前後だと思う。
布野:実質ですね。『建築文化』は公称3万部とか言って1万いっていないぐらいな感じの時かな。そんな中で『住宅特集』もできる。『SD』もある『都市住宅』もある。80年代後半からバブルになるんだけど,1991年に編集長になって,4年後に辞めちゃうでしょう。なんで?
中谷:編集長になって,俺,なにもやってねーんじゃないかなー。
布野:石堂さんが新建築辞めるのはいつだっけ?
中谷:あれはねー,1999年かな?
布野:それでGAへ行くでしょう。行くタイミングには間があるの。
中谷:そこらへん,彼に聞かないと分らない
布野:編集長になったときには居なかった。
中谷:いた。馬場と石堂が入れ替わったときに,馬場は辞めたんだよ。で,俺が編集長になった。
布野:入れ替わったのは。
中谷:入れ替わったのは91年。
布野:貴方は88年に住宅特集の編集長になって,91年に新建築編集長になる
中谷:馬場が建築情報システム研究所を立ち上げたのは1988年で,建築社内に在った。
布野:そうなの!知らなかった。
中谷:それで,馬場が60歳になって,一応定年で出たんだ。1995年。
中谷:新建築の編集長をやれと言われた時に,条件付けたんだ,社長に対して,今までの編集長だった石堂をなんらかのちゃんとした役につけてくれと。編集長を辞めたときには,会社を辞めるというパターンにするなというつもりだったわけ。結局,石堂さんは部長という形になった。ところが本人は気にくわなくって辞めたということかな。1年かそこら居て。で,結局俺が編集長を3年やって,編集長から部長になれと言われて,何すりゃあいいんだって言ったら経営の事考えろと言われて。具体的に何やろうかと。経理なんか分りっこねーし。
布野:そうなんだだよなーその辺を川床さんに聞かないといけない。それで建築ガイドブックやった。
中谷:ガイドブックが10何年改訂版が出てなかった。だから安藤忠雄や伊東豊雄の作品はほとんど載ってない。
布野:更新されてなかった。古かったわけね。それはやりがいがある。
中谷:俺が一人でやるわいと言って。1000何軒かを一人でほとんど原稿を書いた。
布野:それは凄い,
中谷:普通はいろんな大学にぶん撒いてさー,歴史研に渡すんだけども。俺が書けばさー,余計な金いらねーだろうとか。社長はほいほい喜んでOKしたわけ。
面白かったし勉強になったのは,1863年から1993年まで,竣工年順に原稿を書いた。そうすると明治から現代までの建築のうねりが見えるんだ。
サッポロビールのマーク,覚えてるか? あれは南軍のマークなんだよ。南北戦争で負けた連中が北海道にやってきて,札幌農学校第2農場つくったりビールを造ったりした。一方でロシアからニコライという坊主がやってきて函館から東北を重奏してお茶の水にニコライ堂をつくる。お国ではイギリスからコンドルを呼んで辰野金吾や伊東忠太などを育て,官の系譜は新古典主義に染まっていく。ドラマチックだよ~。
布野:新建築を辞めて,中谷ネットワークが設立して95年から四半世紀経っているんだけど,この間やって来たことはどうなるの?
中谷:辞めた後は,土佐派から始まって,林業の方にいっちゃう。土佐派って木造じゃん。2年間,高知通いして,山もずーっと歩いたよ。ほとんど高知中を歩きまわた。そうすると,山の状況が酷いっていうのがよく分った。手入れされてない,産廃の不法投棄の場になっている。どうもこれは木造建築だけじゃなくって,林業そして国土保全の問題になると大げさに考えたわけですよ。
調べ始めたら林業にだんだん首突っ込んでいって,製材屋さんの本を一冊書いたり,2年ぐらい前かな,森林組合長で高知県の面白い人がいて,その人の半生記を本にするという,これは俺は原稿書かなかったけど,ほとんど取材に同行して編集した。
布野:そうすると,この四半世紀のベースは高知で,木造で,林業で,というのでずーっと来た。すごく一貫しているよね。
中谷:それで,その間に4年ぐらいか近代建築に連載したんだ。
布野:それ本にしなくちゃ。
中谷:何時の間にか,『近代建築』はPDFでアップしているみたいだけどね。誰でも見れるみたいよ。
布野:そういうのも,新メディアではアレンジして使おう。それを例えば岸君がコメントするとかね。

川床:武蔵美で,長谷川堯さんに近代建築論を教わったんですよ,直に。助教だったかかなー,その後教授に。
布野:非常勤だと思うよ 。
川床:それで,建築って文学とくっ付いちゃってもいいんだとか,そういうことが初めて分ったわけ。それから堯さんとは長いお付き合いになって。2年の時に坂本一成さん,当時28才に図学,3年から竹山実さんに設計計画,織本匠さんに構造力学を教わりました。
布野:磯崎さんはいなかった。
川床:ちょうど入れ替わったところだった。
布野:川床さんも図学やったんだ。
川床:必修だもん,構造も。途中は省くけど,いよいよ卒業しなければいけなくなるじゃん。その時に卒制ってあるんですよ。
布野:優秀賞をとったと書いてある。
川床:竹山ゼミだったんだけど,先生ねー卒制って論文だけでやらしてくださいよと言ったら,例がないって・・・。
布野:武蔵美だと,珍しいよね。
川床:そう,そしたら,ちょっと教授会で相談すると言って,何とかそれでもいいことにした,例外でということになった。その時に初めて図書館に行って世界建築家全集とか日本建築家全集とか,幾つかの全集を全部見た。面白かったのがガウディと白井晟一だけだった。ガウディは行く金がない。
布野:旅費がない。
川床:白井だったらヒッチハイクでも行けるじゃん。で実際見て回った。それで白井晟一論を書いたわけ。そしたら,たまたま大学賞になっちゃった。
布野:それまだある,持っている?
川床:図書館にあるけど,黒表紙の金文字で製本されてる。竹山先生が,アルバイトしてたジャパン・インテリアの編集部に電話してきて。君の論文,大学賞になったよって言うから,賞金は?って直ぐ聞いた。だけど,賞金なし,メダルと賞状だけだった。
布野:大学では,普通出ないよ。
川床:図書館がそれを製本するというけど一冊だけで,俺にもくれないわけ。それをオマケにもう一冊作ってくださいって二冊作ってもらった。もう一冊の方を先輩の柿沼さんという白井晟一さんの大番頭がいたんだけど,柿沼さんに送ったら,2,3日したら,ジャパン・インテリアに白井さんから電話が入って,川床さん白井さんよと言うから,はいはいって出たら,「中野の白井じゃがー」と言う。「白井晟一じゃがー」って言って。
布野:直接掛ってきたの。すごいなあ。
川床:それで頭真っ白になっちゃった。「あれ読ませてもらった,なかなか面白いじゃないか,だけどまだ勉強が足らんねと,一度遊びにきなさい」と言われた。
それから,なかなか行けなくってね,行ったってよしよしで終わりだからね,それから2年後に初めて会ったんですよ。その間にインドに行ったりしてた。
布野:それまだインテリアに入る前?
川床:アルバイトの時に卒論が通ったのね。それで,なし崩しに入っちゃった。なんでジャパン・インテリアに入ったかと言うと,竹山実先生が,よく何とかの本読んだか?とかと言うんだ。何か俺を,なんていうかな。編集に引っ張ってやろうという感じだった。
布野:やっぱり先生なんだ。
川床:『ジャパン・インテリア』なんて俺全く知らなかった。デザインの雑誌なんだけどアルバイトに行ってくれって竹山さんに言われた。
編集長の森山っていうのに頼まれたから,ちょっと行って来てと言われて,電話かけて,六本木という所に初めて行ったんだよ。何で行ったかと言うと,卒論書くのにね,小さな出版社だけど。建築雑誌とか関連書籍とかが有るんですよ。あとね,コピーがただだったんですよ。
布野:コピーただ!
川床:これはものすごいよ,俺にとってはさー。ありがたい事で。
布野:我々の世代は学費払っているんだから,コピー代で取り戻そうという時代だったよ。
川床:夜中コピーとりまくり。
布野:とりまくる世代なんだよ。僕も図書館に入ってコピーしまくっていた。
川床:それで卒論を書いたわけ。
布野:俺も一緒だよ。コピー取って修論書いて。
岸:1975年より前から月刊インテリアに。
川床:4年生の時から卒論のために行ったわけ。車で配達してこいとか,そんな事ばっかりやっていた。編集部に入れという事になって。ちょっとお使いに行ってこいと倉俣史朗とかね,そういう所にいくようになった。直ぐ近くだから写真借りに行ってこいとか,いろんな人に会うことになるんですよ。だけど,インテリア・デザインって全く興味なかったんですよ。建築も白井晟一以外まったく興味なかった。
布野:初めて聞いた。
川床:インテリア・デザイン,そういう世界があるんだーと分って,それもまーいいか,雇ってくれるならと思って入ったんですよ。それが運の尽きなんですよね。
編集長の森山和彦さんというのが,桑沢で倉俣さんと同期なんですけど建築家嫌いなんですよ。ジャパン・インテリアって建築一切扱わない事にしてた。
毎号月刊で100頁も出せる,建築もいいよねと思って,いろいろ考えて,編集長を説得して,建築家の作品のシリーズを出し始めたんですよ。それが10人ぐらいやったかな。硬派と軟派に分けて,硬派は全部多木浩二さんに書いてもらって,軟派は全部植田実さんに書いてもらいました。
布野:中谷さんに会ったのは?
川床:それ始めた頃。
中谷:竹山さんの取材で打ち合わせに行くという時に,何時に来いというので行ったんよ。普通はね設計者はね,編集者は全部ずらすんだよ。ところがねー行ったら川床と野崎が居て。
布野:そういう事か。なるほど,流主水成立の出会いは。この辺だな。
川床:そこで初めて伊東豊雄とか毛綱毅曠(当時はモン太)とか六角鬼丈(当時は正廣)とかいろんな人たちに会ってさ。インタビューみんな面白くってさー。
布野:そうだったんだよなー。みんな面白かった。
川床:ジャパン・インテリアなくなって。いろいろあって。それで82年に編集会社を作ろうと思ったんですよ。それは何でも編集しますという会社。
布野:メディア・ギルドでしょう,これいい名前だなーと思ってた。
川床:英語とドイツ語の変な名前なんだけど。何でも編集します。建築雑誌とかデザイン雑誌は喰えないんですよ。
たまたまリクルートとのコネが出来たので,電通とか,手当り次第に編集しますと言って営業した。ただ社員は10人以上に絶対しないと決めたんですよ。責任とれないので。だけど10人喰わせなきゃいけないんで。何でも編集しますというのを方針にした。
何でも編集しますと言っていたら,要するにコンサル業務みたいなのが凄く増えていくんですよ。行政からいろんな相談が来るようになった。分りました,大丈夫ですよって言って,とにかく頼まれたらやったこと無い仕事でも,絶対受けるんですよ。
これ前にやったと思ったら,断るんですよ。例えば,日経アーキテクチュアの久留宮編集長が,新しいデザイン雑誌をつくるんで,ちょっとやってくんないかーと言ってきた。『日経デザイン』っていうんだけど。
布野:できたの?
川床:いろいろ事情があって,お断りしました。まだあるのかなあ。
布野:一番バブリーな時かなあ。1988年,I.D.L.情報デザイン研究所設立とある。この辺じゃない。1989年,電通・環境設計室コンサルタント,フランス行ったり。
川床:その前かな,『情報としてのデザイン』(1986年)というの作った。
要するに,何でも編集会社やっていたら。メディア・ギルド渋いっていう感じになって来て。情報デザイン研究所ってたら,変な話が一杯来るようになった。それで何でもかんでもやっていたら,疲れちゃって,何やっているんだろうなーと・・・。
ぽーんと飛ばすと,6年ぐらい前に,突然癌であと3ヶ月から6ヶ月ですとか言われたんだ。
布野:何歳だった,何癌?
川床:喉頭癌,65歳。それで記憶がほとんど無くなって。
布野:十分,鮮明だよ。
川床:都合の悪い記憶は全部忘れた。
布野:レジェンドはそれでいいんだけど。
川床:ヨーロッパと電通の関係でヨーロッパのなんだのかんだのとか,いろいろやっていたけど,病院に入った時に,会社とか全部整理してね,みなさん後は自力でお願いしますと。
川床:それで,一切お仕舞いと思っていたら,ここからまた松葉一清が出て来るんだよね。
布野:松葉一清が亡くなったのは,去年の2月だよね(2020年2月)。
川床:なんかあると,俺に仕事もってくるわけ。『世界のニュータウン』(1994~96年)だとか,『日本の都市景観100選』(2001年)だとか。また武蔵美の芦原義信の大展覧会やるからね,監修図録やってくれと言って,『芦原義信建築アーカイブ展』(2017年)は戸田ツトムと作ったの。
布野:松葉と知り合ったのはいつ頃なの?朝日新聞から武蔵美(2008年)に移ってから?
川床:朝日の頃,ガリガリの新聞屋さんだったよね。
布野:松葉一清というのは京大建築科卒。朝日の美術系担当は大西若人,今,彼が一人で書いている感じがあるね。
川床:松葉の話になると長いのでやめて,あいつが亡くなる一年半ぐらい前に,安藤さんの本を持ってきたわけ。『安藤忠雄 建築家と建築作品』(安藤忠雄・松葉一清共著,鹿島出版会)。松葉から。それで,話聞いたときに断ったのは,体力的に無理なので,やめておくと,言ったら,1ヶ月ぐらい経ってまた頼んできて,何とかしてよ,となって。
布野:編集者として見られるるってことだね,基本的に。
川床:そこで条件を付けて,病み上がりだしね,大阪にはもちろん行かないし,出来る範囲なら手伝うということにしたわけ。そしたら,もうメールと郵便物が山ほど来ちゃってさ,えらいことになった。めんどくさいから飛ばすと,安藤さんの新国立美術館の展覧会に間に合うように妥協してくれって,それが2年ぐらい前。
布野:黒川紀章の遺作ね,新国立美術館。
川床:ゲラ見たら,いつの間にか俺は責任編集になっていて。それで,新国立の展覧会の前の晩に納品したんですよ。
岸:一番苦労してつくった本は何ですか?
川床:しいて言えば,並河萬里の写真集(『神々の座 出雲』六耀社,2014年)かなあ。並河は10年ぐらい住んでいたの,あの辺に,隠岐にも。
布野:僕は,出雲だから並河萬里は知っている。川床が企画編集したことは今認識した。
川床:長い事編集やったけど,これは本気で作りました。
並河さんの奥さんから今まで書いた原稿,ビデオ全部預かって,全て目を通したわけ。並河自身が書いた言葉を,時々写真に載っけてもいいかって許しを得て,作ったわけ。写真の上にナレーション入れるというね。
中谷:高松伸作品集『王国』もあるね。
川床:編集者が何をするかという話をひとつだけすると,高松の写真を撮るのに村井修さんに通ってもらったんだけど,最初に頼んだのは4×5(シノゴ)使わないでってこと。4×5使うと新建築になっちゃう。
岸:4×5使わないで何で撮ったんですか。
川床:35(サンゴ)。
岸:35で撮る,へーえ。
川床:村井さんて,ずーっと新建築のね,4×5王国を作った人なんだけど。俺はそれを全部やめてくださいと言った。すごい写真ができました。おかげで村井さんとは中野の寿司屋でずいぶん打ち合わせ?ができました。最近で言うと,たまたま日本橋の高島屋デパートから年間企画を頼まれたときに,5人のデレクターを僕が選んで。その人たちがまた4,5人,ゲストを選ぶんだよ。
僕が真っ先に長谷川堯さんを選んだんですよ。直ぐメールして,そしたらかなり状況が悪くって。それで,松隈君にやらしてくれって堯さんが言ってくれたんですよ。で,松隈さんに,俺の企画通りに藤森さんとか陣内さんとか,全部入れてもらって。
その後は,柏木博さん,北川フラムさん,近藤康夫さん,橋爪紳也さんにお願いして。
高島屋の仕事を1年半ぐらいやらせていただいて,ずいぶん楽しませていただきました。それで,その後は一切仕事はしてないですよ,無職無収入です。
文責 布野修司
国際クリーンエネルギーデーにて:地域の取り組みがエネルギー生産の空間的影響にどう対応するか |ArchDaily

ソーラーパイン/HGアーキテクチャー。画像©:シン・ギョンスプ
1月26日は国際クリーンエネルギーデーであり、石炭、石油、天然ガスなどの化石燃料から、温室効果ガス排出量が少なく汚染物質の少ない発電システムへの包括的な移行を目指す取り組みです。「クリーン」という用語は、採掘的で有限かつ枯渇可能なエネルギー源から、再生可能資源に基づくシステムや自然プロセスに組み込まれたエネルギーの捕捉に向けた根本的なシフトを示しています。気候変動に直面する世界において、クリーンエネルギーは排出削減と信頼できる電力へのアクセス拡大に重要な役割を果たしています。しかし、「クリーン」とラベル付けされても、これらのシステムはその生産、導入、商業化に伴う影響から免れるわけではありません。この文脈では、空間、物質性、居住に関する建築知識が、時間をかけて持続可能なエネルギーシステムへの移行を支援する上で重要となります。国連が述べているように、科学的根拠は明確です。気候変動を抑制するためには化石燃料への依存を終わらせ、建物は清潔でアクセスしやすく、手頃で持続可能で信頼性の高い電力源によって暖房、照明、電気化されなければなりません。

ヘフナー・ヒメネス・ベッケ・ヤロシュ・ランチャフツァルヒテクトゥル;エネルギー山、ゲオルクスヴェルダー、ドイツ。画像:©ハンス・ヨーステン
地球を覆い太陽の熱を閉じ込める温室効果ガスの大部分は、特に化石燃料を燃やして電気や熱を生み出すエネルギー生産によって生成されています。この世界的な問題をさらに悪化させているのは、エネルギーインフラにおける持続的な領土不平等であり、多くの地域が日常生活に依然として汚染燃料に依存しています。この依存は貧困の永続化に寄与しており、信頼できる電力へのアクセスが限られていることで教育、医療、経済的機会が制限されています。建築や都市計画は、すでに一人当たりの再生可能エネルギー容量の継続的な成長によって支えられているエネルギーアクセスの拡大だけでなく、エネルギー効率の向上にも貢献できます。これは、交通、建物、照明のより効率的な技術を通じて、同じ出力を低エネルギーで実現することを含みます。異なるエネルギー源がどのように機能し、それらが建築環境にどのように統合できるか、そしてそれぞれに伴う環境への影響を理解することは、効果的かつ公平な移行に不可欠です。
州、都市、産業、コミュニティが世界中の気候変動対策の取り組みを強化する中、以下のセクションでは、設計段階でエネルギー源の影響を検討するための2つのアプローチを提示します。1つ目は、地域的な視点からエネルギーの生産と分配を検討し、インフラが地域および地域レベルで景観、生態系、不平等のパターンをどのように形成するかを検証します。2つ目は、エネルギーが捕捉・貯蔵・消費される建築的・技術的装置に焦点を当て、その設計、配置、物質性が生態系にどのように影響するかを考察します。

今日の一般的なクリーンエネルギー源は主に再生可能であり、風力、太陽光、地熱、水力発電などです。国連に認められている他のエネルギー源には海洋エネルギーやバイオエネルギーがあります。これらすべてのシステムは、エネルギーを回収、処理、輸送、利用するための新しい建築やインフラを必要とします。「クリーン」とラベル付けされているにもかかわらず、これらの戦略は広大な土地や広大な水域など希少資源の集中的利用に依存していることが多いです。この依存は「犠牲地帯」と呼ばれる地域を生み出します。これは低所得コミュニティが多く住む地域で、物質的・環境的な恒久的な劣化を経験し、最終的に地域の生活の質を低下させます。影響は直接的に人間的であり、居住環境における領域的、視覚的、聴覚的条件の変化や、生態系のバランスを維持する動植物種への損害によるものとなります。その結果、犠牲ゾーンは、回収されたエネルギーがどれほど「クリーン」と見なされていても、永続的かつしばしば国境を越える領域不平等の現れとなるリスクがあります。

ソンブラパビリオン / MVRDV。画像©ヤープ・ヘームスケルク

ヘニング・ラーセン著『KlimaKover』。画像©:クリス・ペレス
これらの課題への対応は、より地域に根ざし、より侵襲的でない方法で日常のニーズに応えるインフラソリューションを重視する規模の変化にますます焦点が当てられています。このアプローチは循環思考を含み、地域の文脈から解決策が生まれ、長距離の採掘や輸送の必要性を減らします。最近の例がこの変化を示しています。バーレーン王国のパビリオンである2025年ヴェネツィア建築ビエンナーレの最優秀国立館に贈られたゴールデンライオンは、受動的な戦略を通じて公共空間の温度を下げるためのインスタレーションを紹介しました。同様に、ヘニング・ラーセンのKlimaKoverはモジュール式で低消費電力のシステムで、空気を機械的に冷却することなく熱の緩和を提供します。また、ヴェネツィアでは、MVRDVがSOMBRAパビリオンで動力学的適応を通じた環境応答性を探求しています。より大規模に見ると、フィンランドでは地元の暗号通貨マイニング作業による廃熱が既存の地区暖房システムと統合され、約8万人の住民の住宅を暖房するために利用されており、従来型ボイラーへの依存を大幅に減らしています。
イタリアのファーノでの考古学的発掘調査では、ヴィトルウィウスが記述した大聖堂が明らかになりました。アーチデイリー
Archaeological Excavations in Fano, Italy, Reveal Basilica Described by Vitruvius | ArchDaily
イタリアのファーノでの考古学的発掘により、ヴィトルヴィウスが『建築について』で記述したバシリカが発見されました。これは建築的に重要な発見であり、ローマ建築家に確実に帰属できる唯一の構造物です。ピアッツァ・アンドレア・コスタの再開発工事中に発見されたこの発見は、ヴィトルヴィウス理論を建築形態に翻訳した稀有な物理的証拠を提供し、ローマ建築設計、比率、建築慣行に関する新たな洞察をもたらしています。この発表はモンタナリ・メディア・ライブラリーでの記者会見で行われ、イタリア文化大臣アレッサンドロ・ジュウリを含む地元、地域、国内の機関の代表者が出席しました。
この大聖堂は、ウィトルヴィウスの文献記述と考古学的事実を直接比較する機会を提供します。建物は長方形の平面で、周囲の列柱廊で区切られており、長辺に8本、短辺に4本の柱があります。最終的な同定は、角柱の発見によって確認され、構造物の正確な向きと隣接する2つの公共広場間の都市構造内での位置が特定されました。柱の直径は約5ローマフィート(147〜150センチメートル)で、高さは約15メートルに達したと推定されており、上部を支えるための柱とピラスターのシステムによって支えられています。
この発見は、数年前に始まった長期の研究プロセスを基盤としています。2022年にヴィトルヴィオ通りで行われた発掘調査では、大規模な壁構造物や精巧な大理石の床が明らかになり、高級公共建築物の存在を示し、この地域の重要性を予見しています。バシリカの確定した位置は、ファノの既知の考古学的証拠、特に聖アウグスティヌス教会の地下構造物に対する新たな解釈枠組みを提供し、都市のローマ時代の層をより一貫した解釈を可能にします。
地域および地方自治体は、この発見がもたらす文化的・都市的な意味合いを強調し、ファノを古典建築や遺産に関するより広範な議論の中で再位置づける可能性を指摘しています。現在進行中の調査は、イタリアの国家復興・回復計画(PNRR)を通じて資金提供されたピアッツァ・アンドレア・コスタ再開発の一環として行われており、ヴィトルヴィウス大聖堂の建築的、歴史的、都市的背景をさらに明らかにする見込みです。